与謝野晶子 堺出身 1878年(明治11年)-1942年(昭和17年)
明治34年 歌集 乱れ髪 でデビュー、鉄幹との不倫の後、同年結婚に至る。ストレートな表現で、猥行醜態を記したる所多しの物議とともに、大正ロマンの時代の先駆となる浪漫派歌人として時の人となる
くろ髪の 千すぢの髪の みだれ髪
かつおもひみだれ おもひみだるる
罪おほき 男こら(凝)せと 肌きよく
黒髪ながく つくられし我れ
おもはずや 夢ねがはずや 若人よ
もゆるくちびる 君に映らずや
水に飢ゑて 森をさまよふ 小羊の
そのまなざしに 似たらずや君
血ぞもゆる かさむひと夜の 夢のやど
春を行く人 神おとしめな
今はゆかむ さらばと云ひし 夜の神の
御裾みすそさはりて わが髪ぬれぬ
いとせめて もゆるがままに もえしめよ
斯(か)くぞ覚ゆる 暮れて行く春
きけな神 恋はすみれの 紫に
ゆふべの春の 讚嘆のこゑ
明治37年 日露戦争 反戦歌 「君 死に給もうことなかれ」森繁久彌
明治44年 青鞜 創刊号 「山の動く日来る…」女性解放運動に参加
良妻賢母の反語として 良夫賢父 を造語する人権思想家
純真、情熱の人であり、子供11人を育て、家計を支えた強い信念の人である
又 戦前の封建的な家父長制度や動乱の中、鋭い感性で時代を先行。
大正8年 私と宗教
・・贅沢の余りに多い既成宗教に全く囚われず、全く累はされずに居ることを非常に嬉しくおもいます。私は自分の個性と境遇とを基礎として、人類共存の社会生活の中に、愛、正義、理性、勇気を持って私の人格を自律的に完成する
ことに努力し、その過程に刻苦することを私の宗教的苦行とし、その過程に享楽することを私の宗教的法悦と感じて居ます。ここに「宗教的」と書きました字面は「芸術的」と書き改めても私に於いては全く同じ意味になって居ます
国立国会図書館デジタルコレクション 与謝野晶子 激動の中を行く より
白鳥英美子 - 恋はやさし野辺の花よ
大正10年 与謝野晶子 人間礼拝 一つの覚書
敬意、賛意を表して人間礼拝の現代語タイプを試みます。
宇宙は造られたものでは無い。始めも無く、みづから存在して、無限にみづから活動しつつある絶対の生命であることを、私は直感します。
人と人、物と物とが繋がり合っているのみならず、人と物とが繋がり合っています。たとえば太陽の無くなると言うことが、どんなに偉大な影響を及ぼすかと言えば、それをめぐる幾多の星が解体され、地上のすべての生物が死滅すると言う結果を生じます。万有はこの通りに関係し合って居るのです。
共同も関係です。反発も関係です。相互扶助も関係、優勝劣敗も関係です。花を催す雨はまた花を散らす雨として、花と雨とが関係して居ます。土より出た生物はまた土に帰る生物として、土と生物が関係して居ます。之によって、宇宙が無量の個別の共存であって、同時に微妙な絶対不可分の統一を持って有機的につながって居る全一体であることが直感されます。
宇宙の絶対不可分の全一体として直感するのは、私がそう直感せずに居られいからです。「我れ思う、故に我れあり」と言うデカルトの実証を、また私の実証とします。私自身を外にして宇宙を考えることは出来ません。宇宙は私に即してのみ思想される事実です。
私と宇宙とが一体であると考える時、私が宇宙の中心を成して居ることが実感されます。何となれば、私が思想する時、宇宙はすべて私の中に集まって来ます。宇宙は私を中心として、八方に奥深い遠近感図を示して居ます。他人は又その人自身に同様の実感があるでしょう。人間は一人一人が宇宙の主人公です。他を支配し圧制する所が無くて、万有と共存しながら、自律的に独立する主人公です。
球体のどの一点をあげても、それが中心を成して居るように、宇宙に於ける個人は、無数の中心が並びながら、それが個人同志の衝突を惹(ひき)起こさないのは、すべての個人が宇宙に主たることを得て、何者もその隷属者となっていないからです。他を排さい(おとしいれる)し合はねば宇宙の主となることが出来ないと言うような関係で無いからです。
宇宙には意識があります。どうして其(そ)れを知るかと言えば、人間に意識があるからです。人間の意識は宇宙の意識です。勿論(もちろん)人間の意識ばかりに限らず、動物の持って居る意識も宇宙の意識です。植物、鉱物、其の他一切の物に宇宙の意識があるでしょうが、人間の意識と異なった姿に於いて現れているので、人間に解らないと言うだけのことだろうと思います。
