人間は死ねばどうなる?
人が死んだ後は家族をはじめ、慈しんだ愛する人の中で人格として生きます。
一万年二千年の宗教に大変革が起こります。あなたが今まで知っている知識のタガを緩めて読み進めて下さい。
As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.
私が在る限りあなたはあり、貴方が在るかぎり私はある。
略して As FAR YOU'RE
これが生命体が太古の昔から脈々と命を引き継いできた生命の実体です。コピーミスもありますが、理論上は子は両親からDNAを半分ずつ引き継ぎます、孫は四分の一です。しかし、人間は文明文化として言葉や慣習を学習し、その地その時に生きる人間として育ちます。科学が発展した今日では一人でそれを学ぶことは不可能です。分業し専門家が協力して初めて人間社会が成立しています。逆に肉体的に成人年齢に達しても社会的に自立可能な成人年齢は益々遅くなっているのが現実です。人間以外では知能が発達した動物ほど、産まれてから親などから教わる知恵が増えます。親から子へ、子から孫へ伝えられて往きます。
現代の日本人ならば、自由に生きる権利を皆が知っています。しかし、宗教2世に限らずとも家庭の経済状況や教育環境によって権利が侵害されています。
子供の人権が守られないのは、人間は生まれながらに平等な人間としての尊厳が守られないからです。平和に生きる権利も有ります。
市川猿之助の心中事件に関して、梅沢富美男がパワハラはダメと言いながら、「芸能界と社会の問題をごちゃまぜにしないでほしい。なぜかというと僕らはそこで生きてきたんです」そうです。封建制の時代から戦前まで、親が隠居しない限り、子は親に従い、孝行するのが道徳でした。保守的な地域ほど古い考えを持つ人が多くいると考えられます。農家や商工業総ての分野で”僕らはそこで生きてきたんです”と言います。スポーツ界でのイジメや差別が戦後75年たった今でも事件として報道されます。如何に戦後の人権教育がないがしろにされ、女性や子供差別が温存し、性が抑圧されてきました。いかに個人の自立心の養成がなされなかったかの証です。
皇国思想が強まった明治大正時代、歴代天皇は126代、124人として今年にも再確定されています。今年、亡くなるまで大正生まれの母は諳んじていました。
明治時代に墓所が確定され造成された初代神武天皇陵や安倍元首相が銃撃の年が西暦+660年とされた皇紀2682年です。紀年法は明治に制定され、初代から15代応神天皇までは平均年齢は100才を超え、BC660+DC310=970÷15、65年の平均在位期間になります。何代にも渡って在位期間が長いのは子供や孫は幾つの年に生まれたのか、それ以外の子供は?頭がおかしくなります。存命期間や在位年数が長ければ孫、ひ孫が位いを受け継いだ可能性もありですが、歴史としては変です。
戦後の民主主義はいつの頃からか変質したのではと感じています。昭和の世はこんなのでは無かったと、今や偏った自由主義が大手を振ってマスメディアを席巻しています。中高年世代の責任とも言えます。その時あなたは・・・
日本憲法の3原則は「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」と学びましたが、安倍首相は自由主義や愛国教育を訴えました。私は個人の問題として憲法の意義は
人権、平等、平和に暮らせることだと考えます。
しかし、自民党歴代、岸田首相は「自由」と「法の支配」を事ある毎に訴えています。儲ける者が儲ければ、溢れた富は下々に行き渡るアベノミクスは底なし容器の上部に占有されました。儲けて何が悪い、儲ける才が無いのが悪いという自由と自己責任論。これが維新や自民党の新自由主義の正論ですか?
