(6)春夏秋冬の青春 あなたと
厳密には付き合った経験の無い、奥手で無能だった青春時代。今の知識が有ればもっと楽しい生活をエンジョイできたのに、孫達よガンバレ。
中1の初恋からから高3まで毎年好きな女性がいました。ほのかに思いを寄せる、それでもペンダントを緊張の中で手渡し、或いは黒髪を貰った衝撃がありました。見つめることで舞い上がる、話しをする、見つめ話しをする楽しさ、総て失恋棄恋の一方通行の昔話。半世紀も前の大筋ですが、ふとしたきっかけで、封印されていた記憶が徐々にですが鮮明によみがえってきました。
舞い上がる行動と心、自己制御する知識経験の無さ、初体験が連続の稚拙な行動、片思いの恋。突然の別れ、喜びが強かった分、なさけない自分、最後は不甲斐ない自己嫌悪と自己喪失の青春時代。世間知らずのダメオでした。若者は未経験、想定外の連続、落ち込むな、失敗の経験が成長の糧、青春は未熟が許される時代、おとな社会の研修生、廃れる大阪弁の”ごまめ”大阪弁考察 ごまめのうた より
ごまめ ごまめ 嬉しいごまめ 小さい子かて 仲間やねん 詩人 島田陽子
寝ている ごまめ は次第に目覚め、青い経験を重ねます。
休み時間の教室でジャンケン、12回連続、あいこ無しでの勝ち。
13回目での負け、あなたの発想からは絶対にあり得ない、何故?
笑ったあなたが示した指の先、教室の後を見ればライバルの笑顔
恋は成長過程での自我と他我の触れ合い、誰が一番という問題は無く、相手によって恋は違います。それぞれの個性、相性です。
君は知っているだろうか?彼女の眼差しに燃え上がる恋からの、別世界
体感が伝播する距離で2人が出合った刹那のスパーク、歓喜。目の焦点は無限、互いの視線が無限の中で合致する衝撃、物理的に離れた2人は空間を超えて結合します。この衝撃は普通の粘膜と粘膜の接触のオーガズムの比ではありません。純愛のエクスタシー、閃光の合体です。
現実には、なかなかあり得ないラブロマンスです。女性が憧れ期待する話題かも知れませんが、当時はそれが希有なことすら知りませんでした。社会生活の中で女性が心を解放させて男性の目を見つめることは希です。相手に対する不安感や羞恥心が少しでも有れば不可能です。同時に相手も同じように見てくれなければ成立しません。それ以前に異性に対する嫌悪感、恐怖心を取り除きましょう、そこから始まります。人間形成に環境が与える決定的な影響!親兄弟の家族や地域社会。それによって相性も変わります。
但し、冷めた人はそれは目の焦点が合っていない幻覚という人もいます。普通、結婚すれば気になる人ほど一線を引いて応対しますので人生の中でチャンスは短いです。私を含め、若い男性は性欲=勃起と誤解し、射精の相手を求め、一心に腰を振ることに執着します。それが間違い、恋とエッチのジレンマに悩み、或いは、次々とセフレを求める原因です。
恋する2人に会話は尽きない、会話が途切れても、手を触れていなくても体感が伝播します。相手を感じる余裕、相手を体感することで次のステップに進みます。きわどい時間、狼が狙っている、赤頭巾ちゃん 気をつけて。
性欲が古い脳であっても、感触や視覚、聴覚は新しい脳で感じます。ルートは複雑怪奇です。男の性欲が射精の為ならば動物と同じです。人間はそこに別の意味を見出します。
Eyes Like Yours(OJOS ASI) 黒い瞳 ~あなたの瞳と永遠に~
Shakira "OJOS ASI" EN VIVO HD {Miros Mar}�・.?*¨*? ♪?
