St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

森鴎外「諸国物語」(スルギウス)を読んで-感想

2009-06-24 02:28:31 | Weblog
森鴎外「諸国物語」(トルストイ/「パアテル・スルギウス」)を読んで

 僧侶の話。
スルギウスは、最初、上流社会を目指す。手立ては2つ。揃わなければ駄目である。尊ばれている仕事に就く事、上流の令嬢との結婚。それである。
 さて、スルギルスは為し遂げた。順調に、容易に。だが、ある障害が発覚する。妻なる女性は既に陛下のお手がついていた。彼は激怒する。そして、僧侶になる決心をする。ロシアの話。ギリシャ正教である。時代も地域も疎い日本で雰囲気を知ろうとすれば、映画が手っ取り早いと思った。タルコフスキー。「アンドレイ・ルブリョフ」。大分忘れているので不正確だと思う。「御免」で絡める。
スルギウスは、厳格な僧侶となる。だが、7年目に、ある出来事に関わる。怒り。過去の自分を知る人物と引き合わせたことに激怒する。驕慢の業。そして、草庵に引き篭もる。
孤絶した祈りの生活が6年続く。49才になった。やはり、苦悶。疑惑と色欲に。そこに現実に試みが現れる。貴婦人の誘惑である。彼は、指を斧で裁って、その痛みで破滅を辛うじて回避する。触発され貴婦人も修道者となる。
そして、スルギウスは、霊験=癒す人となる。何千人もの人の病気を癒し続ける。
だが、嵐のような誘惑が彼を再び誘う。今度は抗し切れない。活動の中で余りにも疲弊してしまっていたから。
一夜の過ち。
彼は決心する。「神はいない。自ら己を失おう。」と。
将にその時。辛うじて幼馴染の面影が過る。啓示もあった。幼馴染との会話が交わされ人生を決するであろう、なる。
そうなる。そして、決心する。
「名聞を求める心。それに濁されていた。神を新たに訪ね求めなくては。」
「神の奴僕の一人で御座います。」その生き方を後の半生貫く。
「水を一杯人に飲ませた方が、有難く思わせようと努力するよりましである。」彼の辿り着いた「悟り」の境地である。
 ここで、ルブリョフ。同じ正教、僧院から始まる。イコンを描き続ける。同様の技量の者は沢山いる。だが、皇帝によって描画を命じられたのは、ルブリョフだった。同じ僧院から出て行く僧侶もいる。
旅路での異教徒の風習、誘惑。満足する絵を描けない。苦悩。戦。教会に雪が降る。ダッタン人の襲撃に遭う。抗し難く罪を犯す。狂女を庇わんがため、弾みで人を殺めてしまう。「無言」の罰を己に科す。時代は飢餓。食べ物として腐った林檎しかない。辛うじて絵を描き続ける。イコン。大団円は、若き鐘の鋳物職人との出会い。そこで、終了となる。
 二人とも僧である。修道者。時代も同じ頃。苦悩があって、安らぎがあって、そして、嵐がある。疾風怒涛だ。誘惑があって、凪ぎがあって、欲望が荒れ狂う。だが、すぐ神に立ち戻る。過誤を自覚して、悔いて、己を罰し続ける。そこから成長がある。苦悩も罪も、彼らを鉄のように精錬していく。そして、辿りついた境地。イコンの最高峰。平安。
 話としては時代と比して余りにも陳腐だし、古臭い。僧侶なんて浮世離れしている。荒野で修行っていっても、「少年は荒野を目指す」って、”はしだのりひこ”さんのフォークソング以来、トンと聞かない。時代の要請ではないのである。
 だから、古いロマンとして、「ベルバラ」にしてしまおう。少女漫画。発覚した後、心を癒すため、子供を連れてコンビニで過酷に働く。そして、誘惑。振り出しに戻って叩き上げて、円滑なコンビニ経営に。「水を一杯人に飲ませた方が、有難く思わせようと努力するよりましである。」彼の辿り着いた境地が、…って来て、待てよ、何かの皮肉めいていることが発覚してしまう。
 駄目だ。舞台を、癒すため、一発奮起して、子供を連れて野球選手を目指す。好不調。修羅場を潜り、彼のバッティングは段々老獪になって行く。子連れルーキー。だが、その後が続かない。「水を一杯人に飲ませた方が、有難く思わせようと努力するよりましである。」彼の辿り着いた「悟り」の境地が劇画にそぐわない静けさだ。謙虚な野球。ボヤかないで、それは出来そうもない。バットマンは蝙蝠の様でなくっちゃあ。
 ペンを放り出し、やはり、「豊穣の海」4部作の1作目を読み継ぐことにした。かように創作は難しい。
(一部行き過ぎた見苦しい表現が有ることをお詫び申し上げます。)