日本人も嘗てハワイや南北米大陸の各国に大量に移民して物凄い辛酸を嘗めさせられたが、移民先の国や国民を悪し様に悪く言って恨み言を今でも「売り物」に出来無いのは、在日本朝鮮人の様に其れ等の移民先の国々に過去「併合されたことが無かった」からだろうか?
徴用工の問題だが、戦後70数年も経って持ち出せる問題では無いのだが(韓国の民事法では請求権は10年の消滅時効に掛かる)、70年以上たてば物的証拠も無くなっているからであり、「言ったもん勝ち」に成るのは、朝鮮人土人社会特有の現象である。
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日曜朝のサンデーモーニングにも出演する政治学者の
姜尚中さん。
現在も東大名誉教授として活躍する姜尚中さんは在日
二世として日本の地で誕生されている。
そんな彼の生い立ちは著書であるオモニ(母)で読んで
から一層反日や国籍について考えせられるきっかけとなった。
未だに日本でも問題とされる日韓両国の国籍や反日問題に
幼少期から、その渦中の中で複雑な国籍感情を持って生きて
きた(👈此の馬鹿、日本社会には其の感情以上の優遇を与えられて居るだろう)姜尚中さんの生い立ちとオモニ(母)への想いを追ってみよう~
姜尚中の生い立ち~国籍と永野鉄男として
1番近くて1番遠い国と言われ未だ反日との表現が良く使われる韓国と日本との関係は知っての通りこの日韓の過去の歴史上刻まれている1910年8月29日か1945年9月9日までの35年間続いた日本統治時代にある(👈矢張り、併合を道具にして用日か)。
日本でのこの時代の事を日本統治時代と呼び韓国ではこの時代の事を日帝強制占領期間(👈併合だろう。併合無ければ朝鮮民族はЛに解体されて居た。然も半島を直接統治していたのは釜山の朝鮮総督府である)と言われている。それは現在進行形の今も変わりません(👈日本から巨額の金を搾り取る南北朝鮮国と工作似非日本政治屋に優遇されてる「在日本の朝鮮人」が占領されてるのか?)。
この時代に彼(姜尚中)氏の父親は文字通り既に韓国が日本とされていた時、現在の韓国から同じ国(👈実際には、徴兵の義務や徴用等朝鮮人は日本国民とは違った湯遇を受けて居たので、同じ国と言うのは間違い)であった日本へ職を求めて移住した地が九州の熊本県だったのです(👈終戦間際迄は原則として朝鮮人の日本国の移住は制限されていたが、此の親父は何時日本に入り込んだのだ?)。
右も左も言葉さえもままならない地で生活の糧を求めて移住した熊本県で苦労しながらもクズ屋を開始(👈当時の日本は日本国内の日本人も貧しかった)。
姜尚中氏はここの姜家の次男として在日二世として1950年8月12日(67歳)18年7月現で誕生されています。
これ余談ですが私の父親と同じ年。
しかも誕生日も同じ月。笑
勝手に身近に感じたりしています。
話は戻ってクズ屋として企業したのは母親(オモニ)の提案でその後、しがないクズ屋から永野商店として古紙問屋として成功。
ただそこまでの道のりは長くつらい日々の連続で姜尚中さんの両親は今とは比較にならないレベルの反日感情や差別の中日本の地で韓国人として生活をしていたのです(👈反日感情を持ってる朝鮮人が日本人に歓迎される訳が無いことは、日本に来る前から分かって居ることだ。日本で虐められたかったのか?矛盾だらけの御涙頂戴?)。
此処迄だけでも、突っ込み処有り過ぎだな。此奴は典型的な在日本朝鮮族の典型だな。
そして姜尚中さんも在日二世としての孤独や目に見えない無言の差別を肌で感じて思春期にはかの日本が誇る作家夏目漱石をメンターとした時期もあったと語っています。
それがこの姜尚中さんの名前にも表れています。
彼は現在の(姜尚中)を名乗るようになる22歳までの名前は(本名)は永野鉄男さんです。
何故この名前を名乗る必要があったのか?
それこそ在日朝鮮人として、日本の地で生きるために多くの在日朝鮮人がそうしたように彼もまた日本名を名乗り、そして故郷や両親オモニの想いを知った事によって早稲田大学在学中の韓国文化研究会に参加し、その後昭和47年に訪韓したのをきっかけに、それまで名乗っていた永野鉄男から現在の氏名姜尚中を名乗る事を決意する(👈そんな感情を持った朝鮮人が日本に無数に居住していることは、日本人が如何思うかは朝鮮人には想像力は働か無い。朝鮮人として生きたいなら、何故半島の国に戻って朝鮮族の国の為に頑張ら無のだ。此奴の言い訳も幼稚な虚言と直ぐ分る)。
彼はこの経緯を振り返ってこう語っている。
『生まれは熊本県で本名は永野鉄男です。22歳の時思うところあって姜尚中を名乗りました。』
この姜尚中氏の思う所こそ、彼自身が何不自由なく日本の地で生まれ暮らしてきた、そのルーツとなる両親の過去(生い立ち)苦労や国籍への(日本統治時代)の想いと合えて在日朝鮮人として向き合った瞬間だったのでは~と推測できる。壮絶な苦労の元異国の地で必死になって生きるべく韓国人としての誇りをもって生きてきた母親を嫌い避けてしまった少年時代(👈此の母親は半島に還るべきであった)。
それを悔いるかの如く祖国の歴史と向き合って名をそのルーツである姜尚中と名乗る事にしたのは、氏があえて避けてきたであろう母国の痛みや悲しみや声にならない慟哭を理解したに他ならない証拠ではないでしょうか・・・(👈日本に単独で遣って来た母親の自己責任を此奴は無視か?)