(7)エクスタシー と わいせつ
それは天上界での交接の伝承、ETのように指を合わせ、互いに見つめ合う恍惚のH、指合わせが粘膜の接触と、見つめ合うエクスタシーです。
天上界で女性を侍らせるテロリストの夢は無残な幻想ですが、性の交歓は命の継承と男女の一体化です。どこが猥褻でしょうか?鈴木大拙によって紹介された妙好人 浅原才市はこの機微を「歓喜のご縁にあうときは、ときも、ところも、言わずにをいて、わしも歓喜で、あなたも歓喜、これがたのしみ、なむあみだぶつ」
男性にとって性の結合によるオーガズムは射精でもって減退しますが、女性の興奮によって誘発され、愛撫や会話、表情によって人間どうしの精神的な一体化へ快感が高まります。女性の感嘆が無ければ男性の興奮は静まり、射精の快感だけで終わります。男女の生理の違いから、次の次元の快感が有ることも知らずに終わってしまうのが世の中の現実?かも知れません。エッチに焦る若者の未熟さだけでなく、女性蔑視の男性も中足の感触の満足に終わってしまいます。恋によって選択した相手と性の交歓は両者に貞操を自ずから導き出します。
女性を恋し愛する事とは、粘膜の触れ合いの快感だけで無く、その先に人間同士、心と体の一体化の快感があります。それが恋愛です。恋する思いとセックスのジレンマに悩み苦しむ誠実な若者への正直な答えです。生理的に欲求が高まる性は無意識に理想とする女性を恋し、心も体も一体化する歓喜を求めます。性の正当性を確立しましょう。廻りに目指す女性がいなければクラブや様々な会に参加すべきです。人生の最大事です。その時間の余裕すら作られない生活、人生は一生の不作です。
スポーツや学業、仕事と恋。恋と性が結びつきます。打算という後ろめたさでは無く、直線的に性のエネルギーをぶつけることが可能です。男は良きエッチをしたいがためにスポーツを頑張る、仕事を頑張る。子供ができれば子供の為にもがんばる。あなたの笑顔、喜びは我が喜び歓喜とする愛。
アイドルは虚像、恋の対象としては不適切です。この認識の下に有る限りは健全です。映像や音楽等の媒体を通じて、異性を感じる、好感を持つ。現実と虚像の混乱が間違いのもとです。達成することは無い想い、誰もが想いを寄せる安心感は健全です。アイドルをおっかけ、握手し、話しをするために何枚ものCDを買う行為は現実から離れ、妄想の世界に到達させます。アイドルを体感する現実が虚構の世界です。もしどうしても夢を実現したいならば、実現するための過程を設定して順次行動すべきです。
恋する女性とエクスタシーを共有する実感、愛する女性の歓喜を自己の歓喜と同一化する喜びが2人の全身全霊の合体を実現させます。男性は粘膜と粘膜の快感だけでは興ざめするエッチ、単独の自我が解放され2人の心と体が結合する歓喜のエッチを目指すべきです。それが大人の性愛です。
まさに、与謝野晶子 きけな神 ゆふべの春の 讚嘆のこゑ の世界です。残念なのは山谷えり子議員です、羞恥心が邪魔をしています。時空を超えてイエスを愛したマザー・テレサは体験は無くても他我に対する許容、寛容が養われていました。
真言密教の秘義、凡人が他者と一体化し、さらに曼荼羅世界に昇華する王道奥義があります。エクスタシーが自我と他我を一体化させ、自我と世界を一体化させます。
他我との交歓、エクスタシーによる他我と自我の一体化は、法律や規範とは無関係に個人として独立している2人の人間が一体となることです。さらに、世界との一体化とは自己承認や他者承認の欲求では無く、自己肯定や自尊心の欠落から自殺に至ることは反対に、その高揚歓喜が拡大して世界と一体化する自己の確認です。自己肯定、他者肯定、世界肯定です。性愛だけでなく純愛でも可能であるし、自己内省からも可能と考えます。しかし、その道程が示されなければ、道は分断され閉ざされたままです。
