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日米交渉:1941年11月26日米側提案(いわゆるハル・ノート)

2022年11月26日 | 雑記


United States Note to Japan ,November 26, 1941

 1941年11月26日、日米戦争に至る交渉においてコーデル・ハル米国務長官は米側提案を公表する。当事者にちなんでハル・ノートと呼ばれるようになる。11月末のこの時期には真珠湾が話題になることが多いが(最近は多くもないが)ハル・ノートのことは話題に上らない。真珠湾奇襲はハル・ノートへの回答なのだが・・・

ここで問題!
① 第二次大戦はどの国の宣戦布告から始まったのか?
② 日独伊防共協定が三国同盟になったのは開戦前か?後か?
③ 日ソ中立条約は開戦前か?後か?
④ 米に最初に宣戦布告した国は?

ハル・ノートは「米の最後通牒」か?

 真珠湾「奇襲」という言い方を嫌う人々の間には「アメリカの奴隷になるか戦争かを迫ったハル・ノート」などという言い方が未だに存在する。ネット上では当たり前のことをわざわざ書く人はいないので「ハル・ノート=米最後通牒」論のほうが優勢に見える。これは注意しなければいけないネットバイアスだろう。 戦争を始めたのは、あるいは日本に始めさせたのはアメリカだと言いたいのだろうか? ハル・ノートは「到底飲めない内容を突き付けており(ネット上で見かけた表現)」最後通牒だと言いたいのだろうか?

 では、いったいハル・ノートには何が書かれているのだろうか?

 全文は対訳付きでwebに上がっているのでご参照いただくことにして、国立公文書館のまとめでは以下のようになっている。原文はカタカナ表記。引用中(三国協定骨抜き案)とあるのは当時の日本側資料にあったままである。また、(一)は、今でいう集団安保体制に当たる。対象国は日・米・英・ソ・オランダ・中国・タイである。(三)と密接に関連している。

 四原則を承認するとは具体的にこういうことだ、というのが文書の中身である。「満州国」の扱いについては直接の言及はない。

ハル・ノート骨子
所謂四原則の承認を求めたるもの
(一)日米英「ソ」蘭支泰国間の相互不可侵条約締結  
(二)日米英蘭支泰国間の仏印不可侵並仏印ニ於ケル経済上の均等待遇に対する協定取扱
(三)支那及全仏印よりの日本軍の全面撤兵
(四)日米両国に於て支那に於ける蒋政権以外の政権を支持せざる確約
(五)支那に於ける治外法権及租界の撤廃
(六)最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約締結
(七)日米相互凍結令解除
(八)円「ドル」為替安定
(九)日米両国が第三国との間に締結せる如何なる協定も本件協定及太平洋平和維持の目的に反するものと解せらるべきものを約す(三国協定骨抜き案)

この提案の中で触れられている「四原則」とは、いわゆる「ハル四原則」のことで、以下の4項目を指します。(アジア歴史資料センターの注)

1. 一切の国家の領土保全及主権の不可侵原則
2. 他の諸国の国内問題に対する不関与の原則
3. 通商上の機会及待遇の平等を含む平等原則
4. 紛争の防止及平和的解決並に平和的方法及手続に依る国際情勢改善の為め国際協力及国際調停尊拠の原則

国立公文書館 アジア歴史資料センター

 誰にも否定できない原則を掲げ、その下で自国の権益を追求するアメリカのやり方は今も昔も変わっていない。もっともトランプ前大統領は違うみたいだったが。これが外交の基本だろう。対中国門戸開放と言っている。日本だけで市場を独占するなよ、と。

 しかし、飲めない内容だろうか?中国に加えて仏印で戦争行為を行っている日本に対し、手を引けば経済制裁を解除すると言っているだけだ。今なら当たり前だろう。ご親切に(九)「ドイツの尻馬に乗って戦争始めるなよ」とも書いてある。

 新聞見出しに「話し合ひ成立可能:英消息筋楽観」とあるように、当時の報道でも交渉の行方を楽観視している様子がうかがえる。いざ日米決戦へという雰囲気は微塵もない。

ではなぜ、対米開戦に踏み切ったのか? 勝馬に乗ろうとしただけである

 答えは同じ新聞記事にある。「赤都へ六里に迫る、独軍機甲部隊猛進撃

 独軍対ソ勝利⇒ユーラシア枢軸化⇒米英と休戦という絵を描いたとしたら、希望的観測と妄想が五つ六つ入ってないか?人のふんどしで相撲取るなよ。情けない。「バスに乗り遅れるな」という浅薄な感情が見て取れるだけだ。ちなみにこの時期が独軍の最大進出ラインで、このあと攻勢は頓挫し反撃を食らう。日本の対ソ開戦がないと踏んだソ連がシベリア軍管区と極東軍管区から部隊をモスクワ防衛に回したのは有名な話である。

