2 自由と愛 Liberty and Loving
自由主義社会と自己責任が日本だけで無く、世界を席巻しています。そこでは”自由と愛”は別次元のモノであり、自由に対する憧れ、愛への憧れであって、時には対立する概念として二者選択するようなイメージが覆っています。
自由と愛はもとより対立する概念ではありません。夫婦や親子など対人関係で愛という言葉での束縛を受ける、そして束縛からの自由という構図があります。しかし、束縛という時点で対等な人間関係ではありません。支配と被支配です、個人の尊厳を認め合う関係ではありません。
左手は愛、右手は個人の自由を謳歌して世界を占有しようとする新自由主義は”自由と自己責任”です。そこには自己愛しかありません。天を冒涜する二枚舌です。
自由は個人の生きる権利、命をつなぐ権利です。一人一人の命を保証する普遍的人権です。他人の生きる権利を奪う自由ではありません。Liberty and Loving 愛は人に生きる力を与える原動力、生きる証です。
自由と愛をWebで検索すればキリスト教関連のサイトが圧倒的にヒットします。専売のイメージがあります。ここでの愛は神により与えらた愛 Freedomです。しかし、西洋(ヨーロッパ)の古代、中世、近世、近代、現代の歴史に於いてキリスト教が担った役割はどうであったでしょうか?中世の暗黒時代、「それでも地球は動く」とつぶやいたとされる宗教裁判、自由の女神に代表されるフランスの市民革命。
教会の”自由と愛”、パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
しかし、虐げられる民と共に怒った人間イエスの「神の国に最も近い人」ならばメキシコを北上する難民、移民キャラバンの先頭に立ち、モーセが海を割ったように国境の鉄柵を溶解するかも知れません。
キリスト教会と人間イエスの違い、教会は神至上です。人と人の人間関係の以前に神を対峙させます。罪人よ 神はあなたがたが自由を得るために召し出された、・・・愛によって互いに仕えなさい。と言って神、教会の権威を人々の上に建てます。人間イエスならば互いに仕えあいながら他者と共に生きることを選択します。イエスは行動に自由と愛は同じ事として実践します。
自由が生きる権利ならば35億年の生命の歴史が自由の起源とも言えます。
生命は生きること、命をつなぐことを命題として自由の概念が確立しました。弱肉強食の生物界の中、同族同士でも争い生き残ってきた人間です。弱肉強食の世界は人類生存の危機となり、自由平等の権利が現代になって普遍的人権となりました。自由-人権は自分の思うがままに生きる権利では無く、他人の人権も守らねばならない二律背反の権利です。欲求を満たせばどちらかが斃れる彼我があります。釈迦は人生は四苦八苦、生老病死の他、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦は悟りと中道で解決できるとして、自灯明 法灯明 法に則り自分で解決すべし。自由が当然の人にあっては自他の自由は出家遁世や”閉じこもり”によって完遂されます。サルトルが「人間は自由という刑に処せられている」から(人間は自由であるように呪われている)はより文化的な香りがしますが、自由が持つ二律背反です。”自由と愛”が並列に記載されるのは”自由”の束縛を解除させるには”愛”が必要であり、”愛”の束縛を解除させるためには”自由”が必要だと言えます。
自由が35億年の生命の歴史が自由の起源ならば愛は知性が発達した数百万年の文明文化発展の歴史であり、人の生きる原動力が愛とも言えます。しかし、子の出産、授乳等は雌雄の分化、有性生殖の起源である20億年前まで遡った力です。
”私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある”
この言葉を初めて使ったのは愛する人への究極の告白として生まれました。3次元が今の生きる世界ならば、時間を超えた世界で訴える愛の告白です。愛は生きる力、フォースです。人の力を最大限に発現させる力です。一人の人間の能力は弱く小さいけれど、過去の人であれ、現在の人であっても、個人が他と同化すれば能力は倍加することが可能です。他者との同一化が愛と言えます。そこには知性の発達が前提になります。
高倉 健は 一番大事な自分より、大事に思える人がいる。人を想うことは誰にも止められない。あなたに褒められたくて。
又、文化の継承は学習、真似がありますが、感化もあります。芸術しかり、かつて技術の継承は何年も同じ場を共有して、師匠の一挙一動を見ることで会得するものでした。広義に考えれば愛は生活そのものに有ると言えます。しかし、歴史は私利私欲で動いてきたという見方もあります。プラス思考マイナス思考によって世界の見方は一変するのと同じです。
”私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある”思い巡らせば、私は親や子供だけで無く、ピタゴラスや敬愛する人々は私が生きている限り私の中に在ります。私の存在は先人に負っています。同様に私の存在は次世代へ影響を必然的に与えることが可能です。このように考えれば、私の命はあと十数年かも知れませんが、死の恐怖はありません、私が逝ったあとに愛する人たちが生を謳歌してくれる信念があります。直接出会った人であれ、過去の人であっても記憶の中でその人が私を輝かせているからです。
