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【「文科省の教育勅語に関する記事」の魚拓と考察】 ➀
教育勅語の起草と発布
明治二十年代の初めに確立されたわが国独自の近代国家体制は、政治の面では大日本帝国憲法によってその基礎が置かれた。他方、国民道徳の面からこの体制の支柱として位置づけられるのが「教育に関する勅語」(教育勅語)である。教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。また日本軍隊の創設者であり、軍人勅諭の発案者でもあるといわれる山県有朋が内閣総理大臣として参画したことも注目すべきである。教育勅語が発布されると、やがて国民道徳および国民教育の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。
※ 「教学聖旨の思想」: 世界大百科事典 第2版の解説
【教学聖旨】1879年8月,天皇の名で出された教学の根本方針。元田永孚が起草。洋風を競い智識才芸の末にはしる傾向を戒め,仁義忠孝の精神の育成を中心にすえた徳育が教育の基本であるとした。儒教主義の復活といわれている。本文につづく〈小学条目二件〉では,この仁義忠孝を忠臣・義士・孝子・節婦の画像や写真を使って〈幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメ〉るという方法が提案されている。聖旨草案を示された伊藤博文は,欧米科学・技術の急速な導入を必要とするとの立場に立ち,国教の建立は聖賢にまつべきで,政府が道徳に介入すべきではないとした。
「教学聖旨と文教政策の変化」>>>>http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317585.htm … …
※ 「伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。」☜公武合体論と開国論の開祖とも言える佐久間象山を暗殺したのは前田伊右衛門、河上彦斎等維新朝鮮閥達の手に掛かり暗殺される(此の時、人斬り伊藤博文も居たと言われてる)。
明治二十年前後において、わが国の近代学校制度がしだいに整えられたのであるが、その際国民教育の根本精神が重要な問題として論議されたのである。すでに前章において述べたように、十二年に教学聖旨が示されたが、十五年以後になると、条約改正問題を控えて欧化主義思想が国内を支配し、従来の徳育の方針と激しい対立を示すようになった。そして徳育の方針に関し、論者は互いに自説を立てて論争し、いわゆる「徳育の混乱」と称せられる状況を現出した。すなわち、十五年に福沢諭吉は反儒教主義の徳育論として『徳育如何』を刊行して、新しい時代には新しい道徳が必要であることを説き、加藤弘之は『徳育方法論』(二十年刊)において宗教主義による徳育の方策を示し、また能勢栄は『徳育鎮定論』(二十三年刊)を発表して、倫理学を基本として徳育に方向を与えるべきことを主張した。一方これらに対して内藤耻叟は『国体発揮』において教化の根本は皇室において定めるべきであるという思想を公にし、さらに元田永孚は『国教論』において祖訓によって教学を闡(せん)明すべきことを主張して、教学聖旨以来の思想を表明した。また西村茂樹は修身書勅撰の問題を提出して、徳育の基礎は皇室において定めるべきであり、明倫院を宮内省に設け、聖旨を奉じて徳育の基礎を論定すべきであると建言している。また当時の文部大臣森有礼は儒教主義を排し、倫理学を基礎とした徳育を学校で行なうべきことを主張した。
このように二十年前後における徳育の問題は、各種各様の意見が並立して修身教育をも混乱させることとなっていた。このような論争の中で、地方の教育界においてもこのことが問題となり、どのような方針によって修身科の教授をなすべきかを論議し、地方長官に対して、その基本方針について明確な結論を要求するものもある状態であった。そのため二十三年二月末の地方長官会議においては、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を内閣に提出するようになった。この建議は閣議においても取り上げられて論議され、明治天皇の上聞に達した。芳川文相が後に述べているところによれば、明治天皇は榎本文相に対し、徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(さん)を命ぜられたとのことである。同年五月榎本文相に代わって芳川顕正が文部大臣に就任したが、その親任式に際して、明治天皇から特に箴言編纂のことが命ぜられたのである。その後徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、教育勅語の成立に至っている。
教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。勅語の起草に参与した元田永孚は勅語発布後に、山県総理大臣にあてた書簡において当時の有様と勅語発布の意義を次のように述べている。
「回顧スレハ維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆ント支離滅裂二至らんとするも幸二 聖天子叡旨之在ル所と諸君子保護之力とを以扶植匡正今日二至リタル処未夕確定之明示あらさるより方針二迷ふ者不少然ルニ今般之勅諭二而教育之大旨即チ国民之主眼ヲ明示せられ之ヲ古今二通し而不謬之ヲ中外二施して不悖実二天下万世無窮之皇極と云へし彼ノ不磨之憲法之如キモ時世二因而者修正を加へサルヲ不得も此ノ 大旨二於テは亘於万世而不可復易一字矣」
(上記解釈) 「過去を振り返ってみると、維新以来教育の最も中心と成る事柄が定まらす国民の進むべき道は殆ど散ら々で,纏まりが無く,筋道が立って居無かった状況に陥って居たが、幸いにも徳の高い天子が意向を示されたことで学識・人格共に優れ徳行の備わった人達に依る支援を受けて足らざるを補い改めてより確固たる方向性を見い出せ今日に至るも、未だに確定を明らかに出来ずに居ることから此れから進むべき道の議論が分かれて混迷する者尠からず居るも、今日の天皇御自ら教育の凡の方向性の道筋を示されたことで国民は教育の重要性を知ることに成り、過去から現在迄続いて居る間違い無く道理に適うこととして国内外に広く行き弥らすべきは、実に我が日本の限り無く永遠の斉明天皇?の彼の不朽の憲法の世の移り変わりに拠って些かの修正も加えることも無きものと同じじものとして、此の大意は永遠に引き継ぎ一字足りとも容易く変えるべき筈のもので無い」
明治二十三年十月三十日、明治天皇は山県総理大臣と芳川文相を官中に召して教育に関する勅語を下賜された。これによって国民道徳および国民教育の根本理念が明示され、それまでの徳育論争に一つの明確な方向が与えられたのである。
「教育勅語」が成されてい無ければ、我が国の建国以来の国風は忽ち風解されて今日の日本国は全く別国として様変りしてしたものと成っていたあろう。
続 く
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