姜尚中のオモニ(母)と反日への想い
自身の両親のような苦労をせずとも両親の壮絶な過去と何故チェサ(法事)になるたび、泣き叫ぶような慟哭を止めない母親(👈マゾか?)。
それを見るのが嫌で嫌で仕方なかった少年時代。
でもまだ見ぬ父親をいいなずけだと言われて、祖国(韓国)を離れて異国の地(日本)でたった16歳で単身朝鮮から日本へ渡ってきた母親(オモニ)の心の内と始めて向き合ったのもこの姜尚中を名乗る頃だった(👈日本人では無く、許嫁にした爺さん婆さんと親戚等を恨むべき。日本人が其の母親を呼んだ訳で無い)。
在日の集落に身を置きながら、統治時代に移住したにもかかわらず原住民の日本人に差別され正業に就くことも出来ず、祖国に帰る事も許されず、そして祖国は分断した(👈祖国に帰れ無かったのは、日本人の所為では無く在日を嫌った半島人の所為なのだが)。
此処迄読んで呆れるというより、人(此処では日本人)の感情等まるっきり無視の余りの身勝手さに腹が立って来た。
そんな母親の気持ちと芯から向き合ったのが22歳の早稲田大学在学中の訪韓がきっかけだったという。
どれだけ心細かったか・・・
オモニがどれだけ心が打ちのめされた中で家族を守る為に身を粉にして働いてきたか・・・(👈終戦後十数年の間は日本人の我が家でも極貧の生活を強いられて居た。余り巫山戯るな!)
それらを知った時彼の心の中で姜尚中を名乗り生きていく事を決意したのだと思う(👈半島に還って活躍す癖が筋なのに、日本を用日し足り無いのだろう)。
姜尚中の妻は日本人
とは言えそんな両親(特にオモニ)の懸命な働きによって彼が大学進学をする頃には時代背景が父(私の)とたまたま重なる事もあって容易に想像できるがかなり永野家の家系は裕福になっていたと推測できる(👈孫正義一家も犯罪紛いの事業をして伸びた)。
それは姜尚中氏の学歴(早稲田大学)私大である事や高校卒業後にドイツ留学を経験されている過去からもいかに在日朝鮮人の中でも永野家が成功者であったかが
分かる経歴です(👈早稲田は一浪か一年落第してる)。
そして大学在学中に出会った妻に一目ぼれした姜尚中氏は自身から猛烈なアタックの末恋仲となり結婚されています。
だけど妻の両親の反対はこの時代にしては開けた両親だったようでなかったそうですが、姜尚中さんのオモニにはそれ相応の想いがあったようで猛反対。
でも、それしき?オモニの反対とは言え、オモニの想いや苦労を考慮しても在日二世として誕生し、しっかりと教育も受けた故に中立の立場でもの事を見られる視野の広さがあり日本人女性であっても自身のひらめきを信じてゴールイン(在日の日本民族解体運動の実行)。
その後オモニの許しも得て二人は結婚し、二人の男女の子供にも恵まれています(👈男子は死亡)。
おわりに
日本に生まれ統治された時代の両親を持つ姜尚中さんの心中は日本人側の歴史上の認識と統治された側の痛みを一番身近な人物オモニの存在とのはざまで迷い苦しみつつも当事者(在日)として目を背けず中立の立場で正しく日韓の歴史を真っ向から論ずる事の出来る政治学者として今も活躍されています(👈日本の美味しい処を食い散らかす。例、熊本劇場館の館長、東大名誉教授、・・・)。どの言葉も日本人としてのうのうとこの地に生きている私達からしたら重く決して無視してはいけない言葉なのだと身につまされる存在として今後も姜尚中さんの活躍と言動に目が話せそうにありません(👈「日本人としてのうのうと生きてる」?此処は " 日本 " 国だ!)。だって日本人である以上きっと歴史上の当事者でもあるのだから(👈朝鮮半島の民主化と近代化に日本人の巨額の税金を注ぎ込んだ朝鮮半島の大恩人としての当事者)。」
幕府が呼びもし無いのに大行列をして幕府の財政を食い潰した朝鮮通信使の残した日記を照会しよう。
「野蛮人の倭人にこんな美しい国を住まわせて居るのは勿体無い。何時か此の国を朝鮮人のものにして遣る。」
✱誤字脱字、文章の誤りは御容赦
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