歎異伝 人生論ノート 三木清 (2) 幸福について
青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html
幸福について 三木は「幸福とは人格である」としています。人格に特別の意味を与えています。「人格」を少し調べると三木の師に当たる西田幾多郎が倫理「善の研究」の中で「善とは一言にていえば人格の実現である」としています。しかし、残念ながら私の嫌いな言葉、真理や真の○○が使われています。真理や真実は真で修辞しなくても理(ことわり)、事実で十分です。真の真は問答無用の押しつけ論です。幸いにも未だ三木清には見い出していません。
私達は生きるために衣食住が必要であり、命をつなぐための異性との生活が必要です。
肉体的な生活が、(生る目的)-生きる事 命をつなぐ事-とするならば、群生動物である人間の肉体的、且つ精神的な生活は、(どう生きるか)-たくましく やさしさありて たのもしい-です。
純粋な精神的生活は(生命意識の共通解)-私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある-を知識だけで無く、人生経験の中で体感を重ねる事で人間性、人格は成熟します。三木清と同世代のエーリッヒ・フロムは「愛する」ということは技術として身に付ける必要がある、愛するには成熟した人格を必要とする。と 人間は赤子から順次成長して人格を得ていきます。
幸福とは命の燃焼、歓喜、情緒の状態であると言えます。一方でランナーズハイのように苦しさの中でも快を得ます。労働の充足感、安息感、創造の過程、達成感。記憶が正しければ近江商人の心意気、千両天秤「山高ければ 高きをもってよし 道遠ければ 遠きをもってよし 坂険しければ 険しきをもってよし」
今、現在が困難な状況であっても、希望があれば、幸せにむかって努力することが、幸せになります。健康な状態です。逆に、気力が萎え、現状に打ち砕かれれば不幸と言えます。鬱病とまでいかなくても、自己崩壊、自信喪失などに伴いプラス思考からマイナス思考に落ちいれば不幸のど真ん中です。
生きるのがつらいと感じても自分を信じて耐えるか、逃げれば、新しい展望や希望が開きます。
人間社会主義 テーゼ2、たくましく、やさしさありて、たのもしい。
(高倉健)あなたに褒められたくて が人生の一大事です。人が心に想うことは誰にも止められない。 自由が必要です。親兄弟、伴侶友人、社会の中での幸福。本能リピドーは性的欲動だけでなく強力なエネルギーの根源です。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。・・「幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかといふが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かような問に対しては、そのいづれでもあると答へるのほかないであらう。なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格といふものが形成されるものであることを意味している。
今日の人間は幸福について殆ど考へないようである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が国で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であろう。かような書物を倫理の本と信じてよいのかどうか、その著者を倫理學者と認めるべきであるのかどうか、私にはわからない。疑いなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたということである。・・・
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいはば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剩に苦しむともいはれている。その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考へないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴附けている。・・・
私は考える。今日の良心とは幸福の要求である、と。社會、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであらうか。
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのでなく、反対に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。・・・
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも氣樂にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは真の詩人でない如く、単に内面的であるといふような幸福は真の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
義務教育で道徳が教科化されます。文科省の道徳の目的は、道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする。幸福に関しては 世界の平和と人類の幸福に貢献する。或いは、私達の道徳 小学5、6年生
(5)家族の幸せを求めて 家族に見守られて成長してきた私
どんなときも 私を信じてくれている。どこにいても 私の心を支えてくれる。私の家族。大切な家族のために 私は何ができるのであろう。ときには「うるさいなあ」と想うこともある家族の存在。でも、これからも かけがえのない自分の居場所であり続ける課程。大切な家族とのきずなをより強いものにし 家族みんながもっと幸せになるように 私にできることがきっとあるはず。
なぜ 個人の幸福と言わない。言わせないか? 個人の幸福は人権尊重が前提です。そして、個人の自信自覚自立を学校などの社会の中で学ぶことが肝心です。
個人を倫理規範で固め、郷土愛、愛国、伝統を重視する道徳は くそくらえ
