St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

ニュートンとアインシュタインの信仰について調べました

2010-06-18 03:53:06 | Weblog
 歴史上最も偉大な2人の科学者、ニュートンとアインシュタインについてである。
彼らの科学でなく、その信仰。
ニュートンは3つの業績を残した・・・「力学」「光学」「化学」。「最初の物理学者にして
最後の錬金術師である」は周知。しかし、もっと大きく括る。物理学・錬金術・神学。
彼は神学者でもあり、青年時代と晩年、力学の成果を挟んで著作を幾つか残している。
尤も、プロテスタントではあるが。
先ず、科学上の2著作「プリンキピア」「光学」の結論なる神への記述を引く。各々、
-起こる現象にもとづいて神について考察することは、もちろん自然哲学の対象に属す
ることである。
-これらの原理によれば、おそらくすべての物質的な事物は、最初の創造において思慮
ある能動者の計画により硬い素粒子から種々に結合されて構成されたものであると思わ
れる。
また、「プリンキピア」の紹介文に、
-わが宇宙系に関するこの書を記すに当って、思索する人たちに神の存在の信仰を吹き
込むような諸原理を与えることを目的としたのですが、この点でそれが有用であったのを
知るほどに私を悦ばせるものはほかにありませんでした。
こう信仰を宣べることを実践していた。
で、神学はどうだったか?アリウス派であった。異端である。
「聖書原文の2つの重大な誤りについて」「預言者ダニエルの書」「聖ヨハネの黙示録につ
いての考察」「歴史学摘要」がその著。
-彼は疑いもなく敬虔な人間だった。しかしその敬虔さは冷厳な哲学の筆によってぬぐい
がたく色づけられていた。彼の宗教的見地からアリウス主義を洗い落とすことは不可能で
ある。
-存在するあらゆるものに君臨するパントクラトールは、自然世界の形と人間のなりゆきを
定めたのであった。ニュートンは峻厳なる普遍的かつ不滅の法則の支配のうちにパントクラ
トールを見たのである。
は、ウェストフォールのの「アイザック・ニュートン」から。
最後に彼自身を引く。信条の意味するところの説明の冒頭。
-われわれは、彼が全能の父、すなわちその全能なる意思の力によってあらゆる事物を造
られた最初の創造主である、と信じなければならない。それはわれわれが、われわれの存在
とこの世における生のあらゆる恵みに対して、彼に、そして彼だけに感謝し崇拝を捧げるため
である・・・
全文が文献にある。当って欲しい。
アインシュタイン。彼が基礎付けに関った3つの業績、相対論・統計力学・量子論を神学から
議論はしない。こちらも、文献に当って欲しい。
-鉛筆やペンによる赤や黒の下書や書き込みが多数ある聖書2冊、ルナンの「イエス伝」、ト
ルストイの「福音書物語」などが1911年から13年頃にかけて集中的に読まれていた・・・
-学問的研究と並行して、アインシュタインは神との対話を続けていたのである。
は、「未知への旅立ち」を編んだ金子務氏の言。同書からアインシュタイン自身は、
-たいていの人間を一生涯休みなく追い立てていく希望や努力などから逃げ出す第1の道と
して宗教があった。・・・
-私も、・・・深い信仰心をもつようになったが、それもすでに12歳のときに突然、終わりを向えた。
通俗科学書を読んでいくうちに、やがて聖書の話の多くが真実ではありえないと確信したためだ。
「晩年に想う」で彼の宗教観が窺える。”科学と宗教”に述べられていることから一部を要約する。
=科学とは、組織的な思索によってこの世の諸現象を1つの連合に持ちきたそうとする努力。
宗教的とは、合理的な基礎を必要としない超個人的対象や目標の意義・高貴さに些かも疑惑
を抱かないこと。
ただ、彼は全能の神を否定する。同じく要約と引用。
=人間すべてが神の御業なら何故行為・思想の責任を負わねばならないか?それは神が自身
を審判していることになるだろう。
-宗教なき科学は足萎えであり、科学なき宗教は目しい。
-人間の精神的進化が進めば進むほど、真の宗教性への路は、生や死にたいする恐怖とか盲
目的信仰に通じているのではなく、合理的知識への努力に通じていることが、ますます確実とな
るように思われます。
示す逸話がある。さる枢機卿がアインシュタインを無神論と呼び、それを懸念したユダヤ人の法律
学者が電報を打つ、
-神を信ず。ルカ、50語以内で答えられかし。
アインシュタイン、
-全ての存在のうちにあるスピノザの神を信じ、人の運命や行いを支配する神を信ぜず。
神をアインシュタインはスピノザの比喩として使う。
-神が、あなたによって発見された物理学世界に調和をもたらす機会を逃すとしたら、人は神を筋が
通らないといって非難することが出来るでしょうか?わたしはそうは思いません。神があなたにした
がって世界を作ったら、いわばヴァイル2世が現れて、非難がましく神に向って、いうでしょう。
「神さま、・・・」 しかし、神さまは理論物理学が発展するまえから世界を公平にとり扱うことの
不可能であることを知っているので、じぶんの好きなようにふるまうでしょう。
総括する。
ニュートンのキリストは主なる存在であって神ではない。アインシュタインは人間キリストを「兄弟」
と呼んでいた。
フランシスコ「小さき花」にあるキリスト。頭なのか、胴か足か?
兎も角、2人の業績を遥か遠く、20世紀・21世紀科学は絶大な進歩をして来た。2人の信仰も遥
か遠くになったのだろうか?それは矢張りフランシスコのキリストの何処であり、私達キリスト者は
時代の中、どういった態度で宣教し続ければならないのだろう?


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