人間の欲求はすべて宇宙の欲求です。愛も憎も、善も、悪も、真も、美も、醜いも、すべて宇宙が本然に備えて居るのです。その中から憎と、悪と、醜とを除去しようとする欲求も、また宇宙みづからの欲求です。
大昔の人間は、宇宙が絶対の自律的存在であることに考え及びませんでした。それで神という偶像を造って、宇宙を神の被造物とし、神の支配に属するものと決めました。また人間と宇宙とが一体のものであることを考え得なかったので、人間をも同じく神の被造物として、その支配を受ける位置に、自己を置きました。ポール・フォールの詩に「人間は自分の魂を神の魂と間違える」と言う句があります。人間の常識には、古くさい迷信がこびり付いていて、今に及んでも、なお人間と神を対立させて考えようとします。
人間が造ったものは、それが不用になれば、人間の手で破壊して宜しい。無神論は精神上の1つの大清掃法です。人間性の明珠(めいしゅ)(宝石)を見るために、既成宗教の積埃(せきあい)(ちりやほこりの積み重ね)を一掃する必要があります。既成宗教は人間性を束縛します。人間性がそのまま宇宙精神であることの自覚を妨げるものは神を人間に対立させてそれに帰依する既成宗教の考え方です。私達の新しい宗教は、人間性の自律的活動そのもので無ければなりません。人間性を超越した神と言うものは白画の亡霊です。
我が国に滞在しているフランスの思想家ポール・リシャール氏の感想録に「聖書は紙にて作れる法王なり」と言う句があります。私達は、もはや どんな場合にも自己以外の権力に支配されようとは思いません。「神に導かれずして人間性の望ましい開展は企てられない」と言う人達があります。私達は愛と正義と美とに就(つ)く人間性を本然的に自ら備えています。文化とは、私達の内にある其等(それら)の人間性を遂行(すいこう)するために、私達の内にある野蛮な本能を駆逐(くちく)しながら進む過程です。私達の宗教的感激はこの人間性に依る自力修行の感激の外にありません。
私達もまた自己を空しくすることを心掛けて居ます。それは自己の内にある野蛮な本能を無くすることです。自己を失うことで無くて、最もよく自己を発揮することです。私達は自己の内にある人間性の前に自己を空しくするのです。
私達にも懺悔があります。私達にも礼拝と祈祷とがあります。それは自分自身の人間性の前に於(お)いてするのです。私達の宗教は個人個人の敬虔な自浄作用です。
神という余計な偶像を保存して、それと人間とを対立させている間は、私達の生活は独立の安さを楽しむことが出来ません。私達と宇宙が一体であることを直感する時、はじめて絶対の安住を感じることが出来ます。荘子や列子は之を「天に蔵す」と言い、「全(総)てを天に得たり」と言いました。天台で言う円融一如の境地も是れでしょう。
個人が各々(おのおの)宇宙の中心であると直感する人にして、釈迦の「天上天下、唯我独尊」と言った徹底個人主義の意味がはっきりと解ります。李白が「天地と冥合す」と歌い、列子が「独往、独来、独出、独入、孰(た)れか能(よ)く之を礙(さまた)げん」と言った意味も領会される気がします。
フランス近代の詩人 シャルル・ヴァン・レルベルグが
おお、指先で私が触れる物よ、
おお、私の瞳に映(うつ)る眩(まば)き光よ
私は君達であり、
君達は私達で無いのか知ら、
私が匂いを嗅ぐ花、私を照らす太陽、
物思う私の魂、
何処で私が終わり、何処で私が始まるかを
誰が私に言い得よう。
ああ、限りなく、私の心の
至る処に見出さるることよ。
樹木よ、お前の樹液は私の血である。
美しい河のように、
物皆の内に同じ生命(いのち)は流れ、
我等みな同じ夢を見る。(堀口大学氏訳)
と歌ったのも、私と同じ宇宙観では無いでしょうか。新しい宗教的感激は、こうした芸術家の感激に現れて居ます。これは既成宗教の因襲思想から解放されて、初めて開けて来る法悦の世界です。一事のエクスタシーで無くて、心の座を宇宙に見出した者の絶対安住の歓喜です。
私は、以上の信仰に依って、自己を増大し、洗練し、地上に生きる限り、より好き生活を建てるために活動しようと思います。人間性を高調することは宇宙の意志を高調することですから、そうして、この外に人間の意志と言うものは無いのですから。
勿論(もちろん)、私の内にある野蛮の本能は強い、私は断(絶)えず其(そ)れを征服しようとして戦って居るのです。そうして、動もすれば其れに負けようとして居ます。併(しか)し私には確信があります。人間性が最後の勝利者です。