ロケットが日本に飛んでくる、共産国は恐ろしい。これで保守・自由主義連合の自民党は選挙に勝ってきました。当然、人権や平等は認めます、平和も力によって保ちます。多数派を維持する事が民主主義であり、正義の証です。彼らの言う自由主義国家とは何でしょうか?現在の日本と北朝鮮は敵対することで成立する共依存の関係にあるとも言えます。
ある維新の政治家曰く、人権は法の下に平等にあります。平和は力の均衡によって保ちます。選民思想?差別?昔から差別はあり、現在・将来とも無くなることは無い。それを支持する思想、宗教もあります。生存競争で生き残る弱肉強食の自由主義。差別は当然と公言しました。
欧米では少なくとも自由主義の根底にキリスト教の愛があります。隣人愛です。自由・平等・友愛です。鳩山由紀夫が訴えて有名ですが、日本でも釈迦を祖とする大乗仏教があります。慈悲、慈しみがあります。
仏教では悟りでない自由はエゴと考えられます、煩悩です。愛も自己中の人はエゴになる可能性が大です。相手の人権や平等を理解することです。親や兄弟、周りの人を愛することはエゴと言えませんか?自分が出来なかったから子供に期待する?内省が必要です。相手の人格を尊重することです。同時に自分も大切にすることです。人間関係では共依存が問題になることがあります。自灯明法灯明、自分と法をより所に迷わずに生きよ。
♫そばに私が ついてなければ なにも出来ない この人やから 泣きはしません つらくとも いつか中座の華になる・・・ 浪花恋しぐれ 昭和58年発売、長女が生まれた年です、初代春団治の破天荒な夫と耐える妻の美談?普段、怒鳴らなっかた私はカラオケで ”酒こうてこんかい ”と大阪弁で怒鳴るのが好きでした
現実に生きている人同士ならば、愛は相手が喜ぶ顔が自分の喜びと感じることがでれば愛と言えます。男性にとって結婚は食事をし、Hをして、睡眠をとる共同生活で愛を育む場所と考えることができます、サルトルの様に自由恋愛を前提とした結婚は凡人ではなかなか大変です。しかし、結婚前には多くの失敗、経験を重ねなければ人間的な成長も望めません。今の相手の評価も正当には無理です。人生経験を積めば一人の相手だけがすばらしいのでは無く、自己の存在自身が他者が好きであることを悟り、他人に優しく接することが可能になります。男性が気になる人にモノなどを持って行き、関心歓心を得るのは太古の昔からの習いです。相手の笑顔を見るだけでペイします。夫婦の一方の嫉妬や嫉みは相手を束縛する独占欲であり、夫婦の地位に安住するエゴです。女性も好きなスターにぞっこんになるケースも多々あります。トラウマや日常的に自己を疎外する環境であれば現状逃避を薦めます。良い日差しに当たることは場所だけで無く新しい人に巡り会うチャンスです。厳しい風に当たり続けると人間は疎外感で不幸になることもあります。
自由は自己保存のエゴであり、愛は自由の延長のエゴでもあり、相手の人権、平等を尊重して初めて愛になります。子供が母親に何かすることで喜ぶことが嬉しくなれば愛の目覚といえます。逆に、私だけが何故こんな目に合うと思う自己中な人は愛情不足を感じながら育った人かもしれません。
As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.と思える老いらくの恋をしたい。で一段落とします。
死の怖さは知恵がある分、瞬間的な怖さ以上に想像を働かせて増幅します。又、親等が子供を従わすためにも利用します。
死に対する恐怖を克服するのは心の問題として宗教の役割とされてきました。現在では思想哲学としてもあります。しかし、現在は形而上の真理と形而下の科学の乖離、矛盾が顕著になりました。自由や愛は形而上の概念ですが社会科学として取り扱い、ここでは生命の本能の延長として扱います。しかし、科学を称しながら、これが真理だというエセ科学が現在も蔓延しています。時代場所によって変遷してきた真理の中身、それを真理という言葉で一刀両断にする言葉を嫌悪します。人によって科学的論理的思考による究明が真理と言うならば別ですが、わざわざ真理という修飾語を使い誤解を招く必要はありません。
仏教詩人として有名な坂村真民は釈迦が死後を説かなかったように、二度とない人生、をテーマとして多くの詩を残し、今を生きることを詩で綴りました。
・二度とないこの人生を いかに生きいかに死するか・・・
・花には散ったあとの悲しみはない ただ一途に咲いた悦びだけが残るのだ。
・わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる・・・
これが仏教?と思われるかも知れません。もとより釈迦の仏教は葬式や加持祈祷が本意ではなく、人々の現世の苦しみを解脱し、楽しく生きる術の教えです。
冒頭で述べた As far I'm alive ,you're here. As far you're alive,I'm there.
