そもそも古代の大王は何回か交代したのではないかという説がある。最初の交代は崇神、垂仁、景行、成務、仲哀の5代、三輪地方に栄えたため三輪王権と呼ばれる。箸墓古墳もこのあたりにある。次が応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈の11世代で、河内地方に多くの御陵がある。仁徳と応神の古墳は前方後円墳で巨大なものであり、河内王朝とも呼ばれる。古事記、日本書紀では神功皇后が住吉の三神から朝鮮半島を征服せよという託宣を受けた、しかし夫の仲哀はこの託宣に応じなかったため神罰を受けて崩御、懐胎していた神功皇后が生んだのが応神であり、懐胎していた神功皇后はそのまま朝鮮半島に渡り朝鮮半島を征服する。帰国した時に待ち構えていたのが異母兄弟である香坂王と忍熊王、この二人の兄弟を戦いで破り、皇子としての応神は大王に即位する。仲哀と応神の間にはなにやら断絶がありそうな逸話である。
応神は神武、崇神とともに「神」を名に持つ大王であり、新たな血筋の出発点とも考えられる。応神の父は仲哀となってはいるが、神功皇后は住吉三神との間に子を設けたとも取れる物語である。
そしてこの次に出てくるのが継体であり、近江地方の豪族息長氏一族の出身者ではないかと考えられている。息長氏は八種の姓の最高位である「真人」を天武時代に賜っている天皇家にも近いと考えられる一族である。継体には息長氏の真手王の娘「広媛」が嫁いでおり、応神の母である神功皇后の実名も息長足媛、応神も息長真若中比売を娶っている。
息長氏は三国氏、坂田氏、波多氏、山道氏、酒人氏など意富富杼(おほほど)王の後裔氏族をなのる8つの豪族を束ねていた。意富富杼王は応神の孫若毛野二俣王の子であり継体の曽祖父となっている。
さらに古事記で天皇家の子孫と記されている179氏族を調べ、それはどの天皇(大王)だったかを分類すると、神武から応神までは多くの祖先であるとする記述があるが、仁徳以降安閑までは絶無であり、仁徳以降武烈までの男系子孫が途切れた証拠であるとする。
継体の即位は幾つかの手順を踏ませている。つまり、応神の5世代孫とは言うものの、直接の子孫という証拠がないため、まずは仁賢の娘手白髪皇女を娶らせた。入り婿の王位継承である。継体は最初の妻三尾君出身の若比売、その次には尾張出身の目子媛と婚姻しているが、手白髪皇女との間にうまれた子を欽明として即位させている。地位が上がるに従って正妻も順に交代していて、継体が当初は中央の有力な勢力と親しいつながりがなかったのが、次第に中央に進出していった様を、正妻の出身地で推し量ることができるという。
継体の子である安閑の后には仁賢の皇女で継体の妻である手白髪皇女の妹春日山田皇女がいて、これも入り婿的即位である。宣化もその妹である橘中比売命を后としている。継体の一族は前王朝との紐帯をよほど強くする必要があったと考えられる。宣化と橘中比売命の子が石比売命で、叔父の欽明と結婚して敏達を生んでいる。
継体が即位した後も、継体の即位に反対する勢力がいて、それは葛城氏、仁徳系の王族であった。しかし次第に勢力を強めていた蘇我氏は継体を支援、ようやく継体も大和入りを果たした。磐井の乱が起こり、大和地区にようやく遷都した継体は磐井討伐軍を差し向けた。5世紀半ば以降畿内の中央政権に抵抗する気配を見せていた磐井は大和政権にとっては憂慮すべき存在であり、即位後20年を経て、ようやく討伐軍を派遣するまでに落ち着いたとも言える。派遣されたのは物部氏と大伴氏、磐井を討ったのは物部麁鹿火であった。
継体の死後も勢力争いは続いた。蘇我氏が推したのは欽明、大伴氏、物部氏が推したのは安閑、宣化であり、二朝並立があったという説もある。蘇我氏のクーデターともいわれるこの辛亥の変により欽明と安閑、宣化が7年間並立、その後欽明朝が統一王朝となったという。この前後には政治は有力な豪族による合議制であり、それまでの大王専制とは全く異なる。このような政治形態は大化の改新まで継続、そのごは律令制に形を変えていったという。部民制、国造、屯倉などは新たな支配秩序としてこの時代に形成され成立していった。こうした古代王朝成立のきっかけが武烈から継体への切り替わりを契機に起こった、という筆者の推理である。また、この時代に仏教は伝来、継体時代に五経博士の来朝があり、欽明時代に仏教は伝えられた。軍事拡張の時代から内政重視、人文主義への転換が図られ飛鳥文化への形成とつながっていったという。
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