明治34年 歌集 乱れ髪 でデビュー、鉄幹との不倫の後、同年結婚に至る。ストレートな表現で、猥行醜態を記したる所多しの物議とともに、大正ロマンの時代の先駆となる浪漫派歌人として時の人となる
くろ髪の 千すぢの髪の みだれ髪
かつおもひみだれ おもひみだるる
罪おほき 男こら(凝)せと 肌きよく
黒髪ながく つくられし我れ
おもはずや 夢ねがはずや 若人よ
もゆるくちびる 君に映らずや
水に飢ゑて 森をさまよふ 小羊の
そのまなざしに 似たらずや君
血ぞもゆる かさむひと夜の 夢のやど
春を行く人 神おとしめな
今はゆかむ さらばと云ひし 夜の神の
御裾みすそさはりて わが髪ぬれぬ
いとせめて もゆるがままに もえしめよ
斯(か)くぞ覚ゆる 暮れて行く春
きけな神 恋はすみれの 紫に
ゆふべの春の 讚嘆のこゑ
明治37年 日露戦争 反戦歌 「君 死に給もうことなかれ」森繁久彌
明治44年 青鞜 創刊号 「山の動く日来る…」女性解放運動に参加
良妻賢母の反語として 良夫賢父 を造語する人権思想家
純真、情熱の人であり、子供11人を育て、家計を支えた強い信念の人である
又 戦前の封建的な家父長制度や動乱の中、鋭い感性で時代を先行。
大正8年 私と宗教
・・贅沢の余りに多い既成宗教に全く囚われず、全く累はされずに居ることを非常に嬉しくおもいます。私は自分の個性と境遇とを基礎として、人類共存の社会生活の中に、愛、正義、理性、勇気を持って私の人格を自律的に完成する
ことに努力し、その過程に刻苦することを私の宗教的苦行とし、その過程に享楽することを私の宗教的法悦と感じて居ます。ここに「宗教的」と書きました字面は「芸術的」と書き改めても私に於いては全く同じ意味になって居ます
国立国会図書館デジタルコレクション 与謝野晶子 激動の中を行く より
白鳥英美子 - 恋はやさし野辺の花よ
大正10年 与謝野晶子 人間礼拝 一つの覚書
敬意、賛意を表して人間礼拝の現代語タイプを試みます。
宇宙は造られたものでは無い。始めも無く、みづから存在して、無限にみづから活動しつつある絶対の生命であることを、私は直感します。
人と人、物と物とが繋がり合っているのみならず、人と物とが繋がり合っています。たとえば太陽の無くなると言うことが、どんなに偉大な影響を及ぼすかと言えば、それをめぐる幾多の星が解体され、地上のすべての生物が死滅すると言う結果を生じます。万有はこの通りに関係し合って居るのです。
共同も関係です。反発も関係です。相互扶助も関係、優勝劣敗も関係です。花を催す雨はまた花を散らす雨として、花と雨とが関係して居ます。土より出た生物はまた土に帰る生物として、土と生物が関係して居ます。之によって、宇宙が無量の個別の共存であって、同時に微妙な絶対不可分の統一を持って有機的につながって居る全一体であることが直感されます。
宇宙の絶対不可分の全一体として直感するのは、私がそう直感せずに居られいからです。「我れ思う、故に我れあり」と言うデカルトの実証を、また私の実証とします。私自身を外にして宇宙を考えることは出来ません。宇宙は私に即してのみ思想される事実です。
私と宇宙とが一体であると考える時、私が宇宙の中心を成して居ることが実感されます。何となれば、私が思想する時、宇宙はすべて私の中に集まって来ます。宇宙は私を中心として、八方に奥深い遠近感図を示して居ます。他人は又その人自身に同様の実感があるでしょう。人間は一人一人が宇宙の主人公です。他を支配し圧制する所が無くて、万有と共存しながら、自律的に独立する主人公です。
球体のどの一点をあげても、それが中心を成して居るように、宇宙に於ける個人は、無数の中心が並びながら、それが個人同志の衝突を惹(ひき)起こさないのは、すべての個人が宇宙に主たることを得て、何者もその隷属者となっていないからです。他を排さい(おとしいれる)し合はねば宇宙の主となることが出来ないと言うような関係で無いからです。
宇宙には意識があります。どうして其(そ)れを知るかと言えば、人間に意識があるからです。人間の意識は宇宙の意識です。勿論(もちろん)人間の意識ばかりに限らず、動物の持って居る意識も宇宙の意識です。植物、鉱物、其の他一切の物に宇宙の意識があるでしょうが、人間の意識と異なった姿に於いて現れているので、人間に解らないと言うだけのことだろうと思います。
