魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【大東亜戦争は何故起きたか?】③

2015-08-21 09:45:33 | 歴史
 江華島事件とは、1875年(明治8年)に、日本の軍艦雲揚号が朝鮮の開国を要求する為に江華島砲台と交戦し一時占領した事件である。この結果として,翌76年に,釜山と外二港の開港等を内容とする江華条約が締結された。

 日本は、当時、鎖国していた韓国に苦慮していた。韓国は当時、ロシアの南進を食い止めることの障碍と成っていたのだ。その原因は、朝鮮王朝がロシアの脅威にも拘らず、内紛常態だったからです。もし日本が韓国を開国させて面倒をみなければ、日本の独立も危うくなりかねなかった。

 そこで、日本は韓国の固い門戸を抉じ開けることにしたのです。韓国は、しぶ々、結局日本と友好条約を結ぶことに応じました。これを「江華条約」と言う。

 当時、朝鮮の宗主国であった大清国は、此の条約に関して大いに不快感を示したが、此れに対抗する余裕が無かった。当時の中国本土は、Annam地域の仏、露の南進やイリー地域の暴動等の争いに直面した多くの困難を抱えていました。然し、こんな状況下の清国でも、日本に立ち塞がった人物が李鴻章であった。


 我は言い忘れたが、この「江華講和」を切っ掛けとして、英米も1882年に合い続いて朝鮮の開国条約を締結した。1882年壬午の年に,朝鮮の首都漢城で起きた事変が、壬午軍乱であった。親日的な閔妃政権の軍制改革に反対していた大院君が軍隊を動かし,日本人軍事教官を殺害し,そして日本公使館焼き打ちに発展したが、それは失敗した。清国軍は機微に行動し、大院君を逮捕して、日本に恩を売る形を作って、日本を牽制した。

 韓国は、首謀者への罰、日本への補償と日本使節団を保護する日本の軍隊の永住を約束させられました。然し、清国は朝鮮の支配を強化した。


 クーデターによって守旧派を一掃し日本と協力して近代化を図ろうとした金玉均は、1894年3月28日に上海で凌遅刑に処せられる。金玉均の改革が成功したならば、日韓合併は無かった。清国が金玉均を妨害して、日韓合併を誘引したのだ。

 金玉均が、起こしたこの事変を甲申事変という。この事変を境に朝鮮半島に置ける日本の影響力は影を潜めた。朝鮮半島の開国を願う日本は、伊藤博文を送り、半島の宗主権を強めた清国の李鴻章との交渉に当たらせた。

 伊藤博文は、辛うじて半島に事変在る時の日清互いの軍の紳士協約を結ぶことに成功した。其の協約は、「半島に事変が在った場合,日清両国の軍が派兵をするときには、お互い連絡を取り合い、もし、その連絡無く派兵されたなら、軍を撤退させる。」とするものだった。後に、この条約が日清戦争の原因となった。


続く


最新の画像もっと見る

コメントを投稿