明治4年12月末からの1年7ヶ月、新政府の主要メンバーである岩倉具視を団長として大久保利通、木戸孝允、そして伊藤博文などが欧米を視察したのが岩倉使節団。訪問国は米、英、仏、独、露、伊などで結果として632日間の世界旅行となる。大政奉還から始まった明治維新の改革をどのようなビジョンで進めるべきなのか、まずは先進諸国の実態を見たいということだった。アヘン戦争を見て危機感を抱いていた、四国艦隊下関砲撃事件で欧米の戦力を実体験した、先行留学者からのヒアリングで進んだ欧米文明の知識はあった。徳川幕府を倒してひとまずはスタートを切った明治政府だったが、薩長の主要な維新メンバーたちの頭の中にもあるべき新政府の姿は描ききれていなかった。留守居役は三条実美、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信らで、維新の立役者の多くは派遣メンバーとなる。
当時の主なステータスは次の通り。
1.廃藩置県、国民皆兵などの大改革で、旧士族の不満が高まり、不満のはけ口として西郷隆盛を担いでの征韓論が勢いを増し、国内治安が悪化していた。
2.欧米の先進文明を積極的に取り入れるのか、日本古来の儒教的価値観に重きをおくべきか、新政府幹部内にも急進的改革論vs漸進的変革論という対立軸があった。
3.薩長中心の新政府に批判的な勢力が、肥前・土佐両藩を中心に巻き返しを図っていた。主な巻き返しメンバーは江藤新平、大木喬任、後藤象二郎で、使節団出立後、参議に土肥メンバーが勢力を増やしていた。
4.地租改正により全国からの税収は確保したものの、華族、士族の俸給が財政を圧迫。資金確保のため、海外での債券発行が必要とされ英米からの資金調達が期待されていた。
5.幕末に締結された諸外国との不公平条約の改正が急務とされたが、教わりたい相手が交渉相手国であるため、教わる手段がなく改正のための外交的な手法が理解できていなかった。
6.欧米諸国の思惑は様々だったが、資源の乏しい日本を植民地支配するよりも貿易相手国として想定、新興の立憲君主国としての立国を期待していた。
使節団は最初の訪問国のアメリカでの熱烈歓迎ぶりに、条約改定交渉も可能かと思い、強烈な失敗をする。相手からの先制パンチは「あなた方は天皇からの条約交渉への権限委譲はされているのか」というもの。権限を持っていると言い張ったが、証明する書面がない。そのため、大久保と伊藤がワシントンからとんぼ返りで東京に委任状を取りに戻る。そのため滞在期間が延び滞在費用もかさみ、その後の予定もどんどん遅れた。大久保と伊藤は日米間往復と国内手続きをあわせ約半年をかけて委任状を取り付け使節団に再合流したが、その間、ワシントンでは岩倉、木戸が「片務的最恵国待遇条項」の存在をドイツ公司から知らされた。万事窮す、改定交渉のアイデアは潰え、国内外に使節団大失態の勇み足を演じることになった。
アメリカでは大歓迎を受ける一方、西部から東部へと鉄道で移動、大陸の大きさや西部大開拓の成果とプロセス、そして先住民への抑圧、黒人差別などを見聞きした。人々の自由な考え方を知り、立憲民主主義の議論を聞くにつれ、日本の儒教的価値観との違いを実感する。米国は国が大きすぎて、自由すぎる、日本のお手本とはできない、というのが使節団メンバーのコンセンサスだった。
次に訪問したのが最盛期の英国、文明の最先端であったロンドンではシティとウェストミンスターを見て、マンチェスターやリバプールなどでは世界の工場たる実態を見た。石炭と蒸気機関により、資源の少ない英国でも世界一の国家となりうることを見たが、ロンドンの下町での貧民街も目にして、貧富の差が大きいことも知る。島国で君主国、日本のお手本にできそうなるも、先進すぎて凡そ追随できそうにない、と嘆息する。
欧州訪問でも、パリの華麗な街並みやベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなどの小国でも立派に立国、貿易、産業隆盛なさまを見て国家の状況、力量に応じた生き様があることを感じる。中でも日本のお手本たる国家はプロシア、ドイツであると確信したのは、ビスマルクによる演説だった。新興の気溢れ、万国公法の長所と短所についても自説を述べたその内容に大久保、木戸ともに日本国立国の基本とすべしと感じるところ多であった。
帰国は開通なって4年目のスエズ運河経由。文明の力を改めて実感する帰路だったが、立ち寄ったセイロン、東南アジア、中国では植民地支配による弱肉強食の実態を見た。
帰国後は、征韓論の西郷隆盛、急進改革論の江藤新平などと鍔迫り合いが起きるが、急進的改革は悪事多しと感じていた大久保は、征韓論を封じ、急進派を抑えるために西郷との決別の腹をくくる。大久保が組閣した新メンバーは工部卿に伊藤、外務卿に寺島宗則、海軍卿に勝海舟、司法卿は江藤に代えて大木喬任、大蔵卿は大隈重信を留任、新設内務省には大久保自身が初代就任。西郷は東京を離れ、その後の西南戦争につながるが、この内閣で大久保は木戸、伊藤の協力を得て富国強兵、殖産興業に邁進する。外交では、台湾出兵による清国との交渉で琉球問題に決着、ロシアと樺太・千島交換条約、江華島への軍隊派遣により朝鮮問題への決着させた。内政では、治安維持のための警察制度整備、不平士族対応でも佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、そして西南戦争に対応した。
岩倉使節団の成果は、この大久保内閣による成果を見ても明らかであろう。急激な変革と不平士族からの圧力に対応して、現実的な国家体制整備に舵を切ったのは、欧米での見聞と、木戸や伊藤ら使節メンバーによる協力の賜だった。大久保暗殺の後に、岩倉は井上毅の意見よりプロシア憲法を下敷きにした欽定憲法案を取り入れ、大隈重信の急進的立憲政治案を葬り去った。明治15年に伊藤と西園寺公望が憲法視察のため渡欧する際に、二人に新憲法樹立を託したと言われる。使節団の成果として大久保亡き後も形をなしたのは、憲法と国会、衆議院、貴族院ということになる。使節団の見識が、大隈・江藤らの急進的開化論を抑え、大久保・木戸による漸進的開化論実現につなげたと言える。
その際の議論で、西洋にはキリスト教という人心の機軸があるが、日本にそれに相当するものがないため、それを天皇制度とするという。そのために憲法を補う形で制定されたのが教育勅語。「天皇を機軸に忠、父母に孝、兄弟に友に、夫婦相和し朋友想信」という儒教的教えである。このことが、その後の太平洋戦争にまでつながることは、大久保や木戸にも読めなかった。日本的価値観をどのように理解し実装するのか、これは今後の日本の行方にも影響していくはず。本書内容は以上。
実に考えさせられる。現実の現代日本、まさに、先行するお手本たる国家がなくなり、経済は先細りが見えている。安全保障の危機は目前にあるも、日米安保と国連基本主義の限界は明らかである。日本が向かうべき国家ビジョンを作り上げるためになすべきはなにか。「改革」を叫ぶ多くの政治家が、改革の方向性や具体策を示し得ないのが現状。具体策の乏しい「美しい国」でも「新しい資本主義」でも国民は納得できない。富国強兵や殖産興業の現代版はなにか、その答えを示せる政治家が求められる。