愛と自由に満ちた幸福な生活は公平であるべし、人権・平等・平和が生きる人の権利

原理  自由・愛・公平
原則 人権・平等・平和
私が在る限り貴方は有り
貴方が在る限り私は有る

生命体としての存在論 7、哲学と科学の到達点 虚構の崩壊で確立する 自由と愛

2023年05月26日 | 生命体としての存在論


 人間は死ねばどうなる?
人が死んだ後は家族をはじめ、慈しんだ愛する人の中で人格として生きます。

 一万年二千年の宗教に大変革が起こります。あなたが今まで知っている知識のタガを緩めて読み進めて下さい。
 As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.
私が在る限りあなたはあり、貴方が在るかぎり私はある。
略して As FAR YOU'RE
 これが生命体が太古の昔から脈々と命を引き継いできた生命の実体です。コピーミスもありますが、理論上は子は両親からDNAを半分ずつ引き継ぎます、孫は四分の一です。しかし、人間は文明文化として言葉や慣習を学習し、その地その時に生きる人間として育ちます。科学が発展した今日では一人でそれを学ぶことは不可能です。分業し専門家が協力して初めて人間社会が成立しています。逆に肉体的に成人年齢に達しても社会的に自立可能な成人年齢は益々遅くなっているのが現実です。人間以外では知能が発達した動物ほど、産まれてから親などから教わる知恵が増えます。親から子へ、子から孫へ伝えられて往きます。
 現代の日本人ならば、自由に生きる権利を皆が知っています。しかし、宗教2世に限らずとも家庭の経済状況や教育環境によって権利が侵害されています。
 子供の人権が守られないのは、人間は生まれながらに平等な人間としての尊厳が守られないからです。平和に生きる権利も有ります。
 市川猿之助の心中事件に関して、梅沢富美男がパワハラはダメと言いながら、「芸能界と社会の問題をごちゃまぜにしないでほしい。なぜかというと僕らはそこで生きてきたんです」そうです。封建制の時代から戦前まで、親が隠居しない限り、子は親に従い、孝行するのが道徳でした。保守的な地域ほど古い考えを持つ人が多くいると考えられます。農家や商工業総ての分野で”僕らはそこで生きてきたんです”と言います。スポーツ界でのイジメや差別が戦後75年たった今でも事件として報道されます。如何に戦後の人権教育がないがしろにされ、女性や子供差別が温存し、性が抑圧されてきました。いかに個人の自立心の養成がなされなかったかの証です。

 皇国思想が強まった明治大正時代、歴代天皇は126代、124人として今年にも再確定されています。今年、亡くなるまで大正生まれの母は諳んじていました。
 明治時代に墓所が確定され造成された初代神武天皇陵や安倍元首相が銃撃の年が西暦+660年とされた皇紀2682年です。紀年法は明治に制定され、初代から15代応神天皇までは平均年齢は100才を超え、BC660+DC310=970÷15、65年の平均在位期間になります。何代にも渡って在位期間が長いのは子供や孫は幾つの年に生まれたのか、それ以外の子供は?頭がおかしくなります。存命期間や在位年数が長ければ孫、ひ孫が位いを受け継いだ可能性もありですが、歴史としては変です。
 戦後の民主主義はいつの頃からか変質したのではと感じています。昭和の世はこんなのでは無かったと、今や偏った自由主義が大手を振ってマスメディアを席巻しています。中高年世代の責任とも言えます。その時あなたは・・・
 日本憲法の3原則は「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」と学びましたが、安倍首相は自由主義や愛国教育を訴えました。私は個人の問題として憲法の意義は
 人権、平等、平和に暮らせることだと考えます。
しかし、自民党歴代、岸田首相は「自由」と「法の支配」を事ある毎に訴えています。儲ける者が儲ければ、溢れた富は下々に行き渡るアベノミクスは底なし容器の上部に占有されました。儲けて何が悪い、儲ける才が無いのが悪いという自由と自己責任論。これが維新や自民党の新自由主義の正論ですか?
 ロケットが日本に飛んでくる、共産国は恐ろしい。これで保守・自由主義連合の自民党は選挙に勝ってきました。当然、人権や平等は認めます、平和も力によって保ちます。多数派を維持する事が民主主義であり、正義の証です。彼らの言う自由主義国家とは何でしょうか?現在の日本と北朝鮮は敵対することで成立する共依存の関係にあるとも言えます。
 ある維新の政治家曰く、人権は法の下に平等にあります。平和は力の均衡によって保ちます。選民思想?差別?昔から差別はあり、現在・将来とも無くなることは無い。それを支持する思想、宗教もあります。生存競争で生き残る弱肉強食の自由主義。差別は当然と公言しました。

 欧米では少なくとも自由主義の根底にキリスト教の愛があります。隣人愛です。自由・平等・友愛です。鳩山由紀夫が訴えて有名ですが、日本でも釈迦を祖とする大乗仏教があります。慈悲、慈しみがあります。
 仏教では悟りでない自由はエゴと考えられます、煩悩です。愛も自己中の人はエゴになる可能性が大です。相手の人権や平等を理解することです。親や兄弟、周りの人を愛することはエゴと言えませんか?自分が出来なかったから子供に期待する?内省が必要です。相手の人格を尊重することです。同時に自分も大切にすることです。人間関係では共依存が問題になることがあります。自灯明法灯明、自分と法をより所に迷わずに生きよ。
 ♫そばに私が ついてなければ なにも出来ない この人やから 泣きはしません つらくとも いつか中座の華になる・・・  浪花恋しぐれ 昭和58年発売、長女が生まれた年です、初代春団治の破天荒な夫と耐える妻の美談?普段、怒鳴らなっかた私はカラオケで ”酒こうてこんかい ”と大阪弁で怒鳴るのが好きでした

 現実に生きている人同士ならば、愛は相手が喜ぶ顔が自分の喜びと感じることがでれば愛と言えます。男性にとって結婚は食事をし、Hをして、睡眠をとる共同生活で愛を育む場所と考えることができます、サルトルの様に自由恋愛を前提とした結婚は凡人ではなかなか大変です。しかし、結婚前には多くの失敗、経験を重ねなければ人間的な成長も望めません。今の相手の評価も正当には無理です。人生経験を積めば一人の相手だけがすばらしいのでは無く、自己の存在自身が他者が好きであることを悟り、他人に優しく接することが可能になります。男性が気になる人にモノなどを持って行き、関心歓心を得るのは太古の昔からの習いです。相手の笑顔を見るだけでペイします。夫婦の一方の嫉妬や嫉みは相手を束縛する独占欲であり、夫婦の地位に安住するエゴです。女性も好きなスターにぞっこんになるケースも多々あります。トラウマや日常的に自己を疎外する環境であれば現状逃避を薦めます。良い日差しに当たることは場所だけで無く新しい人に巡り会うチャンスです。厳しい風に当たり続けると人間は疎外感で不幸になることもあります。
 自由は自己保存のエゴであり、愛は自由の延長のエゴでもあり、相手の人権、平等を尊重して初めて愛になります。子供が母親に何かすることで喜ぶことが嬉しくなれば愛の目覚といえます。逆に、私だけが何故こんな目に合うと思う自己中な人は愛情不足を感じながら育った人かもしれません。
 As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.と思える老いらくの恋をしたい。で一段落とします。

 死の怖さは知恵がある分、瞬間的な怖さ以上に想像を働かせて増幅します。又、親等が子供を従わすためにも利用します。
 死に対する恐怖を克服するのは心の問題として宗教の役割とされてきました。現在では思想哲学としてもあります。しかし、現在は形而上の真理と形而下の科学の乖離、矛盾が顕著になりました。自由や愛は形而上の概念ですが社会科学として取り扱い、ここでは生命の本能の延長として扱います。しかし、科学を称しながら、これが真理だというエセ科学が現在も蔓延しています。時代場所によって変遷してきた真理の中身、それを真理という言葉で一刀両断にする言葉を嫌悪します。人によって科学的論理的思考による究明が真理と言うならば別ですが、わざわざ真理という修飾語を使い誤解を招く必要はありません。
 仏教詩人として有名な坂村真民は釈迦が死後を説かなかったように、二度とない人生、をテーマとして多くの詩を残し、今を生きることを詩で綴りました。
 ・二度とないこの人生を いかに生きいかに死するか・・・
 ・花には散ったあとの悲しみはない ただ一途に咲いた悦びだけが残るのだ。
 ・わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる・・・

これが仏教?と思われるかも知れません。もとより釈迦の仏教は葬式や加持祈祷が本意ではなく、人々の現世の苦しみを解脱し、楽しく生きる術の教えです。
 冒頭で述べた As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.
この生命の実体と真民の詩を合わせれば

 人間は死ねばどうなる?は
 人が死んだ後は家族をはじめとして、慈しみ愛する人の中で、人格として生きる。
という認識が誕生します。死生観の大変革です。生きている間は他者として会話が可能ですが、死後はその人の発想や表現、表情声が記憶として生者の人格を形成します。


 世界の初めを創った創造主を信仰しても生命科学と矛盾しません。釈迦が死後を無記としたように、全ては現在を生きる生命の生き様として科学として表現が可能です。新訳仏教では諸行無常・諸法無我を覚悟すれば一切皆楽
 ある人は、あの世があると考える方が人はムチャをしないとう、子供に対する脅かしと同じことを言いました。日本には武士の”名こそ惜しけれ”があり、ヨーロッパでは騎士道、紳士は名誉と誇りを重んじました。死後の世が無くても、自分の生き様が次の世代に受け継がれることの方が効果はあります。神道の中今の思想に通じます。何より虚構を様々に信じる必要がありません。
  春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそをしけれ
   周防内侍 百人一首
 春の短い夜につまらないっときのHでは、あなたの名前がすたれますよ

