原理 自由・愛・公平
原則 人権・平等・平和
私が在る限り貴方は有り
貴方が在る限り私は有る
はじめに たのしいかな・・・で 天上天下唯我独尊を独解しました。
貴方が今いるのが天の国です。大宇宙の中の地上 生きとし生け
るもの 総てのいのちは尊い あなたもわたしも尊い存在です。
天上、天下に我こそが尊い 個人の超エゴであっても、普遍化すれば
総てが尊い に変化します。
仏教を専門に学んでいません。webで調べると釈迦は文を書き残して
はいません。天上天下唯我独尊でさえ、釈迦の言葉では有りません。
悟りを得たのは35才以降ですから不可能です。総ての膨大な経典は
釈迦の没後200年以降に文章化され、般若経、維摩経は紀元1世紀に
編纂されました。釈迦の生存中は説教を筆記する事を禁止しました。
”サイのように歩め”出家した後は独立独歩、自らの頭で考えよ。
仏陀とは悟った人、仏の悟りに目覚めた人とのこと。となると、釈迦
=仏陀はシンボライズされています。偶像崇拝も後世の創作です。
悟りが「人生の煩悩、迷いを去って生死を超えた永遠の真理を会得
する」とするならば、後世の人の言説も仏陀の言葉です。言葉は場所、
時代によって変化します。厳密には言葉の意味は発した人しか理解で
きません。現代人は当時よりも遙かに進んだ科学知識、文明がありま
す。当時は男女同権やDNA、大脳生理という言葉すら有りませんでした。
釈迦は何を言ったか? 何が伝承され、何が偉人としての言葉なの
か? 現代にも通じる言葉は何か? そこに意味があると感じます。
或いは何が人々の心を引きつけ、その論理を発展させたのか?
紀元前7~5世紀 インド北東部、ガンジス川の北、ネパール近
くの小国の王子として生まれ、過保護で育てられた。当時、祭祀とカ
ースト制度のバラモン教には聖典ヴェーダがあり、ヴェーダ詠唱がユ
ネスコの無形文化遺産に登録されています。又、様々な思想家によっ
て業、輪廻、宿命、解脱などの哲学思想があり、学んだようです。
少年釈迦は鳥が虫をついばむのを見て 哀れ生き物は殺し合う と
世の惨さ、はかなさ、無情に心を痛め、生命の残酷性を知りました。
この認識を一歩進めると同じ人間でも社会的に差別される身分制度や
奴隷制度があります。そして自ら王子としての恵まれた生活と貧しい
生活を送る人との差に疑問が生じます。又、釈迦は3人の妃がいまし
た。宮殿生活でも様々な人間関係での軋轢に悩んだでしょう。
釈迦の時代、バラモン教が支配する社会から離れ、世俗の人間関係
を絶ち、解脱の道を求めて修行する出家者がいました。釈迦も同じよ
うに一日一食の乞食の出家修行をしました。人間離れした苦行が仙人
となり、仏陀神通力を得ると信じられていましたが、釈迦は瀕死の状
態まで苦行しましたが、得るものはないと自覚しました。牛乳のかゆ
のなんと美味しく、生きている事の喜びを実感したでしょう。その後、
釈迦は菩提樹の下で、考えました。
世界は総て波のように変化する物である。生き物、人間もまた変化
し、生死病老、世俗は思うようにならない。無我と非我、自我は自分
に固執するからストレスが溜まるのであって、総てを認めることは総
てを許すこと、結果的に自己も認めることになります。又、バラモン
教の輪廻転生や霊魂を論争しませんでした。検証できない事を論じて
も争うだけで意味が無いとしました。
調べるほどに釈迦は宗教家では無く、思想家、出家者の実体が明ら
かになります。人は死に恐怖し暴力に脅える、殺生、生物は他を殺し
続けて生きる。他を殺さなくては生きられない生命の現実、世俗を絶
った出家者の戒には植物の栽培の禁止もあったようです。殺生は在家
に依存し、命をつなぐ食事の施しを受ける土壌があったのでしょう。
慈愛、悲(抜苦)、喜、捨(平静)心の4つの無量心を育むことが
説かれている。それは人生は一切を皆苦とし、四諦八正道に務め、精
神の安静を中庸で保つ修行者であり、因果、縁起、此があれば彼があ
り、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼
が滅す。
飛躍すれば、検証不可能なこと、輪廻が在ると感ずれば輪廻が有り、
輪廻はないと実感すれば輪廻は無い、ならば、釈迦には輪廻は無いと
これの説明が案外むつかしい。
釈迦の死後、数世紀をかけてブッダとして、偶像化され信仰の対象
とした宗教に変質する。釈迦の死を弔う祭儀は伝承されていない。私
を崇拝するな、偶像は作るな。釈迦の誤算であった。出家者の人数が
増えれば増えるほど、食事の調達に苦労する。乞食は調理された物か
ら、未調理になり、金品に変化する。木の下の修行場は道場になる。
集団を頂く人が偉ければ偉いほど、乞食に都合が良い、難しい議論を
在家にするよりも、解りやすい方便を使った方が話しが早い。来世や
極楽、地獄の方が手っ取り早い。経典や像の形ある物の方が感覚的に
理解できる。修行、学究する個人と組織は別の物である、今日のよう
に教育、研究する学校が無い時代の錯誤。
天上天下唯我独尊は宗派や個人で様々に理解されています。大別す
ると3つになります。
釈迦を偶像化し、讃える為に、この世界おいて我は唯一無二の存在
である。天にも地にもただ我一人尊い
仏教の教えを讃えるために、人間として生まれ、佛となる身を尊び
なさい。天上天下、われわれ人間にしか果たせない目的がある。
生命の尊厳、平等の原理として、あなたほど大切な人は、この世に
ない。私という存在はこの世に一つ、命を大切に。すべての生命は天
上天下唯我独尊である。
どう解釈するかは、解釈する人の思想信条の自由ですが、釈迦の言
葉としては生命の尊厳、平等の原理として解するのが妥当です。縁起
の 此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す からすれば
貴方が今いる場所が総てです。大宇宙の中の地上 生きとし生ける
もの 総てのいのちは尊い あなたもわたしも尊い存在です。
無我非我を説いた釈迦にとって、死後の魂の存在は論ずることすら
無意味です。人の言う、確かで無い死んだ後のこと、もしあったら?
