魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【日韓併合の真実を正しく伝える。】②

2016-03-20 22:44:29 | 歴史
 一方、日本は清国に台湾をも割譲させたが、台湾の民を従属させるまでに執拗な抵抗に遭い、その平定を為すまでは、或いは清軍或いは土匪と数多くの戦闘を強いられた。台湾統治の経緯には、疫病に悩まされ、戦闘とは別に多くの犠牲者を出したのだ。台湾の平定は最後まで抵抗し、土着民の支持を得ていた土匪の掃討に苦慮したが、一向に抵抗が止む気配を見せなかった。そんな時、台湾平定の任務を得た後藤新平の忠告により、台湾総督児玉源太郎は、日本の強硬姿勢に詫びを入れ、漸く平定の目途を立たせたが、未だ抵抗する土匪には徹底的な掃討策で立ち向かった。漸く、土匪の掃討が終わり、治安が回復するとアメリカ帰りの新渡戸稲造を投入し、殖産事業の米と砂糖の増産を始めるに至ったが、利権に絡む地元との民との軋轢はなかなか収まるものではなかった。しかし、凡そ、台湾の平定は成功したとの評価は出来よう。

 さて、是から当分、未だ知らない史実を知らんとする日本人にも朝鮮人にも、とても重要な歴史の経緯を書いて行く。先ほど書いた大院君のクーデターは、明治27年7月に起きたのだ、と言うよりは、日本が起こしたものだ。

 日本の出先機関は大院君を担いで内政改革に着手させた。そのために朝鮮政府に「軍務機務所」と言う、日本で言えば「元老院」とも言える置かした。此処での会議は驚くべき速さで議事が進められた。その改革の決議の主な項目は次のようなものであった。是は総て日本の強制を伴うものであった。

○両班(文武の上級階級)と平民とは法律上平等とする。

○奴隷は廃止する。

○租税は現物を改めて金納とする。

○高官通行の際、平民が起立或いは下馬する慣習を廃止する。

 そのほか、議決したこの種の法令は、200件以上合った。

 ところが、服従背面の保守派の大院君は、これ等の改革に不服であったので、これ等の法令は一向に実を結ぶことはなかった。

 改革の法令が実を結ばない中、反日的な王妃(閔妃)と大院君の対立が激しさを増して行った。中立派の正義の人と呼ばれた金鶴羽が大院君の刺客に襲われ一命を落す始末であった。

 業を煮やした半島に送られた井上馨は、明治維新的な開明的絶対君主制の韓国版を作らんと頭に描いて、勇んで半島に向かったが、現実は甘いものではなかったのである。

 事ほど左様に外国を統治すると言うことは、正義を疎かに出来ないものである。為政者よりも民衆を味方につけなければ、外国の統治は必ず失敗することを、当時の日本政府は十分に理解した上で、半島の歴史的因習の破壊を謀らんとしたのだ。

 このような混沌の中で、明治十七年の甲申事変の失敗で日本に亡命していた朴泳考等が半島に帰って来、日本の後押しで政府内の勢力を張るようになった。そこから、大院君の一派と外戚の王妃の一派に、朴一派が加わって、三つ巴の暗闘が始まり、これに更に日本の出先機関が関係し、事態は収拾が付かない状態に至ったのだ。

 国王は日本をごり押しと捉え日頃から不満を持っていたので、朴の失脚を画策した。この混乱には策士星亨も一枚加わったが、果たせるかな朴の再度の亡命とともに、策敗れて日本に帰ってくる羽目になったのだ。事ほど左様に混乱を極めた韓国に朴と入れ違いに半島に送られた井上公使は国王と王妃の宣撫策を図ったが、是には日本の後押しで身分制度の廃止など半島の近代化を図ろうとしてた半島の人々を大きく慌てさせ、日本は大きく信用を落とし込んだのだ。其れとともに曲者外戚王妃の一派は、露スケに接近し、日本の追い落としを画策したのだ。

 しかし、元々外戚王妃一派の跳躍は、現政府派も、旧日本党派も、大院君派も恐れ忌み嫌うところであったので、も一度大院君を担ぎ出し、クーデーターを画策したのだ。是には日本の出先機関も諸手を挙げて賛同した。

 国王は厳しい身分制度の廃止など近代化を進め国王の権勢を弱める日本の干渉を嫌っていたので、井上馨が日本人が指導した朝鮮人からなる『訓練体』を王宮の護衛につかせようとしたのだが、当時の王宮は、国王が米人に訓練された親衛隊に守らせていた。国王は日本が企む半島の民主化に過敏に反応したため、日本の動きを抑えんと、こともあろうに露スケに助けを求めていたのだ。そもそも、日本が清と一戦交え多大な犠牲を払ってまでも、半島に影響力を持とうとしたのは、毛唐列強の極東亜細亜の植民地化を食い止めんとしたことである。

 もし是を為さずして、半島への露スケの南下を赦したならば、半島ばかりか我が日本も、毛唐に再び恫喝されて、せっかく成した近代国家の礎さえも揺るがされ、毛唐列強に我が日本が食い散らかされる運命となるのだ。

続く

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