 西洋哲学はキリスト教神学の影響を受けて発達しました。フォイエルバッハはデカルトから始まる近世哲学は理性の神格化により哲学へと転化した神学であるとして、ヘーゲル批判からキリスト教は利己的で非人間的な宗教であるとしました。マルクス主義は上部構造は下部構造に規定される。原始共産制はモノを共有する平等な社会であった。として産業革命後の悲惨な労働者の生活からプロレタリアートを解放する階級闘争によって共産主義を目指す社会主義国家がロシアを初めとして多数成立しましたが、原始共産制の持つ族長支配の人間性無視を問題にしない共産党一党支配の官僚国家が明らかになりました。それは人権、平等、平和の確立し、自由と愛の葛藤の中で国家を運営するよりも革命を優先する、共産党支配を第一とするレーニン主義、専制国家の誕生でした。
 戦後、日本で脚光を浴びたサルトルの ”実存は本質に先立つ” 実存主義でさえ、「神が存在しないのであれば」が前提になっています。人間の本質が神によって作られたのでは無ければ、人間は自由に存在することが可能である。一方で1968年のフランス危機(革命)は自由、平等、性の解放を訴える学生運動から労働者のゼネストに発展し、フランスは争乱状態に陥り、政治的にはド・ゴール大統領が圧勝する一方で労働者の団結権、最低賃金の上昇や教育制度の民主化が実現しました。キリスト教文化の旧世代に反対する新世代の造反としてフリーセックスやフリーラブが権利として拡大。
 今日の世界でLGBTや同性婚の法制化の先駆けになりました。日本では昭和43年5月革命の前3月30日にナイジェリア内戦でビアフラ飢餓によって150万人が死亡。抗議焼身自殺した女性の歌、フランシーヌの場合が発売されました。当時は高校生で全共闘、東大闘争がありました。ベトナム戦争反対運動のベ平連は昭和40年からで未だ中学生でした。
 今回初めてフランス5月革命の意義を知りました。WIKIで調べながら書いて初めて知ったのが現実です。半世紀以上が経過していますが、日本では人権意識の確立、抑圧からの解放、性の解放が不十分であったと感じます。何故?左右の政治闘争に矮小化されてしまった結果が現在の状況では?人権意識がフランスの様に根付いていれば猿之助の心中事件はあり得ません。

 思想哲学としては人間の社会的・文化的現象の背後には目に見えない構造がある構造主義が生まれ、それも形而上学であるとしてポスト構造主義があります。
しかし、これからの哲学、科学と宗教の包括する人間世界
原理原則は
 原理 自由と愛
 原則 人権・平等・平和
の概念の確立が重要です。

フランシーヌの場合(新谷のり子)昭和44年


生命体としての存在論 6、宗教の設立宣言。生命の賛歌・生きる信念 自由と愛

2023年05月13日 | 生命体としての存在論
  As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there. 
 未だに人類が戦争と飢餓、差別偏見に苦しむ中、おのが自由と富、権力支配に躍起になるバカバカらしさ、社会の良心を自負しながら、それを擁護する宗教家に怒りを持って決起します。数千年の経験、知恵の蓄積を持って、死後の世界という因習、迷宮魔界に落ち込むループからの解放を目指します。イエスが虐げられた人々に寄り添い、律法を片手に安住する宗教者に憤死する怒りを抱いた如く、現代に即応した宗教を作ります。宗教が今を生きる人々の救いならば、死後を問いません、現代の知識では単純明快な自明のことです。今を生きる者の賛歌です。
 自然科学、社会科学、人文科学など過去数千年に発達してきた知性、加速的に発展した自然科学の一方で因習に囚われた思想、宗教ギャップの弊害は対立を放置し、人類の滅亡の瀬戸際に向かわせています。さらに近年、科学的論理思考とは逆に、死後の不安と結びついたあの世、魂の不滅という新興宗教が興隆し、それを信仰することで優性意識が増幅し、偏った自信や差別意識を増幅させています。死後の世界という迷宮から脱出しても既存の体制と決別しない限り、今後も様々な虚構が産まれます。よって、現実世界を生きる賛美、信念の宗教の設立を目指します。何を信じるのか、
  私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る。
 人は人生の師として感銘を受け、感化されます。生まれてから経験し学びその時代の子その地の子として生き方を習い、知識を吸収し成長します。千年前に生まれればその時代に生きます。どうして今を生きている世界を憂えず、死後を憂う必要があるのでしょうか? 親しい人との離別、死別は生命体としての必然です、哀しみの中で死者は影響ある生者の頭の中に人格の移転、生者の頭の中に記憶を固定させると考えることが可能です。愛欲では無く、慈愛の心で縁を授受した分だけ生者の心に死者の人格が移転します。別れの後は話すことも相談することも出来ません。しかし、親しければ親しい程、愛していればいる程、彼は何を感じ想うか、何を言うかを瞬時に理解できます。そして想えば声や表情も脳裏に浮かびます。ある人の熱烈なファンは形態声帯模写だけで無く性格すらも変わる人がいます。貴方が信心しているならば今は無き先人の想いを受け継いでいると言えます。
 お遍路の同行二人はすばらしい発想です。逝った人と二人で行くもよし、新しい伴侶と行くもよし、バリエーションは様々です。愛する人を深く愛し、信じる覚悟があれば想像するだけでも死もまた楽しです。諸行無常、諸法無我を覚悟すれば一切皆楽です。
 それでも自分の死後が不安?安心して下さい、多くの先人が亡くなり良い世界を創っています。生の世界は生きている者が、死の世界は死んだ者同士が近くにいます。
 私達はなにか世の役に立つことで自活しています。貴方の想い行いが若き次世代に伝わります。あるいは集団形成の一人として社会があります。何よりも貴方が信奉している教祖の想いを貴方は受け継いでいるではないですか。冷静に現実を直視して下さい。過去に生きていた人を信じ、今あなたが信じている、次世代の人も同じように信じるかも知れません。文明の歴史です。死後の世界は誰もが証明できない大いなる虚構です。現実から目を反らし覆い隠す虚構です。
 As far as I am, you are here. 先人の心は今を生きる私が引き受ける
 私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る。 独り寂しいなら我が愛を
 As far as you are, I am there. 永遠の生命と想いを次の世代につなげる命の賛歌。
 苦しみと哀しみの中にあっても、少しでもよくする希望をみいだせば、労苦も幸せに変化します。私は現代の哀しみを受け止める。加持祈祷にすがるべからず。ダジャレ験担ぎの遊びとパフォーマンスは切り捨て御免です。八方ふさがりでも何かがあります。

 恐竜が生きていた中世代2億3000万年前から滅亡の6600万年前にやっと哺乳類が誕生し、人類の祖先が誕生したのは20万年前です。徐々に知能が発達し、言葉の発展と時間や自他の分別によって前頭葉で意識意欲を持つようになり、知能も飛躍的に発達しました。
 人権、平等、平和が人類に担保されることが幸福への前提です。幸福とは自由と愛に生きることです。ちなみに人権という普遍的な権利が誕生したのはたった250年前の18世紀後半のバージニア権利章典、アメリカ独立の時代、自由の女神のときです。
 自由は人の生存欲求であり欲望、エゴです。人を愛することも欲望でありエゴです。しかし、愛は他者の人権、平等、生存を認める知性の働きとして前頭葉で自制して愛することも可能です、慈愛:いつくしみ育てる心です。人権意識が誕生した今日では人は成長の中で失敗を重ね、経験を重ねることで人を愛する節度、接し方を学びます。孤独な一人の人生を共に歩む相手を得ることも生存競争の一つです。結婚形態が ワンオンワンで有る限りは失恋は必然です。

 有性動物として群生生活をする人類にとって、他者と共存し社会生活する中で喜びを感じます。成長の中で集団の中の自己の存在に意義を問います。選択の余地の無い固定された社会では共同体の規範、長に習い従うことが自己存在の意義になります。親に従い、親を大切にすると言う儒教の倫理道徳です。拒否はドロップアウトしかなく、当時の肉体労働はスポーツでのランナーズハイと同じ脳内麻薬による幸福感と過労死を招く過酷な労働でした。
 しかし、社会が多様化し個人の人権意識が芽生えた中では幼児に対しても人格を尊重する必要があります。今や上意下達が組織ガバナンスである時代は過ぎ去りました。ハラスメントに注意、複雑化した社会の中で自己に自信を持てば増上慢となり、逆に自信を失い疲労が重なりうつ病になる現代です。人との接し方を訓練し、学ぶ必要が重視される時代です。人間関係の拒否は昔と同様にドロップアウトですが、ニートするよりも農業や漁業など自然と付き合い、或いは芸術系を職業にする選択肢もあります。
 因習に囚われることない知識、生きるための力を身につけるためのリベラルアーツの考え方はリベラル&ラビィングアーツの学習になります。
 人を愛し愛される、自分の想いのままに生きる世界の実現はなかなか大変です。カースト制度の最下層出身でアウトカーストの父と言われるアーンベードカルはインドにおける仏教復興運動を行いました。彼が仏教に見出したのは 理性、慈悲、平等でした。名言として残されているのは  I like the religion that teaches liberty, equality and fraternity. 私は自由、平等、友愛を教える宗教を好む 日本でも鳩山由紀夫氏が友愛を訴え、友愛とは自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格を尊重する。
 しかし、私はそこに時代の限界があることを知りました。
 自由と愛は並立するも拮抗する概念であることです。そしてその間に平等を置いています。平等を確立する社会の概念は人権、平等、平和です。そして、自由と多くの愛は自己生存の欲望でエゴとして並立しています、仏教での愛欲です。自由と拮抗する愛とは宗教的に昇華された愛や慈悲です。人間的には愛す人の喜びを自分の喜びとする愛です。動物的には自分の分身として子供を守り育てる母親の行動があります、それは愛欲でありながら命をつなぐ生命としての必須の生存の行動です、オスには同様に群を守る生存の行動があります。しかし、戦いに明け暮れた人類は共存こそが唯一の解決策として、人権、平等、平和の概念を確立しました。自由・平等・友愛では自由だけが勝ってしまい人権、平等、平和がないがしろにされます。
 我に自由と愛を与えたまえ、それを国家が保証する権利として国民主権、基本的人権、平和があります。独りよがりに自由を求めれば、他者の自由と愛を奪い、愛を得ることができません。自由と愛の世界を与えたまえ。 

