筆者は三井造船で造船の設計を担当した船の専門家。日本史におけるいくつかの不思議に科学的に迫る一冊。本書で取り上げたのは、船にまつわる3つのエピソードで、文永の役で蒙古軍はなぜ一夜で撤退したのか、羽柴秀吉の中国大返しはなぜ成功したのか、戦艦大和は無用の長物だったのか。
元寇では日本側は当初古来の作法に従って一騎打ちを挑んで、集団で新兵器を用いた蒙古軍にさんざん打ち負かされたというのが通説であり、その後蒙古軍が暴風雨に襲われて日本は九死に一生を得た、という神風神話。しかし博多湾の深さ、操船技術と当時の船の大きさなどから、船から2万人という大軍勢が一日では上陸できないこと、上陸可能な場所は博多市街からは距離のある百地濱だったこと、「一騎打ち」を挑んだというのは絵巻に描かれた戦いの様子に引っ張られた解釈であり、日本側武士団の集団突撃に蒙古軍は進軍を阻まれたこと、これが実際の戦いだった。大きな抵抗にあい太宰府攻略を断念した蒙古軍は一時的に沖合に撤退したところに強い北西風にあおられて撤退したというのが事実。
本能寺の変を知った羽柴秀吉は2万の兵を率いて220kmの行程を8日間で踏破して山崎の戦に駆け付け勝利した、という通説。しかし、事前の準備なくそれは不可能であり、食料調達、雨中の野営、備前から播磨への船坂峠越えの事前計画と準備があったはず、という推理。さらに秀吉は本隊とは別に側近だけを連れて海路により姫路城まで到達、その後本隊に先んじて山崎に駆け付けることを、秀吉軍に従う可能性のある近畿武将に連絡、味方につけて光秀に勝利した。
太平洋戦争での日本軍御切り札として作られた大和、世界最大の46cm砲を九門搭載した最新兵器だったのにもかかわらず主要戦闘にほとんど参加せず後方で無為な時間を過ごしたのはなぜか。大和を温存している間に戦局が悪化、護衛すべき戦闘機や空母が枯渇して、最後の沖縄戦では単独での出撃を強いられた。大和とともに出撃すべき巡洋艦、駆逐艦は設計ミスで多数沈められたことが原因。大和を効果的に活用できる場面は多数あったのに温存する判断が間違い。しかし大和の設計経験は戦後のものづくりの基盤となり、戦後経済発展に寄与したと考えられる。
元寇の「神風」、秀吉の中国大返しの「奇跡的成功」は作られた神話であり、歴史分析における見方を科学的に行う必要がある、というのが筆者の指摘。大和の運用に関しては、当時の参謀たちによる戦況認識が誤っていたという。国難の時期に正しい分析と判断をすること、これからの日本に求められるのは科学的分析と機敏な判断を現実政治に反映すること。本書内容は以上。