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意思による楽観のための読書日記

渋沢栄一と勝海舟 安藤優一郎 ***

渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマを見た方なら、栄一が徳川慶喜への感謝と尊敬の思いを生涯いだき続け、幕末維新での慶喜公の悔しい気持ちと維新以降の忍従の日々について徳川慶喜公伝として後世に残したこと知っているはず。一方の勝海舟は、幕末の幕府代表として、江戸城無血開城へ向けた東征軍との交渉にあたり、戊辰戦争後は海軍顧問として新政府にアドバイスする傍ら、徳川家維持のために貢献した。しかし海舟は戊辰戦争で朝敵とされた慶喜公に対しては、旧幕臣の悔しさと新政府への配慮から、最後まで複雑な感情をいだき続けた。海舟は栄一よりも20歳ほども歳上であり、海舟の交渉手腕を高く評価した栄一だったが、最初の出会いでは小僧扱いされたことでプライドを傷つけられた。栄一による海舟の評価は幕末の三傑よりも一段下、というあたり。一芸一能の器ではあるがリーダーとしての器ではないと。それに加えて、慶喜公への批判的とも言える海舟の姿勢が栄一にとっては気に食わなかった。

武蔵国血洗島生まれ、藍づくり農家で育った栄一が、勉学の果に水戸学にかぶれ尊王攘夷に染まって草莽の志士となる。横浜にある外国人居留地を襲撃して攘夷を実践しようと無鉄砲な行動に出たあと、一転、一橋家の用人平岡円四郎に説得され、慶喜公に仕えることになる。一橋家では財政改革に取り組み、慶喜公に評価されて、徳川昭武公のフランス留学に随行することになる。パリ万博を見て進んだ欧米文化と政治形態、最新技術を知ることで、日本の遅れ、攘夷の虚しさを感じていた。その間、日本では慶喜公が将軍となり、戊辰戦争を経て明治維新となり、帰国命令を受ける。

勝海舟は蘭学修行で得た知識をもとにして幕府に提出した上申書が評価され長崎で海軍伝習所を任され、海臨丸で渡米、海外文明に目を啓かれる。幕府による評価では浮沈を繰り返す。軍艦奉行、神戸の海軍操船所などを任されるが教え子が池田屋事件に絡み、江戸に召喚。その後軍艦奉行に再任されるも、慶喜に梯子を外される。新政府との江戸城無血開城では交渉役となり、綱渡り的な交渉を慶喜に咎められるが、西郷隆盛の戦争回避のための英断で交渉は成立。徳川家は静岡藩へ移封となる。この時の事務処理を担当するのが海舟であり、ここでの栄一との出会いで「小僧扱い」というすれ違いを生んだ。

旧幕臣の優秀な人材を多く抱え、フランスから提供された教育により新技術を学んだ旧幕臣を抱える静岡藩による沼津兵学校などは、新政府にとってはお手本となる。静岡藩での財政改革を担当した栄一と、旧幕臣の取りまとめ役だった海舟はともに新政府に有用な人材として引き抜かれた。その間も慶喜の謹慎は続き、海舟にとっては隠忍自重を慶喜に求め続けるが、自分を取り立ててくれた慶喜公への感謝の気持ちが大きい栄一にとっては海舟の態度が気に食わない。

慶喜公は、父の一橋斉昭公から教わった「どんな事があっても天子様への忠誠は忘れてはいけない」という教えを守り続けた。大政奉還以降、鳥羽・伏見の戦いで朝敵とされたことが、慶喜公にとっては一生の後悔となる。結局明治30年までは政治的発言を封印し続けて慶喜に名誉回復のみちが示された。皇居参内、海舟の死去があり、その後は東京転居、麝香間祗候、そして公爵位授爵となり、名誉回復が実現する。栄一は慶喜公の思いと歴史の事実を後世に正しく残したいと、私財を投じて「徳川慶喜公伝」全8巻を慶喜公の死後発刊する運びとなる。本書内容は以上。

なぜ慶喜公は大坂城から逃げ帰ってしまったのか、その後も一言も言い訳を言わなかった理由はなに。幕末維新の歴史ではどうしても幕末の志士たちや、新政府による改革に目が行きがちだが、朝敵とされた旧幕臣たちの思い、それを支えた新政府の役人、そして渋沢栄一と、慶喜公を別々の思いで支え続けた二人の人物の視点は面白い。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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