 戦後の平和憲法下で生まれ育ち、宗教は科学的合理性の中で薫陶を受けた私にとって、安倍政権下での教育改革に違和感を持っています。真理と伝統の多用です。科学を愛し希求するので無ければ、真理はすでにあるあいまいな概念の押し付けでしかありません。科学は日進月歩で進化します。戦後のスポーツでは終わりまで水分補給しないのが真理でした。体を冷やすなど外道の話でした。
私は宗教改革を進めます。人生を信じる宗教、自由と愛、人権・平等・平和、生命賛歌の宗教です。As far you're.
 もっとも親近感を感じるのは親鸞です。彼は男としての性に苦しみ、仏教の戒律を守らなくともよしとする即仏の教えを実践しました。他力本願、自力本願の問題では無く、人間の本性を抑圧から解放する、人間性解放の問題です。
 八代目の蓮如は本願寺中興の祖として教団を大きくすると共に、4人の妻とは死別し5人目の妻とは73才から7人の子、末子の3子は80代になってから合計27人の子供をもうけ85才で亡くなりました。wiki情報
 人間性解放、平等、女性差別の撤廃が今日の課題です、女性の性の解放が男女同権の要諦です。それには男女ともに性欲があることを認めることです。永らく文化的社会的に抑えられてきた女性は子供の成長にだけ夢を託す歪な構造がありました。子作りの性、子育ての性からの解放です。それが少子化の最大の原因である結婚率の低下を防ぐ方策です。夫婦は共同生活を営む最小の単位です。社会的経済的に人工的に流産させられる胎児が10万と言われています。正規出産が80万人を切った日本では明るい未来?政治的に成人年齢が18才になりましたが、経済的には成人する年齢が高学歴化と社会の多様化によって遅くなり、それに伴って結婚年齢が高齢化しています。私の半世紀前の高校大学を振り返っても悲惨でした。成人年齢を18才とする国ならば、成人としての覚悟を促し、少なくとも高校時代から恋愛訓練を重ね、結婚も順次可能になる経済基盤を保証するべきです。それが異次元の少子化対策です。
本論からかなりズレましたが宗教改革は因習に囚われた虚構からの科学的論理思考の普及です。信じる事、信念は宗教になります。
    私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る
As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.
 この信念に既存の宗教団体ではかなり近い団体もあれば、全く受け容れられない団体も有るでしょう、私は争いを好みません。宗教2世問題等を抱える存立危機の団体ならば、より研鑽されることを望みます。平和を第一にしながら軍拡を推進する団体は自戒すべきです。宗教団体の設立を模索します。ご指導ご鞭撻、ご協力の程、宜しくお願い致します。

生命体としての存在論 5、母の死を弔う

2023年05月04日 | 生命体としての存在論
2023/4/26 更新2023/5/4

 苦労を掛けた母を弔う。逆縁にならないことが親孝行として母を弔いました。しかし、死後のために供養する考えは有りません。母は私の存在の一部として、これからも私の中で生き続けます。生命体としての遺伝情報だけでなく、生き様や感情表現は単なる記憶では無く、私のバイアスを通した新しい知識、状況の中で母の考え、どう感じるかを理解することができます。人は眠りの半ばで夢想し、様々な想いが想起させ、霊験霊言とも評します。私の人生で多くの影響を受けた先人と共にこれからの人生を歩んでいきます。

 釈迦は論じても結論が出ない事は論じなかった。死後の世界を想像で論じるのは方便、ホラです。親が幼児に言う事をきかす為に言うウソと同じです。
 死後の世界を信じ、あの世に生きることを信じることが宗教の目的ではありません。余りにも過酷な人生の中で、今を生きる人々の苦悩、幸福を願って先人はあの世、天国、輪廻の思想の観念を創り上げました。私達が文明の恩恵の中で赤子より刷り込まれてきた様々な宗教は今もなお人格形成に絶対的な影響を与えています。信仰、来世を信じなくても可能です。
 私が有る限りあなたはあり、貴方がある限り私はある
 人を信じること、自己、自分であり他者、不安定であるからこそ人を信じる宗教、絶対的な人間性を信じる宗教が存在意義を発します。先人が長年に渡って創り上げてきた文明文化は科学技術の加速度的に発達しました。人間の幸福の根幹は個人それぞれの自由と愛の確立です。一人一人の人権・平等・平和の学習と各人の人格の確立が絶対条件です。それぞれ時代の文明分化と言ってしまえば終わりですが、人権・平等・平和の概念に絶対は無く、生存の厳しさの中で今でも各人の偏見差別に彩られています。不確定なことを信じる事が信仰であり宗教ならば、現在、過去、未来の人、今を生きる人間を信じる信念は宗教になり得ます。
 死を不安に思い、死後の世界を信じる人曰く 死んで逝った人に合いに逝く ならば、逝った人の弔いは貴方が信じる先人、既に逝った多くの人が良いようにしてくれています。孔子、釈迦、イエス、マホメットその他立派な先人が数多います。あの世や天国は先祖供養で生者が生き残るための方便です、多額の金子が必要な加持祈祷は明確な詐欺です。誇大広告、景品表示法で罰則を与えられるべきです。
 AIによって世界が一変します。個人のデータをデジタル化して,収集すれば、声や映像、考えも個人の特性で再現することが可能な時代になりました。記憶だけで無く、新しい情報に反応して応答することと同じです。AIが無くても番場の忠太郎の昔から、瞼を閉じれば「瞼の母」があります。離別した人を頻繁に思い出すのは老人の特性かも知れませんが、妄想であっても確実に本人の中で記憶と伴に再現が可能です。それは別れても愛する人が自分の心の中で生き続けている信念という現実です。仏教の浄土、輪廻も古いバラモンから受け継いだ思想ですが、人を含めた全ての生物は同じ生き物として共存共栄・生命賛歌と考えることも可能です。

 800年程昔、親鸞は自身の性欲と女犯の戒律との葛藤に苦しみました。当時は生きる世界と死後の世界があるされ、最新の文明であり人を救う仏道に人生を定められた公家出身の親鸞にとって、どれだけ一心に修行しても消えない性欲、煩悩がありました。やがて法然の念仏一つで救われる本願念仏の思想に出会い、人の本性を肯定するに至りました。しかし、当時としては破戒であり、朝廷から法然らと共に僧籍を剥奪されました。その後は非僧非俗の生活で肉食妻帯をし、たとえ法然に欺されて地獄に落ちようとも本望であるとして阿弥陀に頼りました。
 法然や親鸞はなぜ僧籍を剥奪されたのでしょうか?念仏を唱えるだけで救われる教えが既存の団体から迫害を受けました。修業があっての信仰成就、加持祈祷が可能になる。から言えば異端ではあります。仏教の庶民化を果たした鎌倉仏教の興隆で日々の生活に追われる庶民への普及に単純な唱名として名号・題目が生まれました。平安時代初期の空海の真言宗は南無大師遍照金剛、同行二人が始まりですが、南無阿弥陀仏、南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経、般若心教があります。江戸時代はキリスト教禁教や檀家制度の中で政権権力の支配構造の一翼を担いました。明治期になると宗教界では妻帯肉食が解禁されました。

 時代は下り、軍国青年であった吉本隆明は太平洋戦争敗戦の衝撃に苦悶しました。大東亜共栄、八紘一宇の皇国思想以外に反戦などあり得ると思いも及ばなかった。戦地には征かず、内地で研究員として勤め、皇国思想の崩壊、反省の中で総てを疑う、孤立しようとも自分だけは時代の主流になる思想を疑う孤立無援の意思を確立しました。何によって論ずるかよりも、反論すべき点は何かに注視しました。若くして死を見つめ、以後はリアリストとして現実を直視。

 哲学者の三木清は戦中時代に治安維持法違反で逮捕され、敗戦後の1ヶ月後に48才で獄中で死亡しましたが、晩年は妻の死去や近親者の死去で、会いたい人に会う可能性は自分が生きていてはゼロであり、亡くなればその可能性はゼロでは無い。死ぬ事に親近感を持つに至りました。

 三者三様の死生観を持っていましたが、死後の世界について如何に刷り込みが強いかが理解できます。単細胞生物は細胞分裂によって生命を持続させ、有性生物は有性生殖によって生命を持続させます。当然、人類も生命体として同様です。あの世の信奉者は人の心、魂を問題にします。しかし、現代ではペットの犬や猫、馬に心は有りませんか?心が通うじ合いませんか?死の恐怖は生命体としては不安定な高所に立だけで幼児の頃に転ける体験から学びます。思いとしての恐怖、不安は想像と刷り込みの産物です。
 山本有三は路傍の石でたった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら、
人間、生まれてきたかいがないではないか。
 坂村真民は二度とない人生だから、わたしが死んだらあとをついでくれる若い人たちのためにこの大願を書きつづけてゆこう

未完

生命体としての存在論 4、宗教のユニバーサルデザイン WEB設立宣言案

2022年12月01日 | 生命体としての存在論
4、宗教のユニバーサルデザイン WEB設立宣言案
 平和を想います。戦後3/4世紀を過ぎ、日本も軍拡競争、軍事費2倍に参入しようとしています。世界の良心、良識を担うと自負する宗教家が戦乱を放置し、貧困と差別の世界を放置する現状を糾弾します。ナザレのイエスが怒りをもって糾弾したように宗教の律法主義、教条主義を批判します。心の問題として文明の発達と共に成立しましたが、近年の科学の発展の知見からは乖離しています。
 人類の存在を危うくする原因は宗教対立だけで無く、宗教が持つ差別に繋がる思想や構造、組織にあります。インドのガンジーと並びビームラーオ・アンベードカルは第二次世界大戦後、インド独立と平行して、被差別階層の50万人と共に仏教に改宗しました。宗教にも国連宗教UN Religions UNRがあってしかるべきです。宗教改革に最も可能性のあるのはワールド・イージー・ブッディズム WEBです。そこから千年後のUNRを展望します。


 釈迦の教えの第一は理法であり、第二は支配と差別の元凶である組織代表を固定しない。自灯明法灯明 法は国連にあり
 信仰に一神教、多神教、汎神論、無神論の如何は問いません。釈迦が不毛な議論の原因となる問題を不記としたように、不問とします。信じるべきは生命体としての生存です。 理は人類が動物としての生存競争から、文明発展の中で創造してきた叡智です。その原理は個人の尊厳を守る世界人権宣言を貫く自由、愛、公平です。遺伝子による存在だけで無く、文明文化を創り上げてきた人類の過去、現在、未来を信じることです。私が有る限りあなたはあり、貴方がある限り私はある。人類の永久の生命の連鎖を信じることです。
 国連設立の原則は平和、人権、平等です。これを法とします。