与謝野晶子は 人間礼拝 一つの覚書参照 の中で
人間は一人一人が宇宙の主人公、万有と共存して、自律的に独立する主人公としました。
性のエクスタシーは人を孤立から解放し、世界を共有する一員への一里塚です。性の羞恥心は社会的文化的な呪縛、性を不浄とし、女性蔑視の封建社会、前社会を維持した負の遺産です。豊かな人間教育を目指す性教育が「わいせつ」でもって歪められています。公序良俗は人の成長によってこそ維持します。
性を「わいせつ」とする宗教、道徳観念は性を嫌う羞恥心と差別を発生させます。隠すことで日夜を分ける、より魅力的になる事とは別問題です。
イギリスのD.H.ローレンスは人と人を結び付けるのは性愛としてチャタレー夫人の恋人を執筆、当時のイギリスでも無修正版が出版された1960年、猥褻文書として告訴されるが無罪、日本では伊藤整訳、無修正版が1950年に発行するも、発禁処分になり1957年に敗訴、絶版。その後時代の変化とともに1973年に無修正版が発刊されました。
落ち込んでいた青春時代、伊藤整の「鳴海仙吉」、自意識過剰の評価もありますが、大人の人間を考えさせる愛読書でした。
良心や信仰を犯されるよりは死を選び聖列に加えられた聖女・・・「良心に対して加えられる暴挙の中、最も避けねばならないのは、婦人の貞操に対すして加えられるそれである。何となれば、そこには自然に多少の肉体的快楽が混入するからである。・・・『有難たや』と其婦人は云うたのである。『少なくとも一生に一度、妾である私は罪悪無しに堪能致しました』・・・『かかる場合に自殺するなどは、やさしい仏蘭西婦人に相応しくない蛮行である。・・・それを為しながら、「厭アよゥー」と言いさえすればよいのである』・・
もし肉体の喜びが自殺によってすら守られねばならないものなら、人間はそのために生きているわけだ。よろしい、たいていの女は堪能していない。老婆や未亡人は人間として、生きていないわけだ。すると、それが暴力で与えられる。そのとき、それを拒んで死んだのが聖女なのか。それは、私は肉体のほか何ものもなかったと告白することではないか。日本に宗門取り調べがあった時は、キリスト教を放棄せぬからとて裁判所の下役人何人もの手に落とされてなお改宗しなかった何とかという大名の妻があった。それが、その女のみが聖女ではないか。そうではないだろうか。私は苦しい。よく分からなくなる。だが、その上、女たちは子供を孕むかも知れない。その子を憎めるだろうか。救うために、彼女らを救うために、何ものをも神聖にする女性の祝福。あの肉への精神の屈服がそこで起こる。つまり彼女らの肉体のありかたの当然の帰着だ。彼女らは肉体の喜びを選択できる保証をもっていない。そしてその肉体に結びつけられた精神の自由も持っていない。それが我々の相手の女性という人類の半分だ。
誰がそこから免れるか。肉の感覚を軽侮し得た女のみではないか。「罪悪なしに堪能した女」と、その何とかいう大名の妻とが同質ではないのか。聖女が肉体の感覚を拒んで自殺するということが、そんなことがあり得るだろうか。どうも分からない。また分からなくなった。
女性の性=性交=出産は間違いです。女性を人間としていません。封建時代から明治、戦前の昭和へと続いた女性差別であり、また現在も宗教や道徳に残存する。男の自己中の女性蔑視、偏見が強烈にあります。性は子作り、女の性はわいせつ。真言密教の秘儀は糾弾され、性から人間同士の絆、世界への王道も閉ざされました。負の連鎖は男性だけで無く女性自身さえトラウマが呪縛となり、推進、増殖している日本の貧困な精神。それに同調する多くの政治家達と安倍、性の商品化を再度訴え出した前大阪市長橋下、日本にとって不幸で残念なのは彼等が性交渉によって粘膜による快感以上の人間同士の合体を経験したことが無い?或いはエッチは性交渉での射精の快感、さいあく、エッチは子作り?としか考えていない疑いが濃厚であることです。私を含め多くの日本人が誤解する貧困な性文化、性の商品化、貧しい文化そのもの実態があります。わいせつ と言う言葉の呪縛によっておとし(貶)められる性、人間性そのものです。
