原理 自由・愛・公平
原則 人権・平等・平和
私が在る限り貴方は有り
貴方が在る限り私は有る
アンパンマンが困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は絶対的な正義であり、立場が変わり国が違えば変化する相対的な正義とはちがいます。
そうでしょうか、飢えの主な原因は社会的、政治的原因です。宗教や思想が懐疑心を持たず、自らの正義を主張し、正義を押しつけるほど危険です。正義なんて不要です。公正で十分です。
キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教等々、そして宗派も分裂、乱立しいます。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)はもとより、ガンボジアのポルポト政権、毛沢東の文化大革命、日本での過激派の内部闘争などの社会主義、或いは、自由の名の下に差別、搾取を正当化しています。リンカーンの奴隷解放宣言は1863年、日本では幕末です。1854年にペリーが来航し、維新に向けた動乱の時代でした。
3.11大震災もありますが、結果をカバーできないのは人災です。世界各国で多くの飢える子供がいるのは現実です。アンパンマンがいないのです。正義よりも公正です。
戦乱の時代を経験した西欧州は EU 経済協同体として統一通貨ユーロを持つに至りました。
-再び- 朴ノヘ
希望に燃えた人間は
その人自身が希望であり
道を求める人間は
その人自身が新しい道
善良な人間は
その人自身、すばらしい世の中
人のなかにすべてが既にあり
すべては人から始まる
再び
人間こそ希望だ
-今すぐ飯になって- 朴ノヘ
草の根と樹の皮の粥を炊く、やせ細った主婦の顔を見ました
ひもじさに耐え切れず国境を越えわずか1万ウィアン(約110万ウォン)で中国の男に身売りされる花のような乙女を 一家そろって部屋に横たわり静かに餓死していく家族をひどい飢餓に発育が止まり髪の毛が変色した子供たちの写真を私は見ました
言いようのない挫折感と無力感、憤りと憂鬱症に苦しむ日々でしたそう言いつつも食事時になれば 私は決まったように腹が空き美味しいものを求めて過食し残したものは惜しみなく捨て間食までするのです
きょうも一日、目と鼻の先にいる同胞が数知れず腹を空かして倒れているのに私の食欲は救いがたく旺盛で胃腸はひとりでに蠕動し私の悲しみも、愛も、意志もそれを統御できません 逆に食欲がこれらを食い尽くすのです 「涙は下に流れても、しゃもじは上に向かう」とはよく言ったもので まことに無惨なありさまです、それが運動家だと自負してきた私の姿です それはしかし、生を受け肉体で生きる人間の悲哀であり 本性であり、また生の根本でもあるのです ああ、そうだったんです
飢えた胃腸を満たせない存在の根本を度外視したいかなる高尚なものも すべて虚構だったんです 生活の質も、芸術も、人間らしさもすべて見せかけに過ぎません ひもじさに身悶えするあの数千数万の胃腸に 今すぐ飯とならない愛は、飯になれない道徳は、飯に変わることのできない 正義と進歩は すべて偽善であるしかないのです
飢餓に倒れる人々の前で飯になれないのなら すべて打ち毀されるべきであり、否定されるべきであり、屈服させられるべきです
この瞬間にもばたばたと倒れていく同胞に今、一椀のトウモロコシ粥、一杯の小麦粉粥にもなれない 私の愛、私の信念、私の人間であるなら 決して許されることはないでしょう
多くの人が餓死し栄養失調で障害を被った後に私たちが統一しても ああ、同じ民族が骨の髄まで怨恨を胸に抱いて生きるとしたら 虐殺よりも恐ろしい怨恨が、私の未来と子供たちの未来を いつまでも陵辱し続けるとしたら この過ちを誰も正すことはできないでしょう
今この瞬間に、茶碗一杯の飯となって駆けつけることのできない
あらゆる価値あるもの、あらゆる正しいもの、あらゆる神聖なものは
すべてまやかしであり偽善であり罪悪でしかありません
今すぐ、飯となって駆けつけないとしたら
「朴ノヘ 獄中詩選」 別web -今すぐ飯になって-より
アンパンマン作者のやなせたかし氏は>正義にも色々あって、アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。立場によって変化する。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。<
どうでしょうか?絶対的な正義と相対的な正義が有るならば、正義という言葉は死語、不要であって欲しい。どれだけ多くの不正義が正義の名の下に行われたか、歴史を省みれば正義の真贋を問うよりも、正義という言葉は亡くなった方がいいのです。
正義と似た言葉に公正があります。法律用語としては公正で十分です。思想、信条、宗教ではどうでしょうか?正義感がある人よりも、公正感がある人の方が好感が持てます。
続く
過去2回要旨の定まらない内容でした。少し補足します。
”成績が悪いのは学校や先生の責任”あなたの心情は理解します。嫌な記憶がトラウマになっているのかも知れません。それでテストの成績が悪っかたことが正当化されても、現実は良くなるでしょうか?先生と対峙すれば、勉強しなさいと云ったでしょう?解らないことを質問しましたか?ますます憎しみが増すだけです。問うべきは、勉強の楽しさを理解できなかったか?どうして勉強は楽しくなかったのか?です。
無視され、仲間はずれになって、疎外感、人間不信になっているのかも知れません。あなたが親となれば、子供を思う親の気持ちも理解出来るでしょう、その気持ちを育てて下さい。人を愛する心を育てて下さい。あなたに他人の無関心が最大の不幸を与えたならば、あなたの人を愛する心が最大の幸福を人に与えます。ちょとしたことです。前を向くか、後ろを向くか、あなた自身の気持ちの切り替えしだいです。過去の怨念から解放されましょう。過去に囚われるかぎり、あなたの幸福も囚われたままです。
人は自己を確立する過程で社会性を獲得していきます。はじめて接するのは母乳をもらう母親であり、親兄弟です。保育所もあるでしょう。近所の子供との交流もあります。その中で子供は成長します。
この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。自分は誰からも必要とされていない と感じる事です。ーある社会の中で無視される、よけ者にされる、無関心が何故、人生最大の不幸なのでしょう?人は社会ので孤立しては生きられ無いからです。人は社会の中で人と関わりを持って生きることが幸福である。ようになっているのです。
先日テレビで養老 孟司氏が、自殺者の多くは人間関係だけに囚われて、自然との関係、花鳥風月を楽しむ心情が欠落しているのでは?心に幅広い遊びも必要なようです。
話を戻します。利己の対義語は利他ですが、一人の人間の中で対比するものでは有りません。人を好きになる。好きな人が喜ぶことをしてあげる。これは利己でしょうか、利他でしょうか?
チャタレー夫人の恋人の裁判で有名な伊藤整の鳴海仙吉(二十歳頃の愛読書でした)の中で
”(ドイツ人、若きウェルテルの悩み著)ゲーテの植物学者としての不朽の功績は、一個の花が一本の枝の変形であることを証明したことであった。花が開き、雌雄がそこに交わり、虫と鳥を誘い寄せるのは、植物それ自身の肢体の一部の転生であること。存在する我以外の何ものも花咲くことができる筈がないことを芸術家ゲーテが知っていた。”
一人の人間の行為の総ては生きることの表れです。利己、利他は社会の中での相対的な評価に過ぎません。
無関心が最大の不幸ならば、社会に評価される事が最大の幸福になります。 叱るより褒めて育てる。につながります。
叱りは怒り、脅えの感情を伝えます。本人が不当と感じれば怒りの反発心を生みますが、脅えを感じれば萎えるだけです。
続く