中村桂子の生物進化40億年の旅 (1)中村桂子の生物進化40億年の旅
 
 釈迦の理解した世界は善も悪も無い無情の世界であり、物事は相互の関係によって成り立ち、無常である存在として変化し続け、変化するも総ては同じことであるとしました。生活の中で死老病死など一時の苦に囚われ執着することが悩みの原因であるとし、生命の理を一人の人間として達観して覚悟する。
 現代人は平和、人権、平等の中で、人を愛し自由な人生を楽しむ世界。
 現状の変革には既成の団体、既得権益からの強烈な圧迫が予測されます。困難を克服しない限り希望はありません。
 祈りは希望 希望は行動 行動は主張 主張は軋轢の中で実現します。 
  'Imagine' - John Lennon (cover) with lyrics and Japanese translation 「イマジン」ジョンレノン (カバー ) 洋楽和訳

生命体としての存在論 3、宗教の未来形 百年後、千年後のカタチ 革新的変革

2022年10月28日 | 生命体としての存在論
-生命体としての存在論-
3、宗教の未来形  百年後、千年後のカタチ 革新的変革

 信じることは信念、祈りは希望、あなたの望みは?
Believing is a belief. Prayer is a hope. What do you want?
 人は生きる上で何らかの心のよりどころを持ち、探し求めています。それは信じがたいもので有っても。生まれながらの刷り込み?人と同じで有れば安心し、疑問を持たないで信じ利用します。信じることは不合理で無い方が普遍性があって良いに決まってます。祈るのであれば実現性の高い方法で望み実行した方が良いに決まってます。
 国連の理念は原則として平和、人権、平等です。
 世界人権宣言、子供人権条約は自由・愛・公平を原理とした世界です。
20世紀の人類に言語に絶する2つの大戦の惨禍から学んだ知恵です。輝く未来の希望です。しかし、現実の世界は至る所で戦争が、虐殺、人権侵害、不平等に溢れています。ジェノサイドという言葉も新しく生まれました。
 釈迦は理法・理と法を説きました。インド哲学の中村元は『ブッダのことば』として現代の概念に置き換え
  一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
としました。これを更にリニューアルします。
 ブッダの法は
平和、人権、平等が原則であり、自由・愛・公平の原理です。
 ブッダの理は
生命の科学・歴史であり、人類の知識の発達史です。文明文化の過去から現在に至る歴史は生命の遺伝子以上に人間たらしめている遺産です。文明文化と限りある命の人間・生命体の永続性の証
  私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る。
As far as I am,you are here. As far as you are,I am there. 略して AS FAR YOU`RE

 何も滑稽無形なホラではありません。平和を望み人権と平等が有る社会、自由と愛が公平に実現する社会をあなたが希望し、多くの人々の協賛を得られるならば理法の立派な仏教の教典になります。現実的には漢字の多い拙いこの文章は大多数の人に読まれません。ひとえに支持する貴方の協賛の如何によります。
 あなた自身が”私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る。”と信じるだけです。もとより仏陀とはインドで悟りを得た人の尊称です。仏教の開祖に祭り上げられた釈迦が説いた言葉が文章化されたのは死後百年ほど経てからであり、変遷を重ね様々な教典が生まれました。つまり詭弁ではなく、現代訳に間違いはありません。
 天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之 教典によっては天上天下唯我為尊 今茲而往 生分已盡 があります。ヴェーダとの説もあり、宗派によって解釈も異なります。気になるのは人が生きる目的は生きること命を繋ぐ以上に、何か有意の神秘な意味を与えながら明らかにしない宗派があることです。
 釈迦が2千5百年後の現代に生きているならば現代の新しい知識で持って何を語るか?です。時代の変遷の中で過去の教文に固守する教条主義は大きな誤謬です。言葉の意味すら変遷しているのが現実であり、宗主自ら書き換えるでしょう。貴方は国連憲章、世界人権宣言の世界を望みませんか?それが釈迦の信念であり心です。私は強迫や武力による死の恐怖を拒否します。人が平等に人権が保障される社会を望みます。それは人々が公平に自由に生き、愛に溢れる生活ができる社会の実現です。
再度中村元のブッダの言葉
  一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
 日本の憲法の根幹である平和主義を否定しますか?平和を望むと言いながら恐怖に怯え軍縮とは逆に敵意むき出しに軍拡に向かう可笑しさを自覚して下さい。
 私の宗教的立場は汎神論です、釈迦の直系弟子を自認するアホは言葉の本意を理解する訓練を重ねました。彼は神や来世を信用していなかった。誰が神を作ったか?誰が輪廻や来世を創ったか?論理的に通用しない不確実な事を言葉にして断定する事を恥じ、無記としました。そして世界は無我であり、物事は互いの縁起によって成立し、無常である存在として変化し続ける。変化するも総ては同じであるとしました。一時に囚われ我執することが悩みの原因であるとし、人生を達観して覚悟する、人生を楽しむ生き方を薦めました。宗教家と言うよりも思想家です。釈迦の死後、新たなブッダによって神仏融合などの膨大な教典が書き加えられました。紀元1世紀には大乗仏教の般若心経、空の思想(ゼロの発見)の龍樹によります。そして日本には多くの仏と共に伝来しました。
 釈迦は紀元前5世紀、インドのインダス川中流域の都市国家郡、小国の王子として生まれ、恵まれた生活の中で16才で結婚し子供も誕生しました。当時はベーダの教典、バラモン教が大勢の中、他地域の文明都市の出現と共に多くの思想家が生まれる百家争鳴の時代でした。自由に育った彼は成長に従い、思いのままにならない世界、人生に深刻な悩み、疑問を抱きました。出家して修行するシステムの中で29才で出家し、何人かに弟子入りしましたが、難行苦行の修行で死の淵に臨んでも悟りは得られず、人間も他の生物と同じ、生存の喜びを実感しました。生きる事の理を突き詰めることで人のあるべき姿、法であり自己を内省することによって悟り、涅槃解脱を禅定によって得ました。もし釈迦が来世や輪廻を信じていたならば無記とする必要はありません。それが釈迦の信念です。生きとし生ける生物の誕生、成長、死のサイクルに人だけが死後について怯え恐れ悩むのは不当であると。現代では生命科学・歴史・医学・心理が発達し、来世、輪廻の考えの必要性が益々小さくなりました。


・人は死ねばどうなる?
 「念ずれば花ひらく」宗教詩人として有名な坂村真民、仏教者としては衝撃の詩を残しています。 1909年-2006年 明治42年誕生、平成18年没97才
 わたしは墓のなかにはいない
 わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる  だからわたしに会いたいなら
 わたしの詩集をひらいておくれ  わたしは墓を建てるつもりで
 詩集を残しておくから  どうか幾冊かの本を わたしと思うてくれ
 妻よ 三人の子よ 法要もいらぬ 墓まいりもいらぬ
 わたしは墓の下にはいないんだ
  以下略

 職人が技術を習得する時、師匠の一挙手一投足と心遣いを真似ます。子供は親の後ろで日々の生活を見て育ち文化を学習します。言葉で紡ぐことも重要ですが、その場にいなくても、今起こった現象に対する私の判断は、父や祖父の反応を無意識に理解した上での判断です。私の頭脳の中には判断する基準として亡くなった父や祖父がいます。それは教師としてまた反面教師して私の人格を構成しています。
 As far as I am,you are here. As far as you are,I am there. 生命のDNAと文化の継承です。スマホが電池切れでダウンするように生命維持の停止は入力、演算、出力は停止します。死後をあれこれと想像することは人生の無駄です。現世の苦しみから来世に望みを託す自死、他人からのそそのかしや強制による蛮行があります。
 来世を信じる事で人は現世で悪行を慎むでしょうか? 曰く、来世が無ければ現世を楽しまねばとなり、死ぬこと以外かすり傷としてワルがはびこる。ん-? しかし、両刀遣いのワルは教主と一体化して愛を語ることで安心し、普段は自己の自由三昧にワルを為します。そして、ワルのワルは来世を独占することで現世で他人を支配します。貴方が戦士になってこの戦争で死ねば貴方の現世での罪が許されると。アー
 日本では「名こそ惜しけれ」という名誉と恥を自己の存在とする文化様式があります。社会の中での自己規制された人格とプライベートな時間の人格や熟睡中に無理矢理起こされた時の人格は乖離しています。社会性を保つ人格は自由気ままな人格を克己します。当然、人は過ちを犯します。人は生まれ育つ中で失敗しながら成長します。成人後も過ちを犯せば社会から罰を与えられます。善悪同じ人間の業です。性善性悪では無い公平な法によって裁かれます。
 三木清が疲れた晩年に亡くなった愛する妻子に会う可能性は生きているより死んだ方が可能性はあるとしましたが、私は死を不安に思っていません。たとえ死後の世界が有ったとしてもすでに多くの優れた先人がいいようにしている絶対の安心感があります。私は次の歌詞が好きです。
 この世は呑ン兵衛が引き受けた あの世はあんたにまかせたぜ

京山幸枝若 浪花しぐれ桂春団治(歌)  悲しからずや道説く君 晶子

休憩余話
 秋川雅史”千の風になって”の元英詩オリジナル Wiki
Do not stand at my grave and weep, I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow, I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain, I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush, I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night. I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room. I am in the birds that sing, I am in each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry, I am not there. I do not die.

