St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

年間第12主日カトリック飯田教会の神父様の説教など

2009-06-22 12:37:43 | Weblog
(神父様の説教より)
「1 神は何時も側におられる。でも、干渉はされない。そして、わたしたちのことを見て悲しんでおられる。わたしたちは、ミサで・祈りで、神に感謝して、「有難う」と言おう。
2 「自分の願いや欲望を叶えてください。」は信仰ではない。「苦しい時」「悲しい時」祈るは違う。エゴが入り込む。自分のために祈ると、他人が傷つくことがある。
3 米軍。チヤプレ。米軍従軍司祭。「敵をやっつける」ために祈る。それは、エゴイズム。また、自分のために祈る祈りはそれに似たり寄ったり。フランシスコ会は、従軍司祭にならないことにした。大切なのは、戦争を止めること。
4 「神は側にいる。」「神が、助け守ってくださる。」、感じられない。そう相談受けたが、自分で探すしかないと思う。司祭は何を語ったらよいか?「神の思いを感じとっていく」。わたしの願いと神の願いに隔たりがあるから、感じられない。キリストを通し、聖書を読む中で、御言葉の意味を探っていく。そして、神のお望みを自分のものにする。「聖書を読む」「聖書を通して祈る」。それが大事。
5 神の願いを思い。神の願いを生きる。神の思いを受け止める。「神が人生の中心」。神の思いを実現する。そのために、聖書を熟読すること。
6 神は人間の頭で理解出来る程、ちゃちな存在ではない。だから、イエスを通して感じとっていく。
7 「わたしたちは、くどくどと祈ってはならない。神はわたしたちの望みを既にご存知なのだ。」
8 神が何を必要とし、望んでおられるのか、分ってくる。そして、御国を伝えて生きていく。」
(祈り)
・ 主よ、御言葉を通して語られたあなたの思いを重く受け止め、生活の中心に置き、あなたの思いを実現していくために、日々過ごすことが出来ますように。
・ 主よ、あなたは万物の創り主です。今週の御言葉にあるように、「叱りつければ、風や湖も従う」方です。あなたの偉大なわざを何時も称え、日々感謝のうちに過ごすことが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。

「キリストにならって」より-祈り

2009-06-22 12:04:00 | Weblog
「キリストにならって」より、1.3.15.
「潔白、単純、かつ心の落ち着きのある人は、多忙のうちにも気を散らさない。それは、何事をも神のみ栄えのために成し、自分の事を忘れ、自分の利益になる事を探そうとしないからである。」
・主よ、自分に死に、あなたに生きんことを。わたしたちは、洗礼によって、あなたとともに黄泉に下りました。あなたとともに復活し、新たな命に生まれ変わりました。何事をするにしても、それらすべてをあなたのためにします。それらすべてをあなたに捧げます。わたしを助け導いて下さい。主イエス・キリストの御名によってアーメン。

カトリック暦年間第12主日に思う-感想

2009-06-22 00:31:59 | Weblog
 カトリックの暦が、ordinaryに戻った。
ご復活など祝日が続いて、通常に戻るこの時期、第12週前後に戻るこの時期、去年と比べて信仰がどう変化したかな?ふと反省する。
2・3年前だったと思う、「ジョゼッピ」という英語・字幕無しの映画を見た。ごく粗野などちらかというと無学な青年が、貧しいまま修道院に入り、そこでも、馬の世話をしながら祈る性質。というもの。やがて聖人になって法王にも謁見して…。
正直に真似た。道を歩きながら・人込みの中、日本語で、英語で、出来る限り祈ることにしている。一度、南平台から渋谷駅まで、夕方道を歩きながら祈った。流石にラテン語にしたけど。
とにかく、2・3年続く。
去年は、「マルタロバン」と「聖ヨゼフ」、「聖ファウスティーナ」。英語版をインターネットで探し回ったことが記憶に新しい。「ロバン」は本国でも絶版で、手に入れることも難い。
今年は、「チェナクルム」と「聖テレジア」の映画。
特に「聖テレジア」は、大学時代に読んだフローベールの「日記」に絶賛の下りがあったことを記憶している。カトリックでなかったが、その時代から知っている。
ここ、10年位前~3年位前まで、夜9時に「毎日のミサ」をする習慣だった。ロザリオも、「その後必ず」を心掛けた。今ミサ以外、週1~2で、教会を訪れる。「毎日」と「ロザリオ」を祈る。
そして、最後に持って来て、まことに申し訳ないのですけど、神父様の説教に去年と変化が。新たに強調なさっていることは、「聖体」の意味。食べること。人に一番自己中心が入る其処に、神はキリストの体を置いた。キリストを食べる。キリストに食べられる。食べられている。そして、わたしたちが、「食べる存在」(エゴに満ちた)から「食べられる存在」(愛そのもの)、へと変化して行ける。
ordinaryに戻った今日の福音は、嵐の中の船の話。
世間に生活の場を置くわたしたち平凡な人たちは、その必ずしも凪ぎばかりでない日常で、困難に直面することが非常に多い。木の葉のような家庭なる船。上の「聖体」の意味、頂いているその意味を噛み締めながら、しっかりと沖へ漕ぎ出して行きたい。
「あなたたちの価値観は、皆の価値観と違うんですよ。愛の価値観なんですよ。」マリア様は、そう語り掛けていらっしゃる。