 さらに言うなら、独英休戦という万に一つあるかないかの機会を潰したのも日本の対米開戦である。独にとっても日本の対米開戦は予想外であった。独も不本意ながら対米開戦に踏み切る。米の参戦を待ち望んでいたのは、もちろん英国であった。なぜなら当時米国は「欧州のことは欧州に任せておけ」という世論が主流だったからのである。

 ちなみにアメリカファーストと最初に言い出したのは新聞王ハーストであり、ルーズベルトの熱烈な「反対者」だった。太平洋や大西洋の向こう側のことに関与すべきではない、ということだ。

 タラも、レバもないが、真珠湾を奇襲していなければ、アメリカの参戦はずっと遅れた可能性が高い。その場合でもDデイは実行されていただろう。なぜならヨーロッパ全土をソ連軍が席捲する事態は阻止しなければならないからである。

 開戦にいたる年表では、勝馬に乗ろうとして失敗した経過が透けて見える。

 1939年8月 独ソ不可侵条約
 1939年9月 独ソポーランド侵攻 英仏、独に宣戦布告
 1940年6月 仏降伏
 1940年9月 日独伊三国同盟 日本、北部仏印侵攻
 1941年4月 日ソ中立条約
 1941年6月 独ソ戦開始
 1941年7月 関東軍特種演習(対ソ戦準備、すぐ断念)  
南進論に転じた日本、南部仏印侵攻
 1941年11月 ハル・ノート
 1941年12月 5日ソ連軍モスクワで反攻開始、8日 日米開戦、11日 独伊が米に宣戦布告 
 1942年11月 ソ連軍スターリングラードにおいて反攻開始
 1943年1月 スターリングラード攻囲の枢軸軍降伏
 1943年5月 北アフリカの枢軸軍崩壊
 1944年6月 ノルマンディ上陸作戦 

 となり、一年遅れればモスクワ攻略断念、スターリングラードで反攻開始と開戦の機を逃したと思われる。この時、石油は禁輸されていたから、旧軍が危惧したように燃料備蓄を含む対米戦力が圧倒的劣勢になっており開戦派が力を失った可能性すらある。だから1941年12月に開戦に踏み切ったのだろうが・・・ 
 
 1941年12月に対英米開戦に踏み切ったのは、彼らに国家の利益を考える強靭な理性がなかったからである。さらに言えば対英米戦で勝てる軍備を要求し続けた結果、引くに引けなくなった結果でもある。軍部が数十年にわたって築き上げた地位を手放したくなかったのである。たとえ国家が滅亡しようとも。

では開戦しなかったら(開戦の機を逃したら)その後の日本はどうなったであろうか?

 旧憲法のまま、天皇の主権は維持され、地主制度は温存され、満州、朝鮮、台湾は植民地として残り、その植民地解放闘争と対中戦争で国力を損耗し、世界大戦終結後に連合国の協力を得た中国軍に大陸から駆逐されていただろう。つまり戦後の高度成長は望めず、重化学工業化も電子化も(技術移転、資本移転の制約を受けたであろうから)なく、中進国でとどまっていたかもしれない。

 それにしてもハル4原則は、それを掲げた米を始め守られたことはなく今もそれに反する行為が行われている。だから軍備を増強せねば、という議論がある。

 こういう議論は軍備を増強すれば相手もそれに応じた軍備を増強するであろう、ということを忘れている。ここではこれ以上の議論はしないが、今にして思えばハル・ノートは「飲めない内容」ではなかったということを、軍人の言うことを聞き続けるとロクなことにはならないことを、記憶しておきたい。

① 第二次大戦はどの国の宣戦布告から始まったのか?     
⇒英仏
② 日独伊防共協定が三国同盟になったのは開戦前か?後か?  
⇒開戦後かつ仏の敗戦後
③ 日ソ中立条約は開戦前か?後か?             
⇒開戦後かつ仏の敗戦後
④ 米に最初に宣戦布告した国は?              
⇒日本

進展する状況を後追いし、深刻な判断ミスを犯していった歴史が見えるではないか。


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