性教育は、豊かな人間形成、人格の完成を日指す「人間教育」ですよネ。あなたの喜びは我が歓喜とする愛を否定する日本の破壊を許さない。
高3のとき、中央公論の月刊誌で読んだ庄司薫、赤頭巾ちゃん 気をつけて 映画になっていたとは知りませんでした。
「赤頭巾ちゃん 気をつけて」 (1970) 予告編 Be Careful, Red Riding Hood
去年、ろくでなし子さんが女性自身、局部の3Dデータ頒布、及び立体像の展示によって、わいせつ物頒布等、公然わいせつ罪に問われる裁判がありました。公然わいせつ罪は無罪、わいせつ物頒布等は有罪、現在控訴中。
「女性器は自分の大事な体の一部分に過ぎないものであるのに、日本では恥ずかしい、いやらしいものとして扱われてきた。」
被告自身の下腹部はわいせつ、として断罪する裁判は有り得ません。裁判官、検事、傍聴人全員の下腹部はわいせつと裁判しているのです。滑稽です。医学書で性器の描写はわいせつとして摘発しているのでしょうか?医学書としての解説があれば、週刊誌でも性器の描写は可能になります。
「わいせつ」とは
善良な性的道義観念に反するもの
普通人の正常な性的羞恥心を害するもの
いたずらに性欲を興奮または刺激させるもの
「公然」とは,不特定または多数の人が認識しうる状態
裁判の争点は女性器の立体像データは性道徳に反する?この一点です。妻の出産に夫が立ち会うのが一般化した現在、男性も女性器を見慣れておく必要があります。医学書や性教育だけが許される問題ではありません。
わいせつと芸術論争。裁判は広告と社会的衆目を集める役割と、権力の規制による性道徳の維持補完です。
明治以降急速に拡大した国家神道。非国民として女性、男性ともに精神の自由が許されなかった時代。沖縄でも繰り返された悲劇の集団自決、喜屋武岬、閲覧注意 1944年 サイパン カメラが捉えた投身自殺~バンザイクリフ 歴史が書き換えられる 消された映像
NHK 戦争証言「死者の血で染まった海」久永 義仁
http://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001160006_00000&seg_number=001
続く
厳密には付き合った経験の無い、奥手で無能だった青春時代。今の知識が有ればもっと楽しい生活をエンジョイできたのに、孫達よガンバレ。
中1の初恋からから高3まで毎年好きな女性がいました。ほのかに思いを寄せる、それでもペンダントを緊張の中で手渡し、或いは黒髪を貰った衝撃がありました。見つめることで舞い上がる、話しをする、見つめ話しをする楽しさ、総て失恋棄恋の一方通行の昔話。半世紀も前の大筋ですが、ふとしたきっかけで、封印されていた記憶が徐々にですが鮮明によみがえってきました。
舞い上がる行動と心、自己制御する知識経験の無さ、初体験が連続の稚拙な行動、片思いの恋。突然の別れ、喜びが強かった分、なさけない自分、最後は不甲斐ない自己嫌悪と自己喪失の青春時代。世間知らずのダメオでした。若者は未経験、想定外の連続、落ち込むな、失敗の経験が成長の糧、青春は未熟が許される時代、おとな社会の研修生、廃れる大阪弁の”ごまめ”大阪弁考察 ごまめのうた より
ごまめ ごまめ 嬉しいごまめ 小さい子かて 仲間やねん 詩人 島田陽子
寝ている ごまめ は次第に目覚め、青い経験を重ねます。
休み時間の教室でジャンケン、12回連続、あいこ無しでの勝ち。
13回目での負け、あなたの発想からは絶対にあり得ない、何故?
