魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

◆◆【我「老子」の私見を綴る】◆◆論徳第三十八

2012-05-16 15:51:17 | 学問

論徳第三十八

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲而無以爲。下徳爲之而有以爲。上仁爲之而無以爲。上義爲之而有以爲。上禮爲之而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫處其厚不居其薄、處其實不居其華。故去彼取此。

上徳は徳とせず、ここをもって徳あり。下徳は徳を失わず、ここをもって徳なし。上徳は無為にしてもってためにするなく、下徳はこれをなしてもってためにするあり。上仁はこれをなしてもってためにするなし。上義はこれをなしてもってためにするあり。上礼はこれをなしてこれに応ずることなければ、すなわち臂を攘げてこれを扔く。故に道を失いてのち徳、徳を失いてのち仁、仁を失いてのち義、義を失いてのち礼。それ礼は、忠信の薄にして、乱の首なり。前識は、道の華にして、愚の始なり。ここをもって大丈夫は、その厚に処りてその薄に居らず、その実に処りてその華に居らず。故にかれを去りてこれを取る。

物事の性は自然に出て来るものとして、あるが儘にして作為しない絶妙の徳曰く上徳に在る人物は徳に拘らず徳有ることを殊更ひけらかすことも無く、却って此れこそ正しく徳の所以である。凡そ下徳の人物は殊更徳に拘って却って徳を見失う。凡そ徳を殊更ひけらかすは下徳であり、自然に徳が滲み出るものを上徳とするが、徳の有無は、見抜き難いものである。人への慈愛は元々生来の性から出るものなのだが、所謂仁を尊ぶ者は、仁を為して何かを求める。義を行なう者も、人にも其れを押し付ける。禮などは無視すべきであり、袖を捲って無視して善い。本より他人を思う純善の本體を人は見失ってしまい、人の心が移り変わって世の人の徳有る善行も無くなってしまい、徳無くして仁無く、仁無くして義も無くしたのは、禮など重用したからである。そもそも禮を奨める者は、忠信の心薄く、主を蔑にして世を乱す者である。本物の偉い人物は真才気溢れる人であり、此れに対して、あたら大道をひけらかす者は無智なる愚かさを曝け出す者である。以上、真の明道者は禮なるものの真髄を知って良く護り、形だけの無意味な概念を総て蔑み払い除けるものである。護るべきものも、その真実の意味に従い護るべきであり、実の無い形式に囚われて目立つことをすべきで無い。従がって、道を修めた人は形式を重んじる派手で中身の無い仁儀禮を須らく疎んじて道に専じる。


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