魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相 第四巻の三の②

2007-09-18 11:55:44 | 魂魄の宰相の連載

王安石が為した一大改革によって、即座に小役人にも俸禄が出され、同時に法令を制定して、着服を厳禁して、更に各種の低級な官吏に対しては給料を増加して、彼らの生活の状況を改善したのであり、これらの措置は人材の育成を奨励することに役立って、道徳の観念を広め、汚職を防止することに役立ったのだ(利益至上主義の世では王安石のこの施策も虚しい結果を齎す)。

『然して、王安石は、決して役人の贅沢を奨励した訳では無く、徹底して人員の省力化を目指し少数精鋭主義を目指したことを明言しておこう』。

王安石の満足のいく報酬を獲得させる方針を打ち立てた後にも依然として酷い貪りは続いたので、法に反して常軌から外れる官吏は容赦なく厳罰に処して、甚だしきに到っては小さい罪でも法で定めた決まり通りに一段と厳しく重罰に処したのだ。彼は、法制で人材を大切にする余り、際立って緩過ぎるのは、実際のところ人材の育成を阻害するとも思っていたのだ。法が厳しければ、これから先人は犯す勇気が出無いのだ;法が寛大であれば、人は法に反することを意に介せずに、刑に落ちる者は更に多く為り、その上、軽罪は罪を重ね易く大きな罪を造って仕舞うので、慈愛は却って害となるのだ。

どの様に人材を鑑別して選抜するかということは全く重要な問題であった。王安石は人材を「正当な手段で採ること」に重きを措き、彼は先王を例にとって、人材を下から上まで採用選抜を行うべきと指摘して、「書類上だけで無く細かく調べ、必ず郷党における評判を訊き、必ず学校の成績を参考にし、万人が優秀だと認める者を見出し」て、真っ先に郷里の皆から推薦があって、地方や、学校の中から有能な人を選び取って、上級の者から報告させ、上級から順に考察する責任を負わせるというように、少し今日の民主集中制に類似する考えもあったのだ。

どの様に人材を選別するかということに、王安石は三つの方法を提案したのだが、一つはその者の言論を以って審査し才を知ることで、二つ目はその者の行いを観察し徳を知ることで、三つ目は何かを遣らせて実際に検証することだった。

彼が耳と目で確認した聡明さは余り当てになら無いと思っていたのは、孔子ほどの聖人でも、矢張り人であることに変わり無く、見かけで人を判断して誤りを犯すことがあったからで、最も大切なことは試してみることだと言う考えに至り、実践させてその本当の能力、その程度そして徳行を検証するようにしたのだが、実践も比較的長い間続けさせなければ、本当はその人の真実の姿を体現することが出来無いとも考えていたのだ。

王安石は科挙の試験制度に対して単に数人の試験官に依存して一、二日間のみで行われる試験では大きな信頼を寄せることは出来無いと思って異議を提出し、本当にその才徳を検証することは無理であると主張した。彼が政権を握った後では、各級の学校の制度を次第に改善することに着手して、人材を教育する部門として学校だけで育成するのでは無く、地方からも人材を選抜して、州県からの成員を学ばせ、各々の分野毎に試験して最高学府に入れ、最高学府を外舎、内舎に分け、更に内舎を上舎三等に分け、上舎生を再び上中下三等に分けて、科挙の上級試験を経ら無くとも、直接官職を授与することが出来る制度を創った。各級の学校を通じて系統的な育成訓練は長年に亘り、また幾重にも淘汰することを通じて最終的に総ての才能を判断して上等の程度と認める遣り方は明らかに信頼出来るのであって、其れまでの科挙制は一回試験に合格して一生が決まるようなものであったので(公務員試験は当にこのようだ)、新しい試験と選抜方法は暫時能力を明らかにするもので明確に合理的なものであったと言える。最高学府で上等な人物を直接官に授けることが出来るようにしたことで、既に科挙の最終合格者と同等な待遇を得たことを表し、王安石は学校で士と成る資格が取れて最終的に科挙に取って代わって士と成れる新しい選抜方法の構想を以前より描いていたのだが、彼が政権を握った当時は、その条件は未だ熟して無かったのだ。徽宗崇寧三年(1104)に至り、詔で「天下は学校から貢として上がった士を総て取ることを始め、然も、其々の州や郡は試験に及第して六部(中央官署)の一を試す方法を止める」とし、科挙制度に取って代わって学校が士を採る制度を設けたのだ。

王安石は更に等級別に管理する原則を打ち出して、天下には様々な問題が山積しているので、帝王が何事に拠らず必ず自身で行わなければ気が済まないとしても、総ての人材を一人々検証して、人材の選抜を皇帝唯一人が行うことは全く不可能なことと言え、如何して出来ようか?帝王は才能と徳行の最高位の者達を選抜し、彼らを大官と成し、彼らを任命官として、分野毎に才徳ある者を推薦するようにさせ、更に彼らに選抜された者達が次々に等級別の選抜を繋いで行けば、帝王は拱手の礼を受けて天下を治めることが出来るのだ。

皇帝が何事によらず必ず自分でやることが欠点として捉えられることの証明として、宋代の前段階では皇帝は比較的に行政の仕事に励んで、然も大方が細事まで首を突っ込んでいたのだが、実を言うと、本当は皇帝が大きな権力を他人に奪われることを恐れる余りのことで、専制君主制の考えを強化したいと思っていただけのことだったのだ。神宗も例外では無くて、大事小事総て管理していたが、実際は些事を管理していたに過ぎず、総てを管理したい為に大事を見逃していたのだ。王安石は進んで何度も諌めたが、君相が只天下の国の政治だけを管理することが理に合い、些事は官吏が処理すれば善いのであって、皇帝が気を使う必要は無いのだが、神宗は改めること無く、王安石は私達二人が疲れて死んでは何の役にもなら無いと言葉をつくして諌めたが、神宗は唯一笑に付するばかりだったのだ。そして王安石の定年退職の後では、神宗は更に大きな権限を一手に握って、技と凡庸な者を相として選び、結局体は無理を積み重ねて病に臥し、三十八歳の壮年にも拘らず早逝した。若しも、神宗が王安石の忠言を受容れて、只管、国の政治を等級別に逐次管理させていたならば、早過ぎる逝去することも無く、新法が瞬く間に道理を尽すことも無く廃棄されることなぞ有得る筈も無かったのであり、歴史は恐らく書き直されていただろうという思いも、残念乍此れは亦一つ仮定のことと為って仕舞ったのだ。


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