太平洋戦上で日本軍惨敗す
独軍がソ連に侵攻して敗れたのを観て、日本は十分は警戒し、ソ連に軽率に侵攻しかねた。英仏など欧州の国々がアフリカでの戦争に感けている事に乗じて、東の患いに非力であることを善いことに、日本人は太平洋戦争を先ず起こそうと決定した。関東軍はそこで南下命令を受けた。 1941年12月7日、日本は真珠湾を奇襲して、太平洋戦争を起こす。翌年の6月、日本軍はミッドウェイ海戦に惨敗して、侵攻戦略を思い留まらされ、転じて守勢をとった。関東軍は未だに突発的戦術以前と独断しかねなかった。1942年の下半期、日本の《陸軍総合作戦方案》は専ら関東軍を指定して、”正しくソビエトの進軍を防御して、北方の安寧を維持する”とし、一途に関東の兵力の拡充を謀った。1942年10月、日本関東軍の司令部は関東を完全に手中に収めんと総指令部へと昇格し、2方面軍司令部と重装備軍を増設し、関東軍司令部および第2飛行軍司令部を防衛した。 1943年の下半期から起きた太平洋戦での劣勢を挽回せんと、日本の大本営は続々と関東軍から兵力を引き抜いて太平洋戦場に増援することを開始して、此れ等”精鋭の師”を以って自ら招く作戦の失敗を挽回せんとしたのである。1945年1月、大本営は更に又関東軍から13師団と特設の高度な機械化した常設の兵団を持ち込んで太平洋の戦場を支援させようと引き抜いた。しかし、関東軍の支援をしても太平洋戦争の敗色を逆転しかね、ただ華々しくもあたら無駄な作戦を重ねて惨敗の憂き目に遭うばかりであった。4月の初め、米軍は沖縄島を攻略すると、同時に日本本土への空襲を開始したので、日本は図らずも兵力を本土決戦へと配備させ、この為関東の軍から7個師団の抽出を行い、同時に関東を死守する為に温存していた兵力は粗1/3までに減って、殆どの戦略物資及び大量の兵員を国内に呼び戻した。続く。
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