魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

『魂魄の宰相』 第四巻 四の⑥

2007-12-13 11:51:37 | 魂魄の宰相の連載

 前文で既に述べたが、儒家はずっと生産労動は小人のする事だと思って卑しめた上に、如何なる技術革新もが総て悪い考えを持つ者が道家に反対し、粉砕するのに有効な手段と考えたものと決めつけるような思いがあったので、経済の発展を期待するなどということは戯言位しか考えて無かったのだ。 仏教も元来は労働には殺生も有り、生産すると言うことは利を求めることである思っていたので生産労動は全く修行を邪魔するものとして反対していた。 印度の仏教が労働に対して根本的に看方を変えたことを禅宗が知り、一日間何もせず、一日間何も食べ無いことを原則とし乍も自力で生活することを確立する為、財産を創り出す機能を持つ労働に対し極めて大きな尊重をする様に成り、最早、修行する障害とはなら無くなったばかりか、却って重要な修業の一方式と成り、言わば「見事な道は総て水を担って薪を割って」という格言が、今日も禅徒に慣れ親しまれていることに繋がっているのだ。 宋代に成ると、仏教(主流が禅宗だ)の経済の機能は一層強化されて、既に耕作していたことだけに限らず、殺生に関係がある業界以外の総ての経済に仏教の影響を見ることが出来たのだ。 

 王安石の労働観は仏教の影響を受けているのかもしれなくて、彼は労働者に対して以前より尊重し、然も同情していたのだ。 恐らく三十一歳の舒州の通判に任じた時に、彼は一首の詩を創って、道路を造る者に対する尊重を表現した。 

心を込めて県の道路を造る者

 箕は今三歳築いて、大通りを修理することに始まる。 野に在る人は如何言って、令君の心配事に助けを出せようか?

力を合わせるは無益で無く、心を打ち明けて語り合う者に如何してこれ以上求めるものがあろうや? 十年志空しく食べて、汝らに因って恥ずかしく思い起こされる。 

 道路造りの農民が三年の間一本の平らで広々とした道を修成したのだが、野の農民が愚かで無知で、役人に面倒を掛けてばかりいると誰が言えようか? 実は彼らは苦労を厭わず、功名も求めること無く力を合わせて国家に尽力して来たのだ。 この様に地に足を着けて労働し道路を造る人に比べて、王安石は自分が労働をすることも無く十年の長期に亘って官の禄を食み、何の役に立てたのだろうかと、大変恥じ入ったのだ。 この詩で王安石の心の中では決して伝統の儒家の言う君子と小人の境目が無いことが顕わされており、労働者を小人に充て、君子は独り善がりであっては為ら無いと考え、太夫達が充分な禄に比べてろくな仕事もせず、職責を尽くさ無いで徒に俸給を得てい乍、自身を気高いと勘違いしているのだが、王安石は特に下層部の人民の誠実な労働を尊敬したので、彼等は一層の尊重と賛美に値すると考えたのだ。 

 王安石が労働を尊重し、経済を重視し、義と利とを統合する思想が社会の経済の飛躍的な発展の為に最も重要な理論の基礎を打ち立てたことは、改革運動自身を遥かに上回る意義があったと言えよう。 若し、新法が長く堅持し通すことが出来ていたならば、若し、彼の新しい思想が長い間貫徹出来ていたならば、世界の歴史は塗り替えられていただろう。 

 非常に残念なのは、新法と新学が全く線香花火のように為って仕舞い、伝統の惰性が結局は優位に立って仕舞ったので、義と利とを切り離そうとする亡霊が今日に至るまで依然と存在し続いていたのであって、文革が為される迄は絶対的な扱いを受けていたのだ。 貧乏人ほど革命を望み、富者であるほど反動的であるとしたのは、社会主義が旗印とした思想が、孔子の義と利に関する観方を目標にした為で、全く古く陳腐化した筈の「義と利とが反比例とする考え」を持っていたからだ。 寧ろ資本主義の芽を摘み、社会主義の草案に徹することは、義と利を並び立て無い間違った思想の再現と為って仕舞うのだ。 徒に大量生産力を論じ、衛星を天に打ち上げ、赤旗を生み落し、確り褌を締めて社会主義を呼び掛けても、経済について疎かにして政治だけを論じているだけでは、孔孟より孔孟然とし、儒家より儒家然としているようで、丸で彼らは大量の儒学者の様に見え、全く不可解な人物達だ。  

 二十年の改革開放を通らずとも、古い思想は既に徹底的に掃除された。 ずっと以前より公言されてきた様に、私達は物質的文明(利)では西方に及ぶことが無いが、精神文明(義)では西方よりずっと強固であったのか? このように義と利とを切り離すべきでは無い! 後れた物質的文明の土台の上でも、更に高度に発達した精神文明をどの様にも作り上げられるかもしれない? 今のところ表面切って労働を軽視すると言う人はい無いが、にも拘らず本当は決して積極的に労働を尊重しては無いという知識人の立場は如何しようもなく、こんなにことで労働が尊重されていると言えようか?

 王安石は利で義を行えると言ったが、守旧派は義で利を求めたと即反論した。 王安石は大いに財の利益を談じて、伝統が現実において利を軽視する余り、彼が義を重視し無いというが、決して義を重視し無い訳では無かった。 彼は生産を増進する為の新法を推進する時、同じく分配の公平さを主張し、勢力者を抑えて、兼併を挫き折る姿勢を明かにし、官僚主義的な富豪の獲得する不合理な利益の一部を回収して国有にし、再分配を進めたので、少なからず公平さを増したのだ。 「患い無きは少なく、不公平を患う」と大いに談じて、本来理から言えば守旧派が新法によって所得分配が少しは公平に為った一時点を捉えて、新法の支持者を固めるべきであると説いたが、元々彼等は新法を忌み嫌っていたので、実際は正反対の論説を張り、彼らは新法が全く満足の行くものでは無いとの一点張りで、或者が言うところの彼らの理解した「均」は、自分達の所得を尤多くさせるものであった。 将に、この様なことに依って、守旧派は、高い利潤の軽い義を是とする真の姿を現したのだ。 王安石は利について言えば、一生清廉潔白で無私で、一文たりとも欲は無く、丞相を十年務めても家には財一つ遺さず、些かも利を口にもして無い筈の君子の輩は、馬を肥やして絹を纏い、美田と豪邸を持ち、双方は全く鮮明に対比を構成していた。 


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