笑ったあなたが示した指の先、教室の後を見ればライバルの笑顔
恋は成長過程での自我と他我の触れ合い、誰が一番という問題は無く、相手によって恋は違います。それぞれの個性、相性です。
君は知っているだろうか?彼女の眼差しに燃え上がる恋からの、別世界
体感が伝播する距離で2人が出合った刹那のスパーク、歓喜。目の焦点は無限、互いの視線が無限の中で合致する衝撃、物理的に離れた2人は空間を超えて結合します。この衝撃は普通の粘膜と粘膜の接触のオーガズムの比ではありません。純愛のエクスタシー、閃光の合体です。
現実には、なかなかあり得ないラブロマンスです。女性が憧れ期待する話題かも知れませんが、当時はそれが希有なことすら知りませんでした。社会生活の中で女性が心を解放させて男性の目を見つめることは希です。相手に対する不安感や羞恥心が少しでも有れば不可能です。同時に相手も同じように見てくれなければ成立しません。それ以前に異性に対する嫌悪感、恐怖心を取り除きましょう、そこから始まります。人間形成に環境が与える決定的な影響!親兄弟の家族や地域社会。それによって相性も変わります。
但し、冷めた人はそれは目の焦点が合っていない幻覚という人もいます。普通、結婚すれば気になる人ほど一線を引いて応対しますので人生の中でチャンスは短いです。私を含め、若い男性は性欲=勃起と誤解し、射精の相手を求め、一心に腰を振ることに執着します。それが間違い、恋とエッチのジレンマに悩み、或いは、次々とセフレを求める原因です。
恋する2人に会話は尽きない、会話が途切れても、手を触れていなくても体感が伝播します。相手を感じる余裕、相手を体感することで次のステップに進みます。きわどい時間、狼が狙っている、赤頭巾ちゃん 気をつけて。
性欲が古い脳であっても、感触や視覚、聴覚は新しい脳で感じます。ルートは複雑怪奇です。男の性欲が射精の為ならば動物と同じです。人間はそこに別の意味を見出します。
Eyes Like Yours(OJOS ASI) 黒い瞳 ~あなたの瞳と永遠に~
Shakira "OJOS ASI" EN VIVO HD {Miros Mar}�・.?*¨*? ♪?
(7)エクスタシー と わいせつ
それは天上界での交接の伝承、ETのように指を合わせ、互いに見つめ合う恍惚のH、指合わせが粘膜の接触と、見つめ合うエクスタシーです。
天上界で女性を侍らせるテロリストの夢は無残な幻想ですが、性の交歓は命の継承と男女の一体化です。どこが猥褻でしょうか?鈴木大拙によって紹介された妙好人 浅原才市はこの機微を「歓喜のご縁にあうときは、ときも、ところも、言わずにをいて、わしも歓喜で、あなたも歓喜、これがたのしみ、なむあみだぶつ」
男性にとって性の結合によるオーガズムは射精でもって減退しますが、女性の興奮によって誘発され、愛撫や会話、表情によって人間どうしの精神的な一体化へ快感が高まります。女性の感嘆が無ければ男性の興奮は静まり、射精の快感だけで終わります。男女の生理の違いから、次の次元の快感が有ることも知らずに終わってしまうのが世の中の現実?かも知れません。エッチに焦る若者の未熟さだけでなく、女性蔑視の男性も中足の感触の満足に終わってしまいます。恋によって選択した相手と性の交歓は両者に貞操を自ずから導き出します。
女性を恋し愛する事とは、粘膜の触れ合いの快感だけで無く、その先に人間同士、心と体の一体化の快感があります。それが恋愛です。恋する思いとセックスのジレンマに悩み苦しむ誠実な若者への正直な答えです。生理的に欲求が高まる性は無意識に理想とする女性を恋し、心も体も一体化する歓喜を求めます。性の正当性を確立しましょう。廻りに目指す女性がいなければクラブや様々な会に参加すべきです。人生の最大事です。その時間の余裕すら作られない生活、人生は一生の不作です。
スポーツや学業、仕事と恋。恋と性が結びつきます。打算という後ろめたさでは無く、直線的に性のエネルギーをぶつけることが可能です。男は良きエッチをしたいがためにスポーツを頑張る、仕事を頑張る。子供ができれば子供の為にもがんばる。あなたの笑顔、喜びは我が喜び歓喜とする愛。
