国家が守るべきものは国民で、国家は国民だけで構成されるものである。 外国人には彼等が属す其々の国家があり、あらゆる人の「国民としての人権」は 其々の国で守られるべきものである。 国民としての基本的な人権は憲法で守っているはずなのに、憲法を出鱈目に解釈して国民としての権利を外国人にも適用する等言う輩は、雅に国賊である。地方自治体には、一般市民が知りえない国政に関する情報も入って来る。 ところが、此の監理をきちっとしている自治体は少なく杜撰な監理の自治体も多いのである。自治体に外国人を採用するなどと言うことは、国を売る行為に繋がるものである。 個人情報保護法も紛って読み取られ、本来情報を掌握している者が杜撰な管理をしてはいけないとの規定が定められているものなのに、自治体の職員採用時にも、被採用者の家族構成も訊けないなど言って憚らない採用担当も現実にいたのである。これでは、工作員も自治体に簡単に入り込めてしまうのだ。
国は国民だけからなるものだと言うことは、小学生でも当然知りえていることであるのに、知ったかぶりを決め込んで、進歩派を気取って自らも含む国民の権利も放棄させて、悦に言ってる此の馬鹿供は祖先に顔向け出来無い 糞馬鹿なのだ! 日本の危機は朝鮮人供によって齎されたものであるが、此の馬鹿供が其れを助長してしまったのだ。
国民としての人権は、其々属す国が守るべきであり、国が如何あれ取りも直さず守られるべき、人であることの人権と較べれば、元々限定されたものなのだ。その限定の原則を、外してしまった此の国は最早国家とは言えないものでとなってしまった!まるで、ただの烏合の衆の集まりだ!
だから日本は此処最近、全く混迷し続けている。こんな体たらくを何時までほおって置くわけには行かないのだ!どんどん日本を壊して行く政治屋供は国賊として、殺されても文句を言う権利も全くない蛆虫だ!
さて愈々大詰めになって来た。此の史実の話も残り少なくなってきた。
小村寿太郎は戦勝した筈の日本が、ポーツマス条約で、莫大な戦費の賠償も取れずに露スケに苦杯を舐めたことで国民に顔向け出来無い我が身の不甲斐なさに苛まれた。それどころか、露スケへの戦後処理への日本側の要求で適ったものは、元々露スケの南下により、露スケが強引に分捕った領土の返還のみに留まったのだ。小村は日本に帰ると国民に対する自らの不甲斐なさで泣き崩れたとの逸話も残っている。
その上、敗戦国であった筈の露スケの野望は留まることを知らず、満州への侵略を準備しつつあった(此れが後の「満州国建国」の直因となった)のだ。小村は此の儘では東亜の安全は保たれず、露スケの南下を止めるには、如何しても半島の併合は必要だと考え、直ぐにも併合に向かって、政府の方針を纏めんと肚を決めた。
明治四十二年三月、外務大臣小村寿太郎は、「韓国併合に関する件」を倉知政務局長に起草させ、此れに手を加え桂首相に提出した。「適当の時期において韓国の併合を断行すること」を主眼としたものであった。この時伊藤は三年半に亘る統監の地位を御役御免になって、副統監であった曾禰荒助にその地位を譲ることになっており、七月の閣議で正式に決定された。伊藤は此の時期より「日韓一家」と言う家族主義を押し出して、小村を後押しするような姿勢を採った。
此れより先に日本には既に右翼の一進会や黒龍会などが萌芽しており、日韓合邦運動を起こしていたのだ。
