~本弟子6人について~
日蓮は死去する5日前の1282年(弘安5年)10月8日、日興に「一、本弟子六人の事・・・」で始まる遺言を書き取らせている。
六老僧と言われる六人の弟子は以下の通り・・・。
・・・日昭(にっしょう)・・・
六老僧のトップ。もと天台宗の僧で、早くから日蓮の弟子となる。池上で日蓮を看病、遺骨を身延山に埋葬した。その後、鎌倉で布教に専念。
・・・日朗(にちろう)・・・
下総の生まれで、叔父の日昭にしたがって日蓮に出会い、常にそばに仕え、師と苦しみをともにした。日像など教団の明日を担う弟子を輩出。
・・・日興(にっこう)・・・
日蓮の死後も墓所のある身延山に常駐するが、開基である地頭波木井実長と険悪となり、弟子を引き連れて身延山をおりた。
・・・日向(にこう)・・・
佐渡配流の際も日蓮のそばを離れず、日興が山をおりたあと身延を引き継ぐ。後年、身延山を日進に譲って上総茂原の妙光寺に隠棲。
・・・日頂(にっちょう)・・・
常に日蓮のそばを離れず、下総の布教にあたっていたが、後年、日興門流の学頭として迎えられ、日興門流教学の振興をはかる。
・・・日持(にちじ)・・・
わが国海外伝道の始祖として名高い。国内普及はほかの本弟子にまかせ、日蓮の宿題であった中国、インドへの広宣流布をめざした。
六老僧は日蓮の死後、相模の鎌倉、武蔵、上総、下総、安房、甲斐、駿河、佐渡など各地で布教に邁進する一方、日蓮教団の結束を固めるため、交替で一ヶ月間、身延山の日蓮の墓所に仕えるという輪番制度を取り決めた。
だが、布教活動に邁進しながら身延山に登詣して一ヶ月を過ごすというのは大変な事で、日蓮の三回忌にはなし崩しとなり、地元の日興と上総茂原にいた日向が常住することになる。
そしてさらに、日蓮の死後6年目にあたる1288年(正応元年)集団指導体制という一枚岩を真っ二つにする事件が起こる。
墓所に常駐する日興が、身延山久遠寺の開基である地頭波木井実長の神社参拝などの行為は、日蓮の教えに背くものであり、絶対に容認できないと諫めたのである。
これがもとで実長と不仲になり、日興は弟子を引き連れて身延山を下山。富士山麓に大石寺(現在の日蓮正宗総本山)を創設。一方、身延山久遠寺は日向が引き継いだ。
日興は大石寺と富士本門寺を中核に日興門流(富士門流)を名乗り、ここに六老僧による日蓮門下の結束は崩壊し、日蓮教団ではじめて分派が誕生するのである。
~初期の主な門流~
日興門流(富士門流)
大石寺と富士本門寺を中核として日興が興す。
厳格に日蓮の教えを守ろうとする日興の思想は、今日まで続いている。
日向門流(身延門流)
身延山久遠寺を中核に日向が興す。後年、身延山を日進に譲って上総茂原妙光寺(茂原寺)に隠棲したことから、茂原門流とも呼ばれる。
日昭門流(浜門流)
鎌倉浜土法華寺(妙法華寺)を中核に日昭が興す。
各門流のなかで、天台宗への傾斜がとくに著しいことで知られる。
日朗門流(比企谷門流)
池上本門寺と鎌倉妙本寺を中核に日朗が興す。
日常門流(中山門流)
日蓮の檀越(施主)の富木常忍が出家して日常と名乗り、下総若宮(千葉県市川市)法華寺(法華経寺)を中核に興す。
この五つの門流からさらに分裂し、多くの門流が誕生していく。
と、本日は日蓮の本弟子について学習しました。
明日は、日蓮宗の教えについて学習します。
日蓮は死去する5日前の1282年(弘安5年)10月8日、日興に「一、本弟子六人の事・・・」で始まる遺言を書き取らせている。
六老僧と言われる六人の弟子は以下の通り・・・。
・・・日昭(にっしょう)・・・
六老僧のトップ。もと天台宗の僧で、早くから日蓮の弟子となる。池上で日蓮を看病、遺骨を身延山に埋葬した。その後、鎌倉で布教に専念。
・・・日朗(にちろう)・・・
下総の生まれで、叔父の日昭にしたがって日蓮に出会い、常にそばに仕え、師と苦しみをともにした。日像など教団の明日を担う弟子を輩出。
・・・日興(にっこう)・・・
日蓮の死後も墓所のある身延山に常駐するが、開基である地頭波木井実長と険悪となり、弟子を引き連れて身延山をおりた。
・・・日向(にこう)・・・
佐渡配流の際も日蓮のそばを離れず、日興が山をおりたあと身延を引き継ぐ。後年、身延山を日進に譲って上総茂原の妙光寺に隠棲。
・・・日頂(にっちょう)・・・
常に日蓮のそばを離れず、下総の布教にあたっていたが、後年、日興門流の学頭として迎えられ、日興門流教学の振興をはかる。
・・・日持(にちじ)・・・
わが国海外伝道の始祖として名高い。国内普及はほかの本弟子にまかせ、日蓮の宿題であった中国、インドへの広宣流布をめざした。
六老僧は日蓮の死後、相模の鎌倉、武蔵、上総、下総、安房、甲斐、駿河、佐渡など各地で布教に邁進する一方、日蓮教団の結束を固めるため、交替で一ヶ月間、身延山の日蓮の墓所に仕えるという輪番制度を取り決めた。
だが、布教活動に邁進しながら身延山に登詣して一ヶ月を過ごすというのは大変な事で、日蓮の三回忌にはなし崩しとなり、地元の日興と上総茂原にいた日向が常住することになる。
そしてさらに、日蓮の死後6年目にあたる1288年(正応元年)集団指導体制という一枚岩を真っ二つにする事件が起こる。
墓所に常駐する日興が、身延山久遠寺の開基である地頭波木井実長の神社参拝などの行為は、日蓮の教えに背くものであり、絶対に容認できないと諫めたのである。
これがもとで実長と不仲になり、日興は弟子を引き連れて身延山を下山。富士山麓に大石寺(現在の日蓮正宗総本山)を創設。一方、身延山久遠寺は日向が引き継いだ。
日興は大石寺と富士本門寺を中核に日興門流(富士門流)を名乗り、ここに六老僧による日蓮門下の結束は崩壊し、日蓮教団ではじめて分派が誕生するのである。
~初期の主な門流~
日興門流(富士門流)
大石寺と富士本門寺を中核として日興が興す。
厳格に日蓮の教えを守ろうとする日興の思想は、今日まで続いている。
日向門流(身延門流)
身延山久遠寺を中核に日向が興す。後年、身延山を日進に譲って上総茂原妙光寺(茂原寺)に隠棲したことから、茂原門流とも呼ばれる。
日昭門流(浜門流)
鎌倉浜土法華寺(妙法華寺)を中核に日昭が興す。
各門流のなかで、天台宗への傾斜がとくに著しいことで知られる。
日朗門流(比企谷門流)
池上本門寺と鎌倉妙本寺を中核に日朗が興す。
日常門流(中山門流)
日蓮の檀越(施主)の富木常忍が出家して日常と名乗り、下総若宮(千葉県市川市)法華寺(法華経寺)を中核に興す。
この五つの門流からさらに分裂し、多くの門流が誕生していく。
と、本日は日蓮の本弟子について学習しました。
明日は、日蓮宗の教えについて学習します。