アイドルは虚像、恋の対象としては不適切です。この認識の下に有る限りは健全です。映像や音楽等の媒体を通じて、異性を感じる、好感を持つ。現実と虚像の混乱が間違いのもとです。達成することは無い想い、誰もが想いを寄せる安心感は健全です。アイドルをおっかけ、握手し、話しをするために何枚ものCDを買う行為は現実から離れ、妄想の世界に到達させます。アイドルを体感する現実が虚構の世界です。もしどうしても夢を実現したいならば、実現するための過程を設定して順次行動すべきです。
恋する女性とエクスタシーを共有する実感、愛する女性の歓喜を自己の歓喜と同一化する喜びが2人の全身全霊の合体を実現させます。男性は粘膜と粘膜の快感だけでは興ざめするエッチ、単独の自我が解放され2人の心と体が結合する歓喜のエッチを目指すべきです。それが大人の性愛です。
まさに、与謝野晶子 きけな神 ゆふべの春の 讚嘆のこゑ の世界です。残念なのは山谷えり子議員です、羞恥心が邪魔をしています。時空を超えてイエスを愛したマザー・テレサは体験は無くても他我に対する許容、寛容が養われていました。
真言密教の秘義、凡人が他者と一体化し、さらに曼荼羅世界に昇華する王道奥義があります。エクスタシーが自我と他我を一体化させ、自我と世界を一体化させます。
他我との交歓、エクスタシーによる他我と自我の一体化は、法律や規範とは無関係に個人として独立している2人の人間が一体となることです。さらに、世界との一体化とは自己承認や他者承認の欲求では無く、自己肯定や自尊心の欠落から自殺に至ることは反対に、その高揚歓喜が拡大して世界と一体化する自己の確認です。自己肯定、他者肯定、世界肯定です。性愛だけでなく純愛でも可能であるし、自己内省からも可能と考えます。しかし、その道程が示されなければ、道は分断され閉ざされたままです。
与謝野晶子は 人間礼拝 一つの覚書参照 の中で
人間は一人一人が宇宙の主人公、万有と共存して、自律的に独立する主人公としました。
性のエクスタシーは人を孤立から解放し、世界を共有する一員への一里塚です。性の羞恥心は社会的文化的な呪縛、性を不浄とし、女性蔑視の封建社会、前社会を維持した負の遺産です。豊かな人間教育を目指す性教育が「わいせつ」でもって歪められています。公序良俗は人の成長によってこそ維持します。
性を「わいせつ」とする宗教、道徳観念は性を嫌う羞恥心と差別を発生させます。隠すことで日夜を分ける、より魅力的になる事とは別問題です。
イギリスのD.H.ローレンスは人と人を結び付けるのは性愛としてチャタレー夫人の恋人を執筆、当時のイギリスでも無修正版が出版された1960年、猥褻文書として告訴されるが無罪、日本では伊藤整訳、無修正版が1950年に発行するも、発禁処分になり1957年に敗訴、絶版。その後時代の変化とともに1973年に無修正版が発刊されました。
落ち込んでいた青春時代、伊藤整の「鳴海仙吉」、自意識過剰の評価もありますが、大人の人間を考えさせる愛読書でした。
良心や信仰を犯されるよりは死を選び聖列に加えられた聖女・・・「良心に対して加えられる暴挙の中、最も避けねばならないのは、婦人の貞操に対すして加えられるそれである。何となれば、そこには自然に多少の肉体的快楽が混入するからである。・・・『有難たや』と其婦人は云うたのである。『少なくとも一生に一度、妾である私は罪悪無しに堪能致しました』・・・『かかる場合に自殺するなどは、やさしい仏蘭西婦人に相応しくない蛮行である。・・・それを為しながら、「厭アよゥー」と言いさえすればよいのである』・・