人間の欲求はすべて宇宙の欲求です。愛も憎も、善も、悪も、真も、美も、醜いも、すべて宇宙が本然に備えて居るのです。その中から憎と、悪と、醜とを除去しようとする欲求も、また宇宙みづからの欲求です。
大昔の人間は、宇宙が絶対の自律的存在であることに考え及びませんでした。それで神という偶像を造って、宇宙を神の被造物とし、神の支配に属するものと決めました。また人間と宇宙とが一体のものであることを考え得なかったので、人間をも同じく神の被造物として、その支配を受ける位置に、自己を置きました。ポール・フォールの詩に「人間は自分の魂を神の魂と間違える」と言う句があります。人間の常識には、古くさい迷信がこびり付いていて、今に及んでも、なお人間と神を対立させて考えようとします。
人間が造ったものは、それが不用になれば、人間の手で破壊して宜しい。無神論は精神上の1つの大清掃法です。人間性の明珠(めいしゅ)(宝石)を見るために、既成宗教の積埃(せきあい)(ちりやほこりの積み重ね)を一掃する必要があります。既成宗教は人間性を束縛します。人間性がそのまま宇宙精神であることの自覚を妨げるものは神を人間に対立させてそれに帰依する既成宗教の考え方です。私達の新しい宗教は、人間性の自律的活動そのもので無ければなりません。人間性を超越した神と言うものは白画の亡霊です。
我が国に滞在しているフランスの思想家ポール・リシャール氏の感想録に「聖書は紙にて作れる法王なり」と言う句があります。私達は、もはや どんな場合にも自己以外の権力に支配されようとは思いません。「神に導かれずして人間性の望ましい開展は企てられない」と言う人達があります。私達は愛と正義と美とに就(つ)く人間性を本然的に自ら備えています。文化とは、私達の内にある其等(それら)の人間性を遂行(すいこう)するために、私達の内にある野蛮な本能を駆逐(くちく)しながら進む過程です。私達の宗教的感激はこの人間性に依る自力修行の感激の外にありません。
私達もまた自己を空しくすることを心掛けて居ます。それは自己の内にある野蛮な本能を無くすることです。自己を失うことで無くて、最もよく自己を発揮することです。私達は自己の内にある人間性の前に自己を空しくするのです。
私達にも懺悔があります。私達にも礼拝と祈祷とがあります。それは自分自身の人間性の前に於(お)いてするのです。私達の宗教は個人個人の敬虔な自浄作用です。
神という余計な偶像を保存して、それと人間とを対立させている間は、私達の生活は独立の安さを楽しむことが出来ません。私達と宇宙が一体であることを直感する時、はじめて絶対の安住を感じることが出来ます。荘子や列子は之を「天に蔵す」と言い、「全(総)てを天に得たり」と言いました。天台で言う円融一如の境地も是れでしょう。
個人が各々(おのおの)宇宙の中心であると直感する人にして、釈迦の「天上天下、唯我独尊」と言った徹底個人主義の意味がはっきりと解ります。李白が「天地と冥合す」と歌い、列子が「独往、独来、独出、独入、孰(た)れか能(よ)く之を礙(さまた)げん」と言った意味も領会される気がします。
フランス近代の詩人 シャルル・ヴァン・レルベルグが
おお、指先で私が触れる物よ、
おお、私の瞳に映(うつ)る眩(まば)き光よ
私は君達であり、
君達は私達で無いのか知ら、
私が匂いを嗅ぐ花、私を照らす太陽、
物思う私の魂、
何処で私が終わり、何処で私が始まるかを
誰が私に言い得よう。
ああ、限りなく、私の心の
至る処に見出さるることよ。
樹木よ、お前の樹液は私の血である。
美しい河のように、
物皆の内に同じ生命(いのち)は流れ、
我等みな同じ夢を見る。(堀口大学氏訳)
と歌ったのも、私と同じ宇宙観では無いでしょうか。新しい宗教的感激は、こうした芸術家の感激に現れて居ます。これは既成宗教の因襲思想から解放されて、初めて開けて来る法悦の世界です。一事のエクスタシーで無くて、心の座を宇宙に見出した者の絶対安住の歓喜です。
私は、以上の信仰に依って、自己を増大し、洗練し、地上に生きる限り、より好き生活を建てるために活動しようと思います。人間性を高調することは宇宙の意志を高調することですから、そうして、この外に人間の意志と言うものは無いのですから。
勿論(もちろん)、私の内にある野蛮の本能は強い、私は断(絶)えず其(そ)れを征服しようとして戦って居るのです。そうして、動もすれば其れに負けようとして居ます。併(しか)し私には確信があります。人間性が最後の勝利者です。