第一に無いとして、貴方の今の人生をすばらしいものにしなさい。
第二、現世、次世代のために貴方ができることを考え行動しなさい。
第三、来世があったとしても、貴方を愛した親、総ての先人が来世を
ちゃんと良くしています。
4つの無量心を育てなさい。そして他人を愛することを学びなさい
私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある 涅槃の境地
わたしは どこから 来て どこへ ゆくのか
ひとり 生まれ ひとり 生き
ひとり 考え ひとり、を思う
始まりは いつかの昔
終わりは いつかの明日
そして いま、ここ、に わたしは、いる
それが たしかな、わたし 良寛 田中和雄訳
2014-05-02 11:03:34 投稿
思想家としての釈迦を考えた時、天上天下唯我独尊は前回、
貴方が今いる場所が総てです。大宇宙の中の地上 生きとし
生けるもの 総ての命は尊い あなたもわたしも尊い存在です。
に進化しました。”サイのように歩め”は”独り我が道を行け”
唯我独尊に通じる修行者の姿です。
宗教への変質が時代背景での宿命であり、残された総ての物
がその伝承であったとしても、宗教的要素を排除し、論理的思
考のエッセンスを培養すれば、失われた思想、現代の釈迦が復
活します。そして、当時の限界でカットすれば人間釈迦の実体
になります。
天上天下唯我独尊 がいつ作成されたかは不明としても、2
千年の歴史の中で、世界中で女性の参政権が20世紀になって
実現した現実は、偏見と差別が如何に根強く世界に充満してい
るかの表れです。言葉の意味が理解され難く、人それぞれに都
合良く理解されるかを物語っています。戦後、神国日本から自
由の国としての憲法が制定されました。しかし、皇国日本の臣
民として育てられた、当時の多くの日本人は個人の尊厳を個人
の自由に矮小化して理解していました。今日、憲法の3原則、
国民主権、基本的人権、平和主義をどれだけ理解しているか?
或いは、原則の元になる原理とは何なのでしょうか?