since2017.9.2
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幸福について 三木は「幸福とは人格である」としています。人格に特別の意味を与えています。「人格」を少し調べると三木の師に当たる西田幾多郎が倫理「善の研究」の中で「善とは一言にていえば人格の実現である」としています。しかし、残念ながら私の嫌いな言葉、真理や真の○○が使われています。真理や真実は真で修辞しなくても理(ことわり)、事実で十分です。真の真は問答無用の押しつけ論です。幸いにも未だ三木清には見い出していません。
私達は生きるために衣食住が必要であり、命をつなぐための異性との生活が必要です。
肉体的な生活が、(生る目的)-生きる事 命をつなぐ事-とするならば、群生動物である人間の肉体的、且つ精神的な生活は、(どう生きるか)-たくましく やさしさありて たのもしい-です。
純粋な精神的生活は(生命意識の共通解)-私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある-を知識だけで無く、人生経験の中で体感を重ねる事で人間性、人格は成熟します。三木清と同世代のエーリッヒ・フロムは「愛する」ということは技術として身に付ける必要がある、愛するには成熟した人格を必要とする。と 人間は赤子から順次成長して人格を得ていきます。
幸福とは命の燃焼、歓喜、情緒の状態であると言えます。一方でランナーズハイのように苦しさの中でも快を得ます。労働の充足感、安息感、創造の過程、達成感。記憶が正しければ近江商人の心意気、千両天秤「山高ければ 高きをもってよし 道遠ければ 遠きをもってよし 坂険しければ 険しきをもってよし」
今、現在が困難な状況であっても、希望があれば、幸せにむかって努力することが、幸せになります。健康な状態です。逆に、気力が萎え、現状に打ち砕かれれば不幸と言えます。鬱病とまでいかなくても、自己崩壊、自信喪失などに伴いプラス思考からマイナス思考に落ちいれば不幸のど真ん中です。
生きるのがつらいと感じても自分を信じて耐えるか、逃げれば、新しい展望や希望が開きます。
人間社会主義 テーゼ2、たくましく、やさしさありて、たのもしい。
(高倉健)あなたに褒められたくて が人生の一大事です。人が心に想うことは誰にも止められない。 自由が必要です。親兄弟、伴侶友人、社会の中での幸福。本能リピドーは性的欲動だけでなく強力なエネルギーの根源です。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。・・「幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかといふが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かような問に対しては、そのいづれでもあると答へるのほかないであらう。なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格といふものが形成されるものであることを意味している。
今日の人間は幸福について殆ど考へないようである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が国で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であろう。かような書物を倫理の本と信じてよいのかどうか、その著者を倫理學者と認めるべきであるのかどうか、私にはわからない。疑いなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたということである。・・・
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいはば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剩に苦しむともいはれている。その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考へないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴附けている。・・・
私は考える。今日の良心とは幸福の要求である、と。社會、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであらうか。
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのでなく、反対に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。・・・
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも氣樂にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは真の詩人でない如く、単に内面的であるといふような幸福は真の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
義務教育で道徳が教科化されます。文科省の道徳の目的は、道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする。幸福に関しては 世界の平和と人類の幸福に貢献する。或いは、私達の道徳 小学5、6年生
(5)家族の幸せを求めて 家族に見守られて成長してきた私
どんなときも 私を信じてくれている。どこにいても 私の心を支えてくれる。私の家族。大切な家族のために 私は何ができるのであろう。ときには「うるさいなあ」と想うこともある家族の存在。でも、これからも かけがえのない自分の居場所であり続ける課程。大切な家族とのきずなをより強いものにし 家族みんながもっと幸せになるように 私にできることがきっとあるはず。
なぜ 個人の幸福と言わない。言わせないか? 個人の幸福は人権尊重が前提です。そして、個人の自信自覚自立を学校などの社会の中で学ぶことが肝心です。
個人を倫理規範で固め、郷土愛、愛国、伝統を重視する道徳は くそくらえ