ケインズ的政策とは「穴を掘って埋める」ようなものだ。ムダな公共工事こそケインズ政策を象徴している。いまこそムダを省き、規制を撤廃して成長の原動力を作りださねばならない。
よく聞く話であるが、二重に間違っている。ケインズはそもそもそんなことは言ってないし、供給側をいじくって成長があるはずもない。問題は需要、有効需要の水準なのである。
で、ケインズは何と書いているのか?
政策は厳格な「営利」原則にもとづいて判断される傾向がある
興味をそそられるのは、常識というものは、最悪の結末から逃れようと悪戦苦闘したすえに、部分浪費的な形態――全面的に浪費的というのではないから、厳格な「営利」原則にもとづいて判断される傾向がある――よりは、やはり公債支出だ、全面「浪費的」形態だ、という結論にたどり着きがちであったことである。たとえば、公債によってまかなわれた失業救済は〔失業〕改善資金の低利融資よりも受け入れられやすい。また金採掘として知られる地中に穴を掘る形態は、世界の実質的な富には全く何も付け加えないうえに、労働の不効用だけはちゃんとともなうようなものであるにもかかわらず、あらゆる解決策の中で最も受け入れられやすいものである。
現在でも公的支出による事業展開は、今や介護事業、保育事業、健康保険事業の拡大という需要がそこにあるにもかかわらず、「減税」や「特別給付金」より受け入れがたいようである。かたや(当時は)「金採掘として知られる地中に穴を掘る形態」が受け入れられやすかった。
ここでケインズは失業給付より雇用創出と言っていることに注意。これが「穴を掘る」ということだ。
ところで「穴を掘って埋める」たとえは正確にはどう書いてあるのだろう?
なるほど、住宅等を建設するほうがもっと理にかなっている
いま、大蔵省が古瓶に紙幣をいっばい詰めて廃坑の適当な深さのところに埋め、その穴を町のごみ屑で地表まで塞いでおくとする。そして百戦錬磨の自由放任の原理にのっとる民間企業に紙幣をふたたび掘り起こさせるものとしよう(もちろん採掘権は紙幣産出区域の賃借権を入札に掛けることによって獲得される)。そうすればこれ以上の失業は起こらなくてすむし、またそのおかげで、社会の実質所得と、そしてまたその資本という富は、おそらくいまよりかなり大きくなっているだろう。 なるほど、住宅等を建設するほうがもっと理にかなっている。しかしこのような手段に政治的、現実的な困難があるならば、上述したことは何もしないよりはまだましである。
通常の読解力があれば誤読の余地はない。ケインズは穴を掘って埋めることを勧めているわけではない。ここは皮肉のための喩えでしかないが、それにしても、最低「紙幣をいっぱい詰めた古瓶」を埋めろと言っている。紙幣が詰まっていれば「営利」原則にかなうだろう? そのうえ雇用が創出される。強烈な皮肉である。
最初は悪意の誤解で始まったのだろう。いまや一般理論を読む人がいなくなって誤解が真実として流通している。で、なぜ住宅建設に「政治的、現実的な困難がある」のだろう。当時から民業圧迫という資本家の抵抗があったのだ。
以上の便法と現実世界の金鉱との類比は完壁である。経験の示すところでは、金が適切な深度で採掘できた時代には世界の実質的な富は急速に増大しており、採掘可能な金がごくわずかしかないときにはわれわれの富は停滞するかまたは減少している。このように金鉱は文明にとって最大の価値と重要性をもっているのである。ちょうど戦争が、大規模な公債支出としては政治家の是認する唯一の形態であったように、金採掘も、地中に穴を掘る口実の中では健全融資として銀行家が太鼓判を押した唯一のものであった。そしてこのような活動の一々が、他に妙案がないときには、進歩にとってそれなりの役割を演じたのである。具体的に言えば、不況時には、労働や原材料で表示した金価格は上昇する傾向をもち、それが原因で金採掘の採算深度が増し、かつ採算に合う金鉱石の最低品位が低下する。このことが来るべき景気回復の一助となるのである。
「このことが来るべき景気回復の一助となる」となるのか?
金価格の低下とは、すなわち、たった今日銀がやっている量的金融緩和と同じことである。確かに一助にはなるのだ。しかし、問題は需要である。
一般理論は1936年に出版されている。2020年で出版84年もたつのだ。
我々はいったい何をやってきたんだろう。
「穴を掘って埋める」には続編があります。そちらもどうぞ。
ケインズを誤読した「経済学者」はいかに国民を不幸にしたか?
曲学阿世の2001年竹中経済白書を読む
一般理論を読む 改訂版