天上天下唯我独尊 に秘められた仏教の人権思想
天上天下は天の上と下、今あなたがいるのが唯一無二の世界で
あり、我を一人称で理解すれば独立独歩、我が道を行く自由で
す。我を二人称で理解すれば、生きとし生けるもの 総ての命
は尊い あなたもわたしも尊い存在、個人の尊厳、平等です。
天上天下唯我独尊 8文字の中に、個人の自由、命の尊厳、
平等の概念、現代の人権思想の原理があります。そのように見
れば19世紀のフランス革命、自由の女神に値する文字の美し
さです。
釈迦の時代、世界は神話であり、祭儀が決定権を持つバラモン
の社会でした。論理的思考は不用であり、言葉が概念を決定し
ました。そして、出家者の修行、苦行が仙人となり神通力を得
て悟りを得る方法でした。人生は残酷で、無常であり、苦しい
世界として出家しました。贅沢の限りを知り尽くした釈迦の心
情は現代でのニートの心情に似ています。違いはゲームに興じ
無かっただけかも知れません。
此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば
彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。縁起は釈迦の思想の根本原
理です。
想えば数学でのゼロの発見を想い浮かべます。空の概念は西
暦2、3世紀の竜樹によって般若心経が完成したようですが、
釈迦は悟りを得た時、内容は深淵で、悟りの内容を説いても人
々は理解できない(説明が難しく言葉にできない)それは説明
する概念、言葉が無いことを意味します。ゼロは場を占めるけ
れど値は無し。少し明かりが見えた気がします。続く・・・
2014-05-08 15:51:59 投稿
前回
天上天下唯我独尊 8文字の中に、個人の自由、命の尊厳、
平等の概念、現代の人権思想の原理があります。そのように見
れば19世紀のフランス革命、自由の女神に値する文字の美し
さです。
としました。西欧の人権の原理は自由、平等、友愛です。
ならば 天上天下唯我独尊は
一人称で自由独立、二人称で平等、一人称二人称の合算で共
生愛です。 自由、平等、共生愛
貴方が今いる大宇宙の中の地上がすべて、人は自由で有り、
互いの命の尊厳を認める、共に生きる相手を愛する共生愛。
生きとし生けるもの総ての命は尊い、あなたもわたしも尊い。
天上天下唯我独尊の解釈は最終とします。
天動説があった頃、誰も地動説は信用しません。地動説は天体
観測で得られた結果ですが、星(恒星)の動きと月、金星、火星
等の動きの違いです。金星は最も明るく見える星ですが、明けの
明星、宵の明星でしか見えません。何故?地動説の始まりです。
2014/5今は明けの明星の見えるチャンスです。
ぐんま天文台参照 他に国立天文台
釈迦は自分の悟った縁起を、甚深微妙にして一般の人々の知り難
く悟り難い。此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が
生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。釈迦の論理学です。
何故か?始めに言葉あり、言葉は言葉として確実なものです。
釈迦の時代、人間は輪廻を繰り返し、苦の連続の思想が既にあ
り、現世で善行を積んで来世での生活に期待するか、難行苦行の
修行で仙人となるかの時代でした。釈迦は出家の道を選んでも生
活でき、思想を深めることができました。
釈迦は縁起よって無我、無常の世界観を得て、現世を肯定し、
涅槃寂静の境地に至る悟りの境地、修行を説きました。
釈迦は五蘊(ごうん)色、受、想、行、識で識は行が無ければ、
行は想が、想は受が、受は色が無ければ存在しない。識が認識や
直感、心、霊魂とするならば、色や受想行が無ければ識は有りま
せん。しかし、私は輪廻転生しない。と言っても他の人は、自分
は輪廻転生しない。とは理解しないだろう。を知るリアリストで
した。たしかでない死後、輪廻転生に反するためには、世界を識
る知恵と現世での他者を認める共感の努力が必要です。普通の人
にとっては、考える必要のない言葉で理解する方が簡単です。
空の言葉の概念は釈迦の時代には無かったでしょう。死後、数
百年で確立しました。釈迦の後世の般若心経では、無色無受想行
識、五蘊皆空となっています。釈迦は哲学や修行を語っても信仰
について語っていません。しかし、ブッダの修行教団は経済的に
来世を説き、釈迦を祭り上げ、浄土、極楽を見出すことで仏教は
輪廻を克服し、大衆化しました。それは、歴史的に見ればインド
ではバラモン教が仏教とヒンズー教に分派していることです。そ
してゾロアスター教等多くの宗教を吸収して増殖分裂しました。
チベット仏教ではダライ・ラマは世襲ではなく、生まれ変わりで
継承されています。
死後の問題は現代でも人生の重要な問題です。釈迦の思想は宗
教、信仰として発展伝承されて来ました。歴史や科学知識が発達
した今日でも、様々な宗教が生まれ変わり、前世、霊魂、背後霊、
来世などのあいまいな概念を信仰、宗教の前提として成立してい
ます。しかし、現世を第一義にすることでその正当性をかろうじ
て保っていますが、崇拝者、指導者を絶対化する集団はカルト化
しています。
釈迦が自ら輪廻転生しないと言った真意は世界は無我、無常の
世界であり、はっきりしない前世、来世を案じて苦労するよりも、
現世で涅槃寂静の悟りを得るであった。歴史はそれを証明してい
る。言葉、文字ですら無常であって、釈迦の言葉は後世の人々の
伝承によって伝えられ、元の言葉は数百年後には理解すら困難で
あり、人々の心から離反すれば、そのものが伝承されない事を。
心、魂、心情は共感にって伝わります。多くは物や言葉、音楽、
表情や表現によって成立します。人類共通の感覚、笑顔や怒りの
感覚も有れば、その社会でしか理解できない表現もあります。
人は物に心を込めては芸術品を、音に心を込めて音楽を、言葉
に心を込めて文学を伝承できます。そして、人類は科学によって
宇宙の原理を伝承発展させてきました。
釈迦が無常、無我の境地に至った時、苦しみは楽と一体化しま
す。感じ想う自分が無我ならば、自分を信じる無我は、他人を信
じることができます。自然を愛で、親妻子を愛する心が無常であ
っても、無我の私は愛することができる。この境地に至るならば、
前世来世に思い悩むことは余分で有り、無駄であると。
無我で有るあなたならば無我で有る自分と即効に共感が可能と