 「念ずれば 花ひらく」 坂村真民
 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた
このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった
そしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった


・宗教の始まり 支配統治~階級と差別を生み出した 
 文明のあけぼの、火の使用は現代人であるホモサピエンス以前から始まっています、埋葬やアミニズムの山や巨木、太陽など全ての自然を信仰の対象する自然崇拝が過酷な自然と生活の中での救い、恐怖、悩み苦しむ心のよりどころ、信仰、マインドとハートの統一的な安穏。
 太古より困った時の神頼み、呪術や祭儀の利益信仰、安産、大漁、豊作が宗教の始まりです。知恵の発達と共に人は時間と場所、自己と他者の認識を深め、死を恐れ恐怖に怯えました、死病老苦等の祈願救済は、死後の世界、来世の創造によって飛躍的に発展しました。神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖な神仏の発明です。呪術、祈りは社会体制の安定に寄与する規範、儀式として宗教は発展し、支配統治の役割を担いました。
 自然科学や社会科学が飛躍的に発達した今日、宗教の役割とは心のよりどころ?死や暴力の恐怖に怯え、或いは、自分とは何者か?人はどう生きるべきか?人生に絶望し、壁にぶち当たった時、心のよりどころとは?宗教の現代的解釈は自由と愛の知識であり心です。経験を通じて学ぶ体感の技術・知恵です。現代科学に合わない教義は可能な限りオーソライズされるすべきです。。
 一方で、お祭りやスポーツの応援などの組織で集団との連帯感の中で強烈な一体感の喜びを感じる群棲動物の性があります。一人の人間は身体と共に心もひ弱な存在です、人は自我の目覚、拡充のため自己の正当性を願います。宗教によって支配される?ことに安住する人の側面があります。それは神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なもに憧れ、従うことで恩恵を授かる、序列階級を認め、上に立つことで実現します。
 信仰は絶対者と一体化することで自己が強化されます。神話や祭儀、祈祷が国や集団の秩序のシンボルであり、体制維持の階級組織化の始まりです。宗教は自己承認の武器であると共に疑う自己の放棄を意味します。疑問を持たずに人が考えた事を受け容れる。信念の固定化は新しい考えを取り込んで変化に対応する人間の幼形成塾の終焉です。依存の始まりです。考えるよりも既に有るモノを受け入れた方が手っ取り早い?という習慣の問題です。
 人は失敗を重ね、疑い、悩み、思案することで成長が可能です。人は他の多くの人格に接して薫陶され、人格を創り、人間性が高められます。
 宗教・命の人がいます。依存症といえます。定義は依存症とはある特定の物質や行動へのコントロールが効かなくなる病気のことを言います。依存症になると、日常生活や心身の健康、大切な人間関係などに問題が起こっているにもかかわらず、依存対象の物質や行動をやめ続けることが困難になります。
 弱い自分が敬愛する開祖の人格と一体化することで強い信念・正義が得られ、強い自分に変身が可能になります。しかし、貴方が強い信念を抱くのと同様に他の人も別の信念を持っています。仏教では「己が身にひきくらべて」自分と相手を同じ人と考えて、他者と寛容・敬愛の念で接し、他者との違いを尊重し、他文化の正義と協調してこそ平和な社会が実現します。
 宗教対立はお互いの正義を主張することで生じます。私は貴方を尊重します、同様に貴方も私を尊重して下さい。貴方が敬愛する開祖と培った大きな愛で他の愛する人を想って下さい。身近な親・兄弟・子、そして、元は他人であった伴侶や身近な人々に想いを馳せて下さい。
 私もかつて、信じることができればなんと楽で有るかと感じたことがあります。他人の言葉をその度に疑う手間の煩雑さです。疑い疑った上でも信じて間違いない法則を得ました。”私が在る限り貴方はあり、貴方が在る限り私はある。”As far as I am,you are here. As far as you are,I am there. 略して AS FAR YOU`RE
 信念は貴方と同じです。宗主だけが絶対なのではありません。宗主を創り上げたバックボーンや他の多くの先人がいます。そして、今を生きる人、未来を想う事が可能です。
 私は宗教命の人に改宗を求めません。不毛な議論をする気持ちはありません。貴方は貴方の宗主を想って下さい。貴方が生きている限り、貴方の傍らには宗主がいます。宗主がいる限り貴方はあります。何ら矛盾しません。但し、現代科学の恩恵を受ける現代に有っては生命科学や生命の歴史を子供が学ぶ事を止めないで下さい。新しい知識を学ぶことを認めて下さい。また、宗主の代理人はどこまで正当かを問うて下さい。
 
追記
 釈迦の教えとして一切皆苦、四苦八苦があります、生老病死の四苦の内、生の苦しみには思うようにならない物事や人間関係と自己の体、我慢できない欲求があります。楽(=快楽)であろうとも、苦(=不快感)であろうとも、非苦非楽、内的にも外的にも感受されたものはすべて苦しみである。楽が苦?快楽の感覚が高くなればなるほど、かつて経験した快楽やより強い快楽を求める枯渇する心情、依存に苦しむ原因となる。よって快楽も不足で苦の原因になると言う。諸行無常、諸法無我、一切皆苦 釈迦は何処まで考えたのだろうか?
 ”私が説いた教え、制定した戒律が、私の死後の師匠となる。”
 自灯明・法灯明、法により自らの心によることを死の直前に弟子に残しました。法の現代的解釈は人が生きる上での原理原則であり、社会で生活する上での規範です。その土台の上で自らの生活の中で自らの内省と信念によって自ら考え生きよと。

 キリスト教社会では17世紀まで、無・ゼロや無限を主張することは、無神論として神への冒瀆であり、死刑宣告を意味した。1600年には、宇宙が無限であると主張した修道士のジョルダーノ・ブルーノが、異端の罪で火あぶりの刑にされました。中世ヨーロッパではゼロを悪魔の数字とみなし、ローマ法王により使用が禁じられました。12進法や60進法が発達し、計算に不便でした。ヨーロッパではゼロの使用と伴にルネサンスが勃興し、新大陸発見、地動説等の科学も飛躍的に発展し17世紀にはケプラーの法則やニュートン力学が生まれました。

予告 4、男性の性 性暴力 性文化とどう向き合うか
宗教以上に難問かも
 デニ・ムクウェゲ 暴⼒のない世界の実現と⼥性の⼈権
 2018年にノーベル平和賞を受賞
追記 2022710/30
悲しからずや道説く君 晶子としましたが確認すると さびしからずや道を説く君
でしたでした、待つ女性の心理は 寂しでも 男の心理は 悲し 記憶違いでした ポエム
You give me a reason and power to live for.
Your smile gives happiness and energy to me.
 夕映えに 君が瞳の 輝きて 我が青春の いのち沸き立つ
 瞳を閉じれば貴方に会える 鮮烈な映像が脳裏に表れる
 熱い想いが眠れる感覚を復活し
 深く想えば、貴方の声が聞こえる
 貴方の鼓動、吐息 温もりを感じる
 天が二人を分かつとも 歓喜に共鳴する二人の細胞
 遠く離れても共振する覚醒
 天空では比翼の鳥となり 大海では竜宮に遊び
 鳳凰となりて時空をも旅する
 私が在る限り貴方は在り 貴方が在る限り私は在る
Even if the love is happy ends or broken heart.
You must get self confidence and a pride by it.
You have a fact you loved the lover.
You can complete bigger personality.
It's your deep and intense mind for lover.
You can live stronger and more kindly.
It's your good life to get love and protect lover.
You can change yourself to be more charm and big greater.
Yes, that's true! By your love, you can be happy!

 愛は 生きること、命をつなぐこと
 人の内なる無限の可能性を導き出す力
 脳幹から前頭葉へ、野性と知性の絆
 人を、人と人を 幸福への架け橋



生命体の存在論2、自由と愛

生命体としての存在論 2、自由と愛

2022年09月16日 | 生命体としての存在論
2、愛と自由  頭の中にたまった叙事叙情として

 生命体としての愛と自由を考えます。
 存在論として唯心論や唯物論があるならば生命体としての存在論もあり得ます。
生物学が自然科学として、人類の歴史及び生命存在を証すならば、第一の定理”生きること、命をつなぐこと”が生命体としての永続性を保証する原理です。そこには生存と命の継承が絶対である生物界の掟があります。今日では過酷な生存競争を文明として覆い隠し、残酷さ、冷酷さをオブラートに包む文化が確立してきました。少なくとも生物界の中での人類の行為を善悪で一刀両断に断じ、ゴッドとサタン或いは、福は内鬼は外に2分する世界観は不合理です。歴史として総ては人間の為せる生業であり、総ては自身が受け継ぐアイディンティーです。
 第二の定理、”私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る” As far as I am,you are here. As far as you are,I am there. 略して AS FAR YOU`RE
 これは生命体の存在論として成立します。生物は生命の設計維持情報、生活情報としてのDNAだけで無く、人類は文明文化を次世代に継承し発展させる知恵を身に付けました。ピタゴラスの定理やアルキメデスの原理は数学や物理の科学情報として伝承されています。
 生命体としての存在は生命誕生からの歴史であり、人類誕生からの歴史があります。言葉は言葉として存在します。しかし、それが科学のように実態を伴なわない観念論が虚構の存在として成立してきました。その中でコミュニケーション全体としての言葉は様々に発達誕生し、文明文化を作り上げてきました。生命科学は近年驚異的に発達し、大脳の働き、知能や意識の働きが解明されつつありす。文明文化的な刷り込み、アイデンティティの中で育ち成長した現代人とって、美しき虚構と現実のギャップは軋轢を重ねます。
 人間は生命体として本能としての働きDNAの継承だけで無く、文明文化を継承します。生命体が他の遺伝子を組み込むことで突然変異が発生するように、試行錯誤の中で言葉も変異し新たな言葉、芸術の文明文化が出現します。それは、刷り込みによるだけで無く地域や国、時代を超えて先人が残した生きた証が継承、発露します。

 人類史の文化を見れば自由は最近に確立した概念です。じまま(自侭)な行動が拡大すれば他者の行動を制限し、他者を支配する権力構造が発生します。一対一の人間関係で有れば完全な支配服従から、どちらが主導権を握るか?等、対等な人間関係とは?
 自由は権利としての自由 liberty cf:自由の女神the statue of Liberty と個人の嗜好選択の自由 freedom cf:信仰の自由freedom of religion があります。
 自由はフランス革命以来、自由、平等、友愛が文明国家の標語として確立しました。国家や宗教に抑圧されて来た人間にとって人権の確立は希望の時代でした。
 しかし、それ以降も国家による戦争は人間の自由を根底から破戒してきました、自由を守る戦い、自由と自由をめぐる生存の権力闘争は今も続いています。権利としての自由が確保されても、グローバル化とあらゆる物が商品化され、お金を持つ人の自由と持たない人の自由の格差は拡大しています。世界は今、自由主義バンザイの資本主義社会、北欧では個人の自由を重んじつつも高福祉国家の時代になっています。
 産業革命以降の労働者の貧困、悲惨な生活の中でマルクス、エンゲルスの共産党宣言、労働者階級よ団結せよ、は党による権力独占の国家が誕生しました。ロシアのウクライナ侵攻は帝国主義国家との違いは見いだせません。日本が帝国主義戦争で敗戦してすぐに、東西対立の戦争が朝鮮やベトナムで宗教や石油資源も含め戦火は絶えません、生産の貧しさゆえに人類の原始共産社会は群社会として生活する時代が長く続きました。
 私は原始共産社会を信用しません。現代社会に順応できず、疎外されドロップアウト、或いはニートの若者を想起します。原始共産時代は若者にも個人の尊厳と平等の概念が有ったのでしょうか?食べる事で一杯の生活では”掟”はあっても人権は望外のことです。共同体の掟に従順で無ければ生きて行けません。
 プロレタリアート独裁は共産党独裁であり、権力支配は個人の尊厳、平等よりも支配維持が中心のドグマです。原始共産制のドグマから知識人階層を一掃したカンボジアを思い出します。
 好戦的なボス社会のチンパンジーや平和的なメス主導のボノボとは違った一夫一妻を発展させてきた違いが、メスの発情の違いである知識がエンゲルスに有れば違った方向に歴史は進んだかも知れません。人類が性を秘事とすることで一夫一妻を維持する文化を構築してきましたが、性の多様性と人権意識の高まりの中で事実婚、契約婚の時代が始まっています。過去の婚姻制度の中でも15の法則として夫の子供では無い確立が15%も有ったと言う報告があります。不妊、妊娠しない原因は男女50%のようです。生命史の流れはy遺伝子が対で無いため補完されすに短くなってきているようです。