2019/12/28更新
自由主義社会と自己責任が日本だけで無く、世界を席巻しています。そこでは”自由と愛”は別次元のモノであり、自由に対する憧れ、愛への憧れであって、時には対立する概念として二者選択するようなイメージが覆っています。
自由と愛はもとより対立する概念ではありません。夫婦や親子など対人関係で愛という言葉での束縛を受ける、そして束縛からの自由という構図があります。しかし、束縛という時点で対等な人間関係ではありません。支配と被支配です、個人の尊厳を認め合う関係ではありません。
左手は愛、右手は個人の自由を謳歌して世界を占有しようとする新自由主義は”自由と自己責任”です。そこには自己愛しかありません。天を冒涜する二枚舌です。
自由は個人の生きる権利、命をつなぐ権利です。一人一人の命を保証する普遍的人権です。他人の生きる権利を奪う自由ではありません。Liberty and Loving 愛は人に生きる力を与える原動力、生きる証です。
自由と愛をWebで検索すればキリスト教関連のサイトが圧倒的にヒットします。専売のイメージがあります。ここでの愛は神により与えらた愛 Freedomです。しかし、西洋(ヨーロッパ)の古代、中世、近世、近代、現代の歴史に於いてキリスト教が担った役割はどうであったでしょうか?中世の暗黒時代、「それでも地球は動く」とつぶやいたとされる宗教裁判、自由の女神に代表されるフランスの市民革命。
教会の”自由と愛”、パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
しかし、虐げられる民と共に怒った人間イエスの「神の国に最も近い人」ならばメキシコを北上する難民、移民キャラバンの先頭に立ち、モーセが海を割ったように国境の鉄柵を溶解するかも知れません。
キリスト教会と人間イエスの違い、教会は神至上です。人と人の人間関係の以前に神を対峙させます。罪人よ 神はあなたがたが自由を得るために召し出された、・・・愛によって互いに仕えなさい。と言って神、教会の権威を人々の上に建てます。人間イエスならば互いに仕えあいながら他者と共に生きることを選択します。イエスは行動に自由と愛は同じ事として実践します。
自由が生きる権利ならば35億年の生命の歴史が自由の起源とも言えます。
生命は生きること、命をつなぐことを命題として自由の概念が確立しました。弱肉強食の生物界の中、同族同士でも争い生き残ってきた人間です。弱肉強食の世界は人類生存の危機となり、自由平等の権利が現代になって普遍的人権となりました。自由-人権は自分の思うがままに生きる権利では無く、他人の人権も守らねばならない二律背反の権利です。欲求を満たせばどちらかが斃れる彼我があります。釈迦は人生は四苦八苦、生老病死の他、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦は悟りと中道で解決できるとして、自灯明 法灯明 法に則り自分で解決すべし。自由が当然の人にあっては自他の自由は出家遁世や”閉じこもり”によって完遂されます。サルトルが「人間は自由という刑に処せられている」から(人間は自由であるように呪われている)はより文化的な香りがしますが、自由が持つ二律背反です。”自由と愛”が並列に記載されるのは”自由”の束縛を解除させるには”愛”が必要であり、”愛”の束縛を解除させるためには”自由”が必要だと言えます。
自由が35億年の生命の歴史が自由の起源ならば愛は知性が発達した数百万年の文明文化発展の歴史であり、人の生きる原動力が愛とも言えます。しかし、子の出産、授乳等は雌雄の分化、有性生殖の起源である20億年前まで遡った力です。
”私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある”
この言葉を初めて使ったのは愛する人への究極の告白として生まれました。3次元が今の生きる世界ならば、時間を超えた世界で訴える愛の告白です。愛は生きる力、フォースです。人の力を最大限に発現させる力です。一人の人間の能力は弱く小さいけれど、過去の人であれ、現在の人であっても、個人が他と同化すれば能力は倍加することが可能です。他者との同一化が愛と言えます。そこには知性の発達が前提になります。
高倉 健は 一番大事な自分より、大事に思える人がいる。人を想うことは誰にも止められない。あなたに褒められたくて。
又、文化の継承は学習、真似がありますが、感化もあります。芸術しかり、かつて技術の継承は何年も同じ場を共有して、師匠の一挙一動を見ることで会得するものでした。広義に考えれば愛は生活そのものに有ると言えます。しかし、歴史は私利私欲で動いてきたという見方もあります。プラス思考マイナス思考によって世界の見方は一変するのと同じです。
”私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある”思い巡らせば、私は親や子供だけで無く、ピタゴラスや敬愛する人々は私が生きている限り私の中に在ります。私の存在は先人に負っています。同様に私の存在は次世代へ影響を必然的に与えることが可能です。このように考えれば、私の命はあと十数年かも知れませんが、死の恐怖はありません、私が逝ったあとに愛する人たちが生を謳歌してくれる信念があります。直接出会った人であれ、過去の人であっても記憶の中でその人が私を輝かせているからです。