さて、国際社会、とは言っても毛唐列強なのだが、これ等の非難を如何して交して韓国の併合化を彼等に納得させるかが難問であった。併合の時期を見計らうことも重要であった。小村は巧みな外交交渉で、露と英の合意の取り付けに成功した。
愈々合併への推進が始動が為され、着々と推進して行った。
先ず手始めに、併合反対論者の曾禰荒助統監を退け、代わって陸相寺内正毅を統監として差し向け陸相と兼任させた。次に打った手は、韓国政府の警察権を全面的に統監府に移し、同時に憲兵体長に統監府警務総長を兼務することにさせ、半島全土の警察権を憲兵に握らせた。
此の憲兵隊長には一筋縄の男でない人物が選ばれた。欧州に亘ってスパイ活動で名を覇している明石元二郎を此れに充てたのだ。明石は明治四十年に少将となり、同時に駐韓憲兵隊長に任じられていた。明治四十二年に彼は朝鮮駐箚参謀長となっていたのだが再び憲兵隊長に任命された。このことは『小村外交史』に載せられている。次の書き込みで其れを記す。
「寺内は機まさに熟したと認め、八月十三日を以って小村に電照して曰く、『愈々来週には着手せんとす。格別の故障無く進行せば週末には完了すべし』と。小村答電して曰く『準備総て整い居れり』と。ここにおいて寺内は十六日李総理を統監邸に招き、『現在の制度にありては到底施政改善の目的を全うすること能わざるに鑑み、将来韓国王族の安全を保障し韓民全般の福利を増進せんが為には、須らく両国相合して一体となれり、以って政治機関の統一を図るの外ない』と述べ、『合意的条約を以って相互の意思を表示するの穏当なるを認めたのである』と告げた」
『韓国併合に関する条約』の第一条を覗くと「韓国王陛下は韓国全部に関する一切の統治権を安全且つ永久に日本帝国天皇陛下に譲与」と書かれている。八月二十二日愈々此の調印を観たのである。
韓国人の併合への是是非は当然分かれ、又、驚くべきは韓国民の大多数は此の併合に無関心であった。日々窮乏する暮らしを送る民衆にとっては、為政者が誰あろうと関るべきもので無く、王政に悠久の年月苦しみ抜かれた民衆の多くには、新しき為政者に微かながらも期待を寄せるものであった。ただ、此の併合によって王族達の行く末は確保されようと、我が此の先からの身を不安に思う輩が不平を上げて反対の気勢を彼方此方で上げたのだ。
さて、此れで半島のことは暫く総て上手く行ったとは言えなかった。
他所の国家を併合し、今迄の悪弊を正して直して行く為とは言え、その為に起こる弊害のあらゆる総てを予測し、対拠して行くことの難しさを日本はたっぷり味合わされるのである。
続 く
国は国民だけからなるものだと言うことは、小学生でも当然知りえていることであるのに、知ったかぶりを決め込んで、進歩派を気取って自らも含む国民の権利も放棄させて、悦に言ってる此の馬鹿供は祖先に顔向け出来無い 糞馬鹿なのだ! 日本の危機は朝鮮人供によって齎されたものであるが、此の馬鹿供が其れを助長してしまったのだ。
国民としての人権は、其々属す国が守るべきであり、国が如何あれ取りも直さず守られるべき、人であることの人権と較べれば、元々限定されたものなのだ。その限定の原則を、外してしまった此の国は最早国家とは言えないものでとなってしまった!まるで、ただの烏合の衆の集まりだ!
だから日本は此処最近、全く混迷し続けている。こんな体たらくを何時までほおって置くわけには行かないのだ!どんどん日本を壊して行く政治屋供は国賊として、殺されても文句を言う権利も全くない蛆虫だ!