 個人一人一人に人権があり、人権と自由は並立して共存します。気儘な自由は愛も自分勝手な愛で満足します。つまり、自由と愛は人権があって初めて担保されます。個人への権力の集中を排除することが民主主義です。一人一人の人間に人権があるならば、相手の人権を認める必要があります。弱い立場の人に対する接し方にその人の人権意識が表れます、差別の根源は弱者に対する自己の苛立ちの解消であり、侮蔑で自己の優位を満足させる浅ましい根性です。
 国家の憲法としての3原則、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が成立します。世界が確立すべき原則は -平和、人権、平等- です。
 その前提として人類が持つべき生命の原理は -愛、自由、フェア(公平)-です。
 政治制度として民主主義になりますが、残念ながら日本、とりわけ大阪の新自由主義の台頭と伴に、自由と民主主義の根本的なはき違え、選挙で勝ったもん勝ちの権力指向は国政でも国会軽視、公文書改ざん、モリカケ桜、やりたい放題と多大な影響を与えました。
 文句があるなら貴方が首長になればいい。古い発想ですが、もとより多様性のある個人の人権、自由を尊重し、妥協を計りながら多数の幸福に寄与するための民主主義が多数派による専制政治に貶めました。権力の独占を排除するための3権分立、国権の最高機関は国会のはずが内閣専制の状態です。
 選択的夫婦別氏制度は外国ではそれが普通のため、日本人と外国人の結婚では認められていますが、日本人同士では認められていません。多様性を認めない政治は個人の自由の侵害、人権軽視あり、民主主義を否定する政治です。

 日本の戦前までの家父長制度では自由は有ったでしょうか?家長が権力を持ち家人を支配していました。しかし、家長が自由であったとは必ずしも言えません。権力支配システムの歯車の役割を担う役割に縛られていました。人は共同社会の中での役割を担って生活しています、役にたって初めて生活が成立します。軋轢を嫌って出家遁世、出奔、逐電、駆け落ち、家出などの様々なパターンがありますが、現代では人権の確立と伴にかなり自由度が上がっています。逆に孤立する自由としてニート引きこもりで生活できる社会問題もあります。
 自由が幸福の一つの重要なな要素であり、貧富の格差の中でお金が自由を計る尺度としても、お金の量が幸福の決定的な要素ではありません。お金を至上とする守銭奴から、お金を稼ぎ、維持することが生活の主題になれば逆に自由の質は落ちます。或いは、8時間労働から1,5倍の12時間労働で収入が1,5倍になったとしても自由の質は落ちます。
 日本では自由な働き方、改革等が正規、非正規労働での格差を拡大しています。しかし、格差の拡大縮小は分配の問題であり政治の問題です。江戸時代、江戸っ子は宵越しの銭を持たない粋の文化、江戸の掛け売り文化、一説では盆暮れの年2回の殿様支払い、無い袖は振れない生活を楽しむ文化もありました。
 リバティーの自由が問題とされるのは文化、政治、宗教等による抑圧であり、規制です。近代になって確立された個人の尊厳、人権が疎外され抑圧されることです。そして、自由が自我の欲求とするならば、愛も対象を大切にするという自己愛、親子愛、兄弟愛、夫婦愛、共同体愛などいづれも自我の維持拡大でしかありません。自然界の動物が子育てに必死な姿は人間も行う同じ行為です。鳩の親が子の面倒を見、カラスに襲われそうになれば体を張って防ごうとする本能は人間も同様です。
 赤子が快不快の自己主張で養育する母親からの愛を受けることで成長します。そして、文化の伝承の中で、時代や場所に制約された自由や愛を学び、時代の継承者になります。社会への反発反抗はアウトローとして疎外され、その社会の文化を受け入れ順応して初めて成人と認められます。現代では個人の人権がかなり認められる時代になりました。しかし、未だに組織の中で長老ががマウントを取るピラミッド構造が残っています。一部の村社会や体育会系クラブ、お笑いや芸能の世界、ブラック企業での人権侵害です。DVや幼児虐待も他人を自己と同様に敬重すべきという人権意識と自制心の欠如です。自らもその不合理に耐え、今が有る思い上がりです。アダルトチルドレン症状と役得意識です。父母を敬い従う、文化を継承する。幼児児童の自我の拡充のママに成長した証です。それは何代にも渡る長い支配と従属、隷属の人類の歴史の中で継承されてきました。この反省、批判無しに薦められる道徳教育の教科化はオシツケでしかありません。上から目線、父母の愛に感謝し、協調性、同調性が求められ、社会秩序の継承維持の道徳学習に反発と抑圧を感じます。子供にとって大人に成長する最重要課題は人権尊重や多様性の承認です。子供に対しても人として自分と同様に接する。それが民主主義の根幹です。
 学校での体育で、集団行動とは日体大のアクロバティックな行進が代表する集団行動になっています。組体操よりも危険が少ないことで小学高学年より取り組みが有ります、集団の中での規制された様式美を求めた統一行動です。美しさと難度が求められる程に個人の人権、多様性を認める教育から排除される生徒が多くなります。それは民主主義の教育では有りません。多数の生徒の運動能力の正規分布の中央値に合わせる困難さは、指示命令に従う従順さと努力が必要になります。それが共同社会での生活で暴走しがちな自我を自制する訓練につながるとは思いません。集団として運動能力に多様性ある教育現場で助け合う行動が無ければ、大戦末期の個性無用の社会になってしまいます。多様性を認める教育は協調性や同調性の圧力では無く、違いを認め助け合うことに美しさを見出すグラデーションの様式美が必要です。
長くなりすぎたため表示上 分割します
続く



生命体としての存在論 2、自由と愛 続編

2022年09月16日 | 生命体としての存在論
 自由や愛は自我の延長線上にあるだけで無く、自我の次元を超える自由や愛もあります。”生きる目的は生きること、命をつなぐこと”、そこに人生があり、過去の惨事を含む人類の歴史を受け入れることが可能になります。世界は善悪の無い自然社会です。人類は遺伝子DNAだけでなく大脳新皮質の発達で獲得形質や知識、たゆまない文化の創造によって時代は進化します。知識の蓄積だけで無く、法を作り、人権を発見しました。では今を生きる人間に何が必須か?
 初めに自然との共振調和、そして他者に共感する能力、共鳴する能力です。それは第一に他者と自己は同じ人間であるとの発見”気付き”が必要です。同じ時代の同じ地域、民族、国だけで無く、過去に生きた人々も含めた”気付き”です。幼児児童の成長の段階では未発達です。自我に目覚、確立する思春期前から学ぶ事が可能です。否、残念ながら成年、老年であってもエゴイストは大勢います。ここで言う自我の確立は他我の存在を自己と同等に認める社会性です。優越感や差別意識、劣等意識を排除して対等な人間として接することができる自我の確立、自己承認です。それが愛の目覚です。
 恋愛は愛を学び人間として成長する最大の機会です。私は男性ですので男性の立場であり、自分の生きてきた世代でしか論じられませんが、愛は性の目覚めと伴に自己の独立を促し、相手を選択します。集団の中で最も自分に合ったより良い相手を対象にします。或いは、自分に叶った相手を次善に選択します。出会って時間の経過は有っても恋に落ちるのは一瞬の直感です。日々あふれ出る精子と男性ホルモンが相手を求めます。しかし、単純な性的衝動とは違います。生物として最高の相手を選択する本能、よく言えば極めて人間的な欲求である理想を求める心です。自己中心の考えから他者に心を開いて行くことです。それは友達を選び仲良くなるのと同様に、人間として一緒にいる事が楽しく、自分の総てを理解してくれる、総てを相手に知って欲しい、或いは相手をより知りたいという熱情になります。それは有性動物としての片割れ、欠陥を補う相手、二人一組で一人前を見出す人生最大の喜びになります。
 しかし、世の中は相性の良い優れた相手は他者にとっても良い人になります。ライバルの存在です。或いは、すでに別の相手と良い関係にある人ほど美しくも見えます。百人百様、関係の継続は自己喪失の相手になる場合もあり得ます。相思相愛という考え方があります、相手がどう思っているかは厳密には不確実の中で恋心は募ります。相手が対象を求めていなければ不成立に終わります。男性が自我の独立を促されるのと同様に、女性も自我の独立を求められます。白馬の王子様を求める女性の心情には、自分が男性を愛するよりも男性から愛されたい気持ちが勝っています。これでは相思相愛の関係では有りません。愛されるから愛する、条件付きの愛情です。愛されていないと感じれば自動消滅する愛です。変な男には引っかかりたく無いという防御意識が強ければ恋愛経験は成立しません。当然、男性も変な女性に引っかかりたく無い意識があります。これでは恋愛は進展しません。白馬の王子様は単に強引な男性であり、持てる王子かダメ男の違いを選んでいるだけです。
 相手を独占する、嫉妬で相手を困らせる。それは相手を愛しているよりも玩具屋さんの前で駄々をこねる幼児と変わりません。エゴの拡大、他者に依存する自我の喪失です。
 フロムはThe Art Of Loving (愛するということ)で失敗という経験と人間的な成長の中で愛することを学ぶことができる。wikiでは失恋とは恋する相手への気持ちが成就しないこと。また、恋愛が何らかの形で終止符を打たれることである。としています。
 恋愛は失敗という経験を重ねて初めて成就します。失敗を重ねることで人間は成長し恋愛も成就します。未熟な青春の恋愛は自己を内省して相手を人として愛しているのか?性の欲求が満たしたいから?の自問自責があります。相手の笑顔、喜び歓喜が至上で有るならば、相手を一人の独立した人間の意思として尊重すべきです。それが相手に対する愛です。ここに告白による失恋を恐れない姿勢が生まれます。失恋を悲しむ必要は無い。あなたを想う我が愛は不滅の愛。機会が有ればまたその時に・・・失敗の原因は何だったのか?
 心を閉ざした孤独な少年が街をさまよう かわいい少女が少年に微笑む
 なぜ 独りで目的も無く歩くの? 目を開けば美しい世界があるよ
 孤独な少年は街に出て歩みを止める 美しい眼差の少女が少年に微笑む
なぜ 私を見つめるの? 見つめるだけでは私のことわからないでしょ
心を開いた少年が語りかける やさしい少女は次々変わる話題に付き合う
なぜ 必死にしゃべろうとするの? 二人で静かに歩くのも楽しいよ