この生命の実体と真民の詩を合わせれば
人間は死ねばどうなる?は
人が死んだ後は家族をはじめとして、慈しみ愛する人の中で、人格として生きる。
という認識が誕生します。死生観の大変革です。生きている間は他者として会話が可能ですが、死後はその人の発想や表現、表情声が記憶として生者の人格を形成します。
世界の初めを創った創造主を信仰しても生命科学と矛盾しません。釈迦が死後を無記としたように、全ては現在を生きる生命の生き様として科学として表現が可能です。新訳仏教では諸行無常・諸法無我を覚悟すれば一切皆楽
ある人は、あの世があると考える方が人はムチャをしないとう、子供に対する脅かしと同じことを言いました。日本には武士の”名こそ惜しけれ”があり、ヨーロッパでは騎士道、紳士は名誉と誇りを重んじました。死後の世が無くても、自分の生き様が次の世代に受け継がれることの方が効果はあります。神道の中今の思想に通じます。何より虚構を様々に信じる必要がありません。
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそをしけれ
周防内侍 百人一首
春の短い夜につまらないっときのHでは、あなたの名前がすたれますよ
西洋哲学はキリスト教神学の影響を受けて発達しました。フォイエルバッハはデカルトから始まる近世哲学は理性の神格化により哲学へと転化した神学であるとして、ヘーゲル批判からキリスト教は利己的で非人間的な宗教であるとしました。マルクス主義は上部構造は下部構造に規定される。原始共産制はモノを共有する平等な社会であった。として産業革命後の悲惨な労働者の生活からプロレタリアートを解放する階級闘争によって共産主義を目指す社会主義国家がロシアを初めとして多数成立しましたが、原始共産制の持つ族長支配の人間性無視を問題にしない共産党一党支配の官僚国家が明らかになりました。それは人権、平等、平和の確立し、自由と愛の葛藤の中で国家を運営するよりも革命を優先する、共産党支配を第一とするレーニン主義、専制国家の誕生でした。
戦後、日本で脚光を浴びたサルトルの ”実存は本質に先立つ” 実存主義でさえ、「神が存在しないのであれば」が前提になっています。人間の本質が神によって作られたのでは無ければ、人間は自由に存在することが可能である。一方で1968年のフランス危機(革命)は自由、平等、性の解放を訴える学生運動から労働者のゼネストに発展し、フランスは争乱状態に陥り、政治的にはド・ゴール大統領が圧勝する一方で労働者の団結権、最低賃金の上昇や教育制度の民主化が実現しました。キリスト教文化の旧世代に反対する新世代の造反としてフリーセックスやフリーラブが権利として拡大。
今日の世界でLGBTや同性婚の法制化の先駆けになりました。日本では昭和43年5月革命の前3月30日にナイジェリア内戦でビアフラ飢餓によって150万人が死亡。抗議焼身自殺した女性の歌、フランシーヌの場合が発売されました。当時は高校生で全共闘、東大闘争がありました。ベトナム戦争反対運動のベ平連は昭和40年からで未だ中学生でした。
今回初めてフランス5月革命の意義を知りました。WIKIで調べながら書いて初めて知ったのが現実です。半世紀以上が経過していますが、日本では人権意識の確立、抑圧からの解放、性の解放が不十分であったと感じます。何故?左右の政治闘争に矮小化されてしまった結果が現在の状況では?人権意識がフランスの様に根付いていれば猿之助の心中事件はあり得ません。
思想哲学としては人間の社会的・文化的現象の背後には目に見えない構造がある構造主義が生まれ、それも形而上学であるとしてポスト構造主義があります。
しかし、これからの哲学、科学と宗教の包括する人間世界
原理原則は
原理 自由と愛
原則 人権・平等・平和
の概念の確立が重要です。
フランシーヌの場合(新谷のり子)昭和44年