さて愈々大詰めになって来た。此の史実の話も残り少なくなってきた。
小村寿太郎は戦勝した筈の日本が、ポーツマス条約で、莫大な戦費の賠償も取れずに露スケに苦杯を舐めたことで国民に顔向け出来無い我が身の不甲斐なさに苛まれた。それどころか、露スケへの戦後処理への日本側の要求で適ったものは、元々露スケの南下により、露スケが強引に分捕った領土の返還のみに留まったのだ。小村は日本に帰ると国民に対する自らの不甲斐なさで泣き崩れたとの逸話も残っている。
その上、敗戦国であった筈の露スケの野望は留まることを知らず、満州への侵略を準備しつつあった(此れが後の「満州国建国」の直因となった)のだ。小村は此の儘では東亜の安全は保たれず、露スケの南下を止めるには、如何しても半島の併合は必要だと考え、直ぐにも併合に向かって、政府の方針を纏めんと肚を決めた。
明治四十二年三月、外務大臣小村寿太郎は、「韓国併合に関する件」を倉知政務局長に起草させ、此れに手を加え桂首相に提出した。「適当の時期において韓国の併合を断行すること」を主眼としたものであった。この時伊藤は三年半に亘る統監の地位を御役御免になって、副統監であった曾禰荒助にその地位を譲ることになっており、七月の閣議で正式に決定された。伊藤は此の時期より「日韓一家」と言う家族主義を押し出して、小村を後押しするような姿勢を採った。
此れより先に日本には既に右翼の一進会や黒龍会などが萌芽しており、日韓合邦運動を起こしていたのだ。
さて、国際社会、とは言っても毛唐列強なのだが、これ等の非難を如何して交して韓国の併合化を彼等に納得させるかが難問であった。併合の時期を見計らうことも重要であった。小村は巧みな外交交渉で、露と英の合意の取り付けに成功した。
愈々合併への推進が始動が為され、着々と推進して行った。
先ず手始めに、併合反対論者の曾禰荒助統監を退け、代わって陸相寺内正毅を統監として差し向け陸相と兼任させた。次に打った手は、韓国政府の警察権を全面的に統監府に移し、同時に憲兵体長に統監府警務総長を兼務することにさせ、半島全土の警察権を憲兵に握らせた。
此の憲兵隊長には一筋縄の男でない人物が選ばれた。欧州に亘ってスパイ活動で名を覇している明石元二郎を此れに充てたのだ。明石は明治四十年に少将となり、同時に駐韓憲兵隊長に任じられていた。明治四十二年に彼は朝鮮駐箚参謀長となっていたのだが再び憲兵隊長に任命された。このことは『小村外交史』に載せられている。次の書き込みで其れを記す。
「寺内は機まさに熟したと認め、八月十三日を以って小村に電照して曰く、『愈々来週には着手せんとす。格別の故障無く進行せば週末には完了すべし』と。小村答電して曰く『準備総て整い居れり』と。ここにおいて寺内は十六日李総理を統監邸に招き、『現在の制度にありては到底施政改善の目的を全うすること能わざるに鑑み、将来韓国王族の安全を保障し韓民全般の福利を増進せんが為には、須らく両国相合して一体となれり、以って政治機関の統一を図るの外ない』と述べ、『合意的条約を以って相互の意思を表示するの穏当なるを認めたのである』と告げた」
『韓国併合に関する条約』の第一条を覗くと「韓国王陛下は韓国全部に関する一切の統治権を安全且つ永久に日本帝国天皇陛下に譲与」と書かれている。八月二十二日愈々此の調印を観たのである。
韓国人の併合への是是非は当然分かれ、又、驚くべきは韓国民の大多数は此の併合に無関心であった。日々窮乏する暮らしを送る民衆にとっては、為政者が誰あろうと関るべきもので無く、王政に悠久の年月苦しみ抜かれた民衆の多くには、新しき為政者に微かながらも期待を寄せるものであった。ただ、此の併合によって王族達の行く末は確保されようと、我が此の先からの身を不安に思う輩が不平を上げて反対の気勢を彼方此方で上げたのだ。
さて、此れで半島のことは暫く総て上手く行ったとは言えなかった。
他所の国家を併合し、今迄の悪弊を正して直して行く為とは言え、その為に起こる弊害のあらゆる総てを予測し、対拠して行くことの難しさを日本はたっぷり味合わされるのである。
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