 恋愛では、花よ蝶とおだてられる存在は、自分自身も魅力ある人間として成長する必然性があります。色付き始めれば少年少女は身心共に青年に成長しなければなりません。選ばれる人となるために体を鍛え勉学に励むと共に人間としての魅力向上に励む必要があります。しかし、心の成長は現代の教育システムの中で早熟が好まれない現実があります。また失敗の恐れや自己主張の弱さから身心の成長に追いつかない未成熟な自我の精神年齢があります。恋せよ乙女、恋せよ男(おのこ)
 いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 褪あせぬ間に
 熱き血潮の 冷えぬ間に あすの月日は ないものを

 蓮如が80才オーバーで3人の子供を儲けた逸話は高齢の男性にとって希望のトピックですが、若さの魅力は中年と伴に枯れます、人間の魅力は人間力です。米国の大統領リンカーンの人間力の3名言。
 40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなくてはならない。
 世には卑しい職業はなく、ただ卑しい人があるのみである。
 他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない。


 人間の魅力、情感知性の表現たる表情は若さの青い魅力もあれば熟成、完熟の魅力は老年になっても発揮します。年の功、人生を経験する中で美しさを減ずることは残念でなりません。久しく少子化が言われる日本で晩婚化、生涯独身という悲しい現実があります。無論、性的マイノリティを否定するものではありません。個人の尊重は多様性の尊重であり、自由と人権の根源です。苦労の中で希望を失わない生活が人間的な魅力を高めます。
 私は優しく控えめな男性が日々の生活の多忙さの中で、性の商品化の中に甘んじて、女性と接触する機会が極端に無いのではと危惧します。それは日本の貧困な文化ですが、女性にも当てはまります。
 日本ではロマンティック・ラブの先駆けとして19才で大恋愛の末に結婚し、人生を駆け抜けた天才、北村透谷がいます。”恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を引き去りたらむには人生の何の色味かあらむ。” 恋多き透谷が愛した教え子、富井まつ子の死の翌年、明治27年25才で自死、
=厭世詩家と女性=青空文庫より  https://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/45237_19755.html
 大正時代には恋愛至上主義として、厨川白村が 人間の燃ゆるが如き情熱と感激と憧憬と願望との白熱化した結晶とも見るべき恋愛には、悠久永遠の生命力がある。生きる事それ自らが人銘々の芸術である。そして恋愛は人間が全我的に全人格的に、最も力強く最も美しく生きる事である。恋愛結婚至上主義
 file:///C:/Users/fusako/Downloads/5011_0092_07%20(2).pdf より
 日本も戦後はロマンティックラブから結婚が主流の時代ですが、フランスの実存主義哲学者”実存は本質に先立つ”ジャン=ポール・サルトル 1905年~1980年74才没と第二の性”人は女に生まれるのではない、女になるのだ”で有名な同シモーヌ・ド・ボーヴォワール 1908年1月ー1986年4月 78才没、25才と21才の二人は”僕たちの愛は必然的なものだが、偶然の恋も知る必要がある”自由恋愛を互いの報告義務で認めた子供は作らない2年間の契約結婚の自動延長、事実婚のさきがけでした。男としては日常的に性愛の相手を確保しつつ、時には自由恋愛を謳歌する夫妻ですが、精神的経済的なタフさ必要です。なぜなら男性が日常的に性愛の相手を確保する時間と金銭の負担は非情な能力が必要です。サルトルは浮き名を流しましたが、シモーヌはアラフォー以降に2人の男性との性の目覚めを公表しています。
 私は20歳なのだ。私は、今、初恋を生き、これが私の初めての旅行なのだ。 私のすでに古びたいのちで、私は愛する男のために、幸福をつくりだしているのだ、なんという幸福だろう!  彼の欲望が私を変貌させた。あのように長い間、嗜好もなく、形態もなかった私が、再び両の乳房を、腹を、性器を、肉を所有したのだった。
NHK100分で名著上野千鶴子解説 ボーヴォワール老い(3)老人と性より、

 フランスでは恋愛とは性愛のことだった?と思うほどですが、恋愛が人間の睡眠、食、性の3大欲求の男女の性、生殖に向けたパッションの動機付け、恋愛の二人が一緒にいれば自ずから性愛に移行する経過です。日本では恋愛から性愛に移行する壁が高く、結婚による性交が許される古い文化ゆえ?TVで不倫が盛んに糾弾されます。
 しかし、ボーヴォワールの性の目覚めがアラフォーであったように、性の解放は女性が男は狼という偏見や、純潔貞潔、旧来の生殖の性という考えでは成立しません。男女ともに性を求める存在であり、相思相愛の愛し合う性、性愛と恋愛は単独では孤独で不安定な人間に絶対の自信と人間愛を目覚させます。場数を踏まなければ学習できない恋愛ならば、社会の中で唯一無二の恋愛を成就させる事は不可能に近いことです。大恋愛の末に19で結婚した透谷は、24才で別の恋愛に狂いました。相手に許容されるかは別問題ですが、性的な相性で交歓可能な人は多数存在します。
 他者に対する警戒からの解放、自己の総てをさらけ出す自由、自己の総てを受け入れる他者の発見であり、喜びです。それは逆に他者の総てを受け入れる寛容の心を育て熟成させます。死とも向き合う生存の厳しい人生の中で絶対の自信と歓喜の存在の発見です。そして、オンリーワンを選ぶ選択は数多くの経験によって劇的なパラドックスが発生します。
 私は自由だ!相思相愛は不問、貴方は愛される存在です。貴方を愛すると言う絶対の自信、幸福が私には有ります。貴方とどう関係を結ぶか、貴方がどう思うかに拘わらず、貴方は私が愛する存在であり守るべき存在です。ブラボー オー マイラブ!
 鳴海仙吉の一節に、ゲーテの植物学者としての不朽の功績は、一個の花が一本の枝の変形であることを証明したことであった。花が開き、雌雄がそこに交わり、虫と鳥を誘い寄せるのは、植物それ自身の肢体の一部の転生であること。存在する我以外の何ものも花咲くことができる筈がないことを芸術家ゲーテが知っていた。
 人が他者を愛するのは他者を愛する己が性ゆえです。人生の多くの経験は広汎な他者を愛し、若さを保ち自らを磨き成長させる力を発します。それが生命の躍動であり。愛と呼びます。
 I Love You Forever,Transcend Time and Space.
 時空を超え、永遠に貴方を愛している
 私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る。
 As far as I am,you are here. As far as you are,I am there.
略して AS FAR YOU`RE



追記
 女性の性は男女差別、フェミニズム女性解放、性の解放は男女同権の中で男性自身の抑圧も解放します。女性は妊娠と直結するがゆえ臆病になりがちですが、感染症、ピルやゴムが普及する今日、恋愛が技術で有るように性愛も経験を重ね無ければ上達しません。未熟な気の合う若者同士が一歩踏み込めず破局するよりも、失敗を覚悟のしてチャレンジすべきです。経験した上で破局する方が勉強になります。女性が自己主張の強い男性を白馬の王子と勘違いする失敗もあります、男性に依存する弊害です。少子化の中で日本の人工中絶件数が年間14万件を超え、DVや離婚はその証です。2人が共同生活をする上での自制心の涵養は必須です。SDGsが重要な課題であるように少子化に向かう社会は病んでいます。生殖につながらない性が否定される社会、隠ぺいされる性に問題があります。性欲が否定され、商品化される性が孤立化を進行させています。性暴力は他者の自由が欠落した異常事態。性欲が分別する心を占有した結果です。してはいけない自制のルールの大甘か自制心の欠落です。不思議なのは社会的成人がスカートの中を盗撮する冒険です。ペナルティが大きすぎます。余りにも自暴自棄な行為です、ことに夢中になれば我を忘れる男の性を知るべきです。
 純潔、貞潔を訴える保守層が性を棄損しています。性交の知識も教えられない貧困な学校での性教育と性の商品化が共存しています。愛を訴える宗教が二人の恋愛に干渉、或いは宗教団体が性を管理しようとする旧体制維持の存在は異常です。
 社会的に成人として認知される年齢の高齢化に伴って晩婚化が進んでいます。中高生の時代は性を抑圧され、以後も溢れる性の商品化情報の中で健全な二人の関係の構築が疎外され、お一人様の生活に慣れていきます。蓮如は80才代で3人の子供の父親になりました。難行苦行に耐える延暦寺とは違った超人性を称える?日本人のHの回数と満足度では圧倒的に外国に遅れを取っています。考えて見れば、昭和の男性は長時間労働と慢性的な睡眠不足で熟睡を得るためのHでしか無かったのかと疑います。住宅の狭さや子育ての中で、性愛が軽視される風潮が未だ未だ残っています。共働きと核家族化の中で家電製品の普及で家庭労働の軽減化が進んだとは言え、女性の負担は重く、子育て世代では夫婦生活より子供が中心の生活になりがちです。これも古い考え方と言えます。
 家庭の縛りによる人間疎外から、恋愛フリーの意識は相手ができるできないを別にして性の解放は人生を楽しく謳歌させます。しかし、家庭を守る意識は真剣であればあるほど危険に近づかない意識、外では美しい花を真剣に見ない抑制が生じます。抑制と感じない夫婦関係の構築が重要です。ある意味人生は長いと感じることが有っても、学業や仕事で過ごす時間は限られています。一時はそれに集中することも必要ですが、自分の生活を豊かにする時間を確保する事が前提です。しかし、努力が抑圧と感じないので有れば大きな意味と希望があります。
初稿2022-09-16 修正 2022-09-22