もし肉体の喜びが自殺によってすら守られねばならないものなら、人間はそのために生きているわけだ。よろしい、たいていの女は堪能していない。老婆や未亡人は人間として、生きていないわけだ。すると、それが暴力で与えられる。そのとき、それを拒んで死んだのが聖女なのか。それは、私は肉体のほか何ものもなかったと告白することではないか。日本に宗門取り調べがあった時は、キリスト教を放棄せぬからとて裁判所の下役人何人もの手に落とされてなお改宗しなかった何とかという大名の妻があった。それが、その女のみが聖女ではないか。そうではないだろうか。私は苦しい。よく分からなくなる。だが、その上、女たちは子供を孕むかも知れない。その子を憎めるだろうか。救うために、彼女らを救うために、何ものをも神聖にする女性の祝福。あの肉への精神の屈服がそこで起こる。つまり彼女らの肉体のありかたの当然の帰着だ。彼女らは肉体の喜びを選択できる保証をもっていない。そしてその肉体に結びつけられた精神の自由も持っていない。それが我々の相手の女性という人類の半分だ。
誰がそこから免れるか。肉の感覚を軽侮し得た女のみではないか。「罪悪なしに堪能した女」と、その何とかいう大名の妻とが同質ではないのか。聖女が肉体の感覚を拒んで自殺するということが、そんなことがあり得るだろうか。どうも分からない。また分からなくなった。
女性の性=性交=出産は間違いです。女性を人間としていません。封建時代から明治、戦前の昭和へと続いた女性差別であり、また現在も宗教や道徳に残存する。男の自己中の女性蔑視、偏見が強烈にあります。性は子作り、女の性はわいせつ。真言密教の秘儀は糾弾され、性から人間同士の絆、世界への王道も閉ざされました。負の連鎖は男性だけで無く女性自身さえトラウマが呪縛となり、推進、増殖している日本の貧困な精神。それに同調する多くの政治家達と安倍、性の商品化を再度訴え出した前大阪市長橋下、日本にとって不幸で残念なのは彼等が性交渉によって粘膜による快感以上の人間同士の合体を経験したことが無い?或いはエッチは性交渉での射精の快感、さいあく、エッチは子作り?としか考えていない疑いが濃厚であることです。私を含め多くの日本人が誤解する貧困な性文化、性の商品化、貧しい文化そのもの実態があります。わいせつ と言う言葉の呪縛によっておとし(貶)められる性、人間性そのものです。
性教育は、豊かな人間形成、人格の完成を日指す「人間教育」ですよネ。あなたの喜びは我が歓喜とする愛を否定する日本の破壊を許さない。
高3のとき、中央公論の月刊誌で読んだ庄司薫、赤頭巾ちゃん 気をつけて 映画になっていたとは知りませんでした。
「赤頭巾ちゃん 気をつけて」 (1970) 予告編 Be Careful, Red Riding Hood
去年、ろくでなし子さんが女性自身、局部の3Dデータ頒布、及び立体像の展示によって、わいせつ物頒布等、公然わいせつ罪に問われる裁判がありました。公然わいせつ罪は無罪、わいせつ物頒布等は有罪、現在控訴中。
「女性器は自分の大事な体の一部分に過ぎないものであるのに、日本では恥ずかしい、いやらしいものとして扱われてきた。」
被告自身の下腹部はわいせつ、として断罪する裁判は有り得ません。裁判官、検事、傍聴人全員の下腹部はわいせつと裁判しているのです。滑稽です。医学書で性器の描写はわいせつとして摘発しているのでしょうか?医学書としての解説があれば、週刊誌でも性器の描写は可能になります。
「わいせつ」とは
善良な性的道義観念に反するもの
普通人の正常な性的羞恥心を害するもの
いたずらに性欲を興奮または刺激させるもの
「公然」とは,不特定または多数の人が認識しうる状態
裁判の争点は女性器の立体像データは性道徳に反する?この一点です。妻の出産に夫が立ち会うのが一般化した現在、男性も女性器を見慣れておく必要があります。医学書や性教育だけが許される問題ではありません。
わいせつと芸術論争。裁判は広告と社会的衆目を集める役割と、権力の規制による性道徳の維持補完です。
明治以降急速に拡大した国家神道。非国民として女性、男性ともに精神の自由が許されなかった時代。沖縄でも繰り返された悲劇の集団自決、喜屋武岬、閲覧注意 1944年 サイパン カメラが捉えた投身自殺~バンザイクリフ 歴史が書き換えられる 消された映像
NHK 戦争証言「死者の血で染まった海」久永 義仁
http://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001160006_00000&seg_number=001
続く