王安石は何故法律に随って訴訟事件を裁く問題を提示したかというと、当時法律執行人が屡過剰な随意性を以って事件を審理し、甚だしきに至っては個人の好き嫌いで事を進め、お上の意向が法律に取って代えて仕舞っていたからだ。 一層深刻なのは、法律執行者は屡法律に取って代えて封建道徳を持出し、甚だしきに至っては《春秋》を範として《春秋》の経義に依って疑問を解いて事件を裁き獄に治めると居直ったので、こんなことは全く封建道徳の偏見を持出し刑法に取って代えて仕舞うに等しく、こんなことでは明らかに公平な裁定は行われるべくも無いのだ。
煕寧元年(1068)王安石は嘗ての有名な事件の為に入朝を思し召された後、司馬光等の輩と論争を激化させたのだ。 当時名前を阿雲という登州の女がその夫の容貌が醜く嫌悪した為、夜、刀で斬り付けて仕舞った後で阿雲は自首したが、死に至ら無かったものの深く傷つけた事件の検証に関る論争であった。 この実話には色々な観方が交叉していて、阿雲は既婚で殺傷したとも言い、未だ結婚はして無かったと言う者も居たりしたが、何れにせよ婚姻が齎した悲劇として阿雲は人を傷つけた者だったが、実は被害者でもあり、封建的な婚姻の制度の犠牲者だったのだ。
《宋史・許遵伝》にこの事件に関して比較的に詳しい論説がある。 阿雲は当時醜い夫に嫁ぎたく無かった為に婚礼まではして無く婚約していただけで、田舎では眠りに着く時間に刀で斬り付け、その婿は斬られて全身十箇所余り傷を負ったが、運良く死には至ら無かった。 事件の担当官は阿雲が傷を負わせたと疑って取調べの任に着いたが、取り調べを始めた頃は、阿雲は罪を黙秘していたが、担当官が刑を重くすると責め打つので、阿雲は真相を言うしか無かったのだ。 当時の州知事の許遵に依れば阿雲には結納の日の取決めがあったが、未だ母親の喪が開けずにいたので、その婚約は合法的では無く、夫を殺そうとしたことには為らず、単なる普通の殺傷であったのだ。 朝廷における裁定では、官吏は謀殺しようとして傷つけたと判断し、絞首刑を以って処罰すると主張した。 阿雲が尋問されて罪を認めたと思ったのだが、結納は無効であり、況してや自首して罪の吟味に応じたのに、厳重な処罰は適当で無いと許遵はこの裁定に不服を呈した。 刑部のやり方は、無茶苦茶であったのだ。 刑部が罪を協議した結果が不公平だと思われたので、程無く大理寺で判定することが許され、この事件は再審されることに為ったが、其の結果、阿雲は自首したので減刑すべきで、自首して罪を減少し無ければ、今後は自発的に罪を認める人は出無いだろうし、同じ様な事件で罪が軽くされた例も疑われる。 朝廷はそこで司馬光、王安石に再びこの事件を協議するように命じて、司馬光は依然として謀殺に該当し死に当る断罪にすると意気込んでいたが、王安石は許遵に賛成したのだ。
司馬光などの士大夫は大部分が男尊女卑で、婚姻は引受けられていると言うことに賛成するので、彼らは阿雲に対する思いは妻が夫を殺すなどと思って全く如何なる同情心の欠片も感じないと痛恨して、罪は一等を増して、断固として阿雲の死罪を判定する様に断罪した。 王安石は阿雲に大変同情して、阿雲には謀殺の意志が有ったが、然し被害者は死に至る迄の傷は負って無く、その上阿雲には自首する行為があって、刑罰を軽減して下すべきだと思った。 王安石は刑法を竪に司馬光などに対して力強く反駁を行って、この事件を殺人未遂と傷害の罪で決着を付けようとし、其の上自首したので二等を減刑し、この判断を免れようとするのは余りにも融通が効か無いとした。 神宗は王安石が言わんとする事は決まりを守れということで、更に犯罪者の為に生まれ変わる道をつけてやり、其は義に便宜を計り、法律条項に決められた通り、本人の自首があった者総てがそうあった様に、二等減刑して断罪した。
王安石の主張は法律に基づき処理して、断固として妄りに人情で法令を変えることに反対して、この面では彼は時には非常に頑固で捻くれ者に見える。 聞くところによるとこのような訴訟には良く似た実例があって、少年が一匹の善く闘う鶉を手に入れたのだが、彼の仲間は何が何でも其の鶉が欲しく、二人の友情が深いことを頼みにして、強引に鶉を奪ったので、門前まで少年が追いかけて一気に其の友達を殺して仕舞ったというものだった。 開封府は少年の死罪を判定したが、王安石はこれに対して不服を申し立て、公然と奪い取ろうが密かに盗み取ろうが全て強盗で断罪するのが法律の拠るところとした。 友達は飽く迄強引に奪ったのであるが、これは強盗に当り、少年は盗人を捕まえようと追って殺して仕舞ったのであり、死んだことばかり問題にするべきでは無いとした。 この事件は上部まで至り、刑を審理して、大理寺が取り調べて役所の面子を賭けて判決を是とし、安石を非難したが、王安石は詔で謝罪したが、彼は決して過ちを認め無かった。
この逸話の真偽は王安石の政敵から出たものであり判別し難く、王安石が如何に捻くれ者で意地っ張りであったかとあったかと攻撃する為の作り事であったかも知れない。 譬え事実だとしても、王安石が厳格に法律に法って、法律の条文を枉げること無く頑固なまでに忠実であったことを表明している。 少年が些細な事で人を殺すのは勿論間違いであったが、然し相手が公然と略奪したのは間違い無かったので、単なる盗みとして少年の処罰を定めるのは決して許されない筈だった。 当時の刑法に拠れば、盗人を捕まえるのは間違い無く無罪だ。 当時若しも弁護士の弁護があったとしたら、王安石の反駁は確かに正しいものと為っただろう。 開封府は力づくで奪った強盗とは判断せず、官吏が死罪に拘ったのは、二人が普段は親密な間柄であったので、力尽くで取ったとしても決して強盗の罪には為らず友達の間の冗談であったのであり、殺されようなどとは思いもかけ無いことで、少年はこれに因縁をつけ殺して仕舞ったのだから、罪は死罪に値するのだとしたのだ。 実は開封府と上級官庁の見方には不公平さが観られ、一方的で独善的な決め付けの判断があったと認められ、如何して友達の間柄で奪い取ったり引っ手繰ったり出来ようか? 更には、たかが一羽の鶉のことなので、友達は持って行って遊ぶだけなら何の支障も無かったろうし、そうであれば殺人など無かったろうが、実際は一羽の鳥とて金を出して買って来たからには個人の財産であり、そう考えると強奪したのだと言わざるを得無いのだ。 王安石は軽はずみに情を絡めては為らず、必ず厳格に法律の条文に従って判決しなければならないと頑強に説いたのだ。
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