 3、宗教の未来形 百年後 千年後のカタチ 革新的変革
をアップしました 2022/10/30 画像クリックで移動

前章 1,はじめに

生命体としての存在論

2022年07月16日 | 生命体としての存在論
  -生命体としての存在論-       阿呆謙助
1、はじめに
 生命としての存在は生きること、命をつなぐことです。生物としてそれが総てです。生きることは言葉の意味として、経験の違いもあり人それぞれに微妙に理解は異なります。又、どう生きるべきか?とは別の問題です。
 刷り込みと言う言葉があります。鳥の雛が生まれて直ぐに見る動く物を親として受け入れますが、一般に動物が生まれた後、急速に生きるための知識を吸収する学習現象が刷り込みです。人の場合は言葉の学習や生活の習慣や文化形式を急速に学びます。又、人は幼形成塾と言われ、成年後も頭脳は学び学習する能力、記憶と思考の2つを持っています。逆に、科学文明の発達した現代では生物的に成年に達しても学習しなければ社会的な成年に達しない現実もあります。人には知識を丸ごと覚える、分解し組み立てて覚える2つの方法があり、人によって得手不得手があります。手っとり早いのは丸ごと覚えることですが、批判精神と思考の柔軟性が欠ける可能性があります。記憶や知識に頼り、価値判断の基準、スタイルは変化しがたく、時代の変化に対応する能力は若さ溢れる頭脳の特権です。逆に、若者ほど変化に対応する思考と知識を吸収する頭脳の柔軟持っています。但し、新しい言葉に慣れなくて普通の文章のように読み難しいでしょう、言葉の意味を理解しながら辛抱して進んで下さい。
 本編は人生とは?を考え始める中高校生や人生を問う若者を初めとして悩める人々に、現代では当たり前の知識を組み立てただけですが、半世紀に渡る思考の結実です。世界を一変させる思想の自負があります。混迷の世界は変革する必要があります。補助になればの一心でできるだけ判りやすく、無知、無恥を承知で私が得た知恵を真剣に書きます。私は哲学を学問として修得していません。無学誤謬を指摘して頂ければ幸いです。質問も歓迎します。

 人は言葉を情報の伝達と思考の手段として刷り込まれます。言葉には様々な種類が有りますが、私は真理という言葉は嫌いで使いません、以下では✕✕で表記します。✕✕は論理的には正解のブラックボックスです、数学でのXと同じです。世の中の予め決まった事を総称し、或いは事実で無い事まで総称される言葉です。アルキメデスの原理は✕✕、同様にこれも✕✕。の論法をあなたは受け入れますか?人は言葉を字義と情緒の2種類で理解する側面があります。未知、不確定なxをそれは正しいと受け入れますか?水は高き処より低きに流るにつきます。しかしながら、歴史的遺産として、✕✕と正義を希求し…の様に学校でも使われます。これは哲学での観念論になります。日本ではイデアリスムは Idealism 発音はaɪdɪ́əlɪ̀z(ə)mアイデアリスムですが、存在論においては唯心論、認識論では観念論、倫理学では理想主義となります。✕✕を正とするならば○○の定理、○○の法則で十分置き換えが可能です。
刷り込まれた✕✕のような言葉に私は小中高生の頃より反論できませんでした。理屈、論理として反論のしようがありません。おべんちゃらで使うか、押し黙るの2つの選択肢です。抑圧され表現の乏しい人は繊細な熱情が内に秘めていることを私は知っています。
 宗教での善悪2元論の刷り込みは強烈です。マジックワード、幼児がお化けがでるよと親に脅かされ、言いつけを守る比ではありません。生物にとっては食物連鎖が有るのみです。群社会では序列と支配被支配の権力構造、マウンティング

私は本編で愛を説き、平和を説きます。そして理(ことわり)を説きます。愛は人が生きること命をつなぐ上での人生最大の案件です。人を成長させる原動力です。愛は湧き上がる性の欲求が成熟して初めて生まれます。少子化、ジェンダー平等が叫ばれる今日、性は隠蔽されるモノでは無く、オープンに理解が進まなければ文化は発展しません。日本も昔はおおらかな性文化の時もありました、対等でなければ成立しません。

 平和を想います。生存の第一条件です。科学と技術が飛躍的に進み、世界のグローバル化んだ今日、時代の子である思想はどこまで現実を反映しているでしょうか?過去の賢人が現代の知識を持ってすれば大いなる知見を明らかにするでしょう。ロシアによるウクライナ侵攻を止められない混迷の世界にあって、改憲が論議を呼ぶ時代になりました。70年の年月を現憲法下で育ち生活してきた私にとって反戦平和は親父母世代の遺言です。余りにも悲惨な昭和の戦争を経験した怨念、平和憲法は日本の誇りです。平和は生きること、命をつなぐことの最低限の前提です。戦争に明け暮れた20世紀、世界は何を誤ったのか?正すべきです。
 銃による殺人事件が頻発する米国で公共の場での銃の携行を制限したニューヨーク州法を連邦最高裁は違憲としました。常在戦場の日常、日本人にはありえない生活感覚です。武力で権勢を張り合う愚は止めましょう。
 旧態の思想や倫理、宗教が現実に対応していないと断言します。改めるべきです。生命に関する科学は歴史と伴に飛躍的に発展し、人間と他の生命との境界は限りなく無くなりました。現代人は合理的な科学的知識は求めれば得る事が可能です。
 断言します。フランス革命以後の-自由、平等、友愛-は時代遅れです。自由は抑圧と支配に苦しみ続けてきた人類にとって希望の概念でした。しかし、自由の密を知った人々は暴走します。自由には自己のエゴを含み正当化します。統一ロシア党のプーチン、トランプのアメリカファーストと自国第一を押し通すエゴの対立がまかり通っています。自由は愛と公平フェアネスによって統合されて初めて社会性を保ちます。
 国連の目的は何より平和です。世界が確立すべき原則は
 -平和、人権、平等- です。
その前提として人類が持つべき生存の原理は
 -愛、自由、フェア(公平)-です。

 愛と自由、フェアに生きる。これが古今東西から学ぶ人類の叡智です。その為に平和、人権、平等の原則が前提です。残念ながら人を愛し、自由を楽しむフェアな生き方は生まれながら備わってはいません。人は社会の中で失敗しながら愛することを学び成長します。自由を楽しむ心は自制心と知識が必要です。そして幼児期に愛情を受けて育まれる協調性も重要です。

 私達の時代は四当五落の受験勉強、水分補給は競技が総て終わってから時代でした。社会人になってからも長時間労働が常識?人を愛し、自然と芸術を楽しむ余裕が無い心貧しい生活でした。
 それは初めのボタンの掛け違いが大きく影響しています。私は学校の先生が嫌いでした。何故、あなたの指示に従わなければならない?親は子供に義務教育を受けさせなければならない。この一点で子供は学校に行かねばなりません。運動会のマスゲームが大嫌いでした。団体行動の一部品の自分を押し付けられる存在。子供で有っても一人の人間として尊重されるべき存在です。この人の指示に従う値打ちが有るか?相手の人間性判断と功利判断のせめぎ合いです。先生に人格を求めるのが間違っていました。一般の社会の人間模様と変わりありません。
 近年になってリベラルアーツという言葉を知りました。大学での基礎教養ですが、人は何故学ぶのか?古代ギリシャローマを源流とした、既成の概念、慣習の束縛から自己を解放するための知識や変化に対応し、自由に生きるための力を身につけるためです。考えるより記憶の方が早いに決まっていますが、興味や関心が長期記憶に影響します。又、論理的に思考することも経験や訓練が必要です。そしてラビング・アーツも確立する必要があります。
 好きこそものの上手なれ、必死に覚える必要性が有れば覚え込んでしまいます。努力は苦しむモノではありません。楽しむモノです。今を辛抱して勉強すれば、将来楽しい生活になる。ウソ、欺しです。両者では効率が全く違い勝負になりません。未来永劫いつになっても今を辛抱して生活する習慣と刹那の楽しみに甘んじる事になります。
 政界で収入格差が教育格差を再生産すると宣伝する人気政党がありますが、ウソ、欺しです。教育格差が有っても収入格差の少ない社会を目指すべきです。収入格差を黙認して受験競争をあおり、負ければ収入格差に甘んじよ!人生で最も輝く青春時代を愚弄する考えです。成績が悪いのは勉強しなかっただけの話です。やる気が無ければ塾であれ予備校であれ時間の無駄使いです。現代は肩書き万能の時代ですがメッキは直ぐに剥がれ、実力が露見します。
 ちなみに丸覚えは女性の方が相対的に得意です。男性が負けない為にはテスト以外の強い目標、動機付けが重要です。? ちなみに数学のテストは思考力のテストではありません。クロスワードように問題な叶った解き方を覚え方程式を当て填め計算する訓練です。
 話を戻します。

 結論を予め書きます。生命体としての存在論としてこれから明らかにしたい事は次のことです。
生命存在の
 第一の定理は、生きること、命をつなぐこと Living and passing life on to the next.
 第二の定理は、私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る 
    As far as I am,you are here. As far as you are,I am there.
略して AS FAR YOU`RE
 生命体として加速度的に発達してきた文明文化、科学は先人からの遺産です。その蓄積の上に私達はいます。言葉で知識を紡ぎ伝え、思考の道具としてきました。その遺産を受け継ぎ、発展させ、次世代に引き継いでいる現在です。私が在る限り貴方は有る。過去の先人に対しても、未来の人々に対しても自己存在の証明です。貴方が在る限り、As far as you are.私は有ります。
 第三の定理は たくましく、やさしさありて、たのもしい
     愛と自由を求め誇りを持ってフェアに生きる
これの説明は長く未だ曖昧で後述します。司馬遼太郎の 21世紀に生きる君たちへ 参照して下さい。
 ちなみに私の若い頃の愛読書は高校時代の荘子から初まり、伊藤整の鳴海仙吉、そして司馬遼太郎です。上記は下の娘が小5の時の国語の教科書に寄稿されました。
最近では三木清の老い、親鸞の性欲の苦悩
宗教的には釈迦の直弟子、汎神論的無神論者です。