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それでは劉邦の一生を追っていきましょう。
彼は中国戦国時代末期、沛の近隣の町、豊の中陽里と言う場所の農家の末っ子として生まれました。
しかし、若い頃から不真面目で、家業の農作業には従事せず、近隣の沛の街に出ては、
街の不良の若者を集めて屯し遊び回る、ゴロツキの親分に成って居ました。
その頃、秦が天下を統一して、沛の街は県庁を置かれ、沛県と成って居ました。
ゴロツキとは言え、不思議と周囲に人望が有るので、これを活用しようと、
役所では彼を近隣の、泗水の亭長(現在で言うと町の駐在さん)に任命した。
そして始皇帝が崩御し、二世皇帝が即位すると、更に法律は厳しくなり、
民衆を圧迫する様に成った。
その後、都への人足を派遣する任を受け、郷里の人足を引率するが、
厳しい労働条件を恐れた人達が、次々と逃亡してしまった。
すると、厳罰主義の法律から、自らも罪を受ける事を恐れて、以後は自らも野盗に転じた。
更にその後、劉邦と同様に、人足を辺境の国境警備の任に着かせる為に引率していた、
農民の陳勝と呉広は、大雨で河が氾濫し、道が塞がれた為に、期日までに役目を果たせない事が解り、
死刑を受ける事を悟った。
同じ死を受けるのならば、叛旗を翻そうと、同僚の農民達を先導して、叛乱を起こす事件が起こった。
(世界初の農民の叛乱。陳勝・呉広の乱)
始め数千人だった暴動も、国内に民衆の怨嗟の念が燻って居た為に、
その不満は一気に連鎖して広がり、一瞬にして、数十万の大勢力に成長して、
周辺の城塞都市を次々と占領して、都を攻めると言う所までに成った。
劉邦の地元沛でも、県令が、このまま秦の官吏として居たら、周辺の叛乱に攻め殺されると思い、
自ら叛旗を翻す事にしたが、県の役人、蕭何の勧めで、沛の人望者、劉邦を守備軍として迎える様に進言する。
しかし、県令は直前に成り、劉邦に身分を乗っ取られるのを恐れ、拒絶するが、
住民が県令を殺して、無事劉邦は沛に入場。
以後、自らを沛公と名乗る事に成る。
その後、周辺の城も幾つか支配下に納め、叛乱諸勢力の中では一角の地位は築ける様に成って居た。
この頃、叛乱本流の、陳勝と呉広は、秦の反撃に遭い、自滅してしまって居たが、
彼らに便乗して挙兵した、旧戦国諸侯の復興勢力や、陳勝の叛乱の残党勢力が、
依然として反秦を標榜して、各地に割拠していた。
この中で、反秦勢力で一番勢力を誇ったのが、旧楚勢力の項梁だった。
項梁は旧楚の王族の者を担ぎ出し、楚を復活させて、正統を示し、
叛乱勢力は、大方この楚の勢力に合流する形で一本化を目指した。
劉邦も、この楚の幕下に加わるべく、合流した。
その後、項梁は秦に敗れて命を落すが、甥の項羽がその身分を継承する事に成る。
ここで、逆転を狙い秦攻略の方策を協議するが、この時楚王が、
「関中(秦の都周辺地域)を始めに陥落した者を、関中王とする」と宣言した事で、
一気に秦滅亡作戦が決行される事と成った。
楚の主力は、項羽が率いる事に成り、秦の討伐軍に包囲されている、
北の趙を救援してから、一路都を目指す段取りだった。
一方で、陽動作戦として、捨石的な軍も編成される事に成った。
この軍を指揮するのが、劉邦だった。
項羽は、主力を持って趙を攻撃する秦の主力を壊滅させ、
一路都を目指したが、
劉邦は、兵数が少ないのを逆手に取り、
出来るだけ戦闘を避け、同調する叛乱勢力を吸収しながら、
都に急ぐ事を第一とした。
これにより、趙救援の回り道をした主力が都に到着する前に、
劉邦は関中に入ったので有る。
これにより、秦の三代目は、秦王として劉邦に降伏。
劉邦が、秦王朝を滅亡させてしまったのである。
これにより、軍中にも劉邦は、一目を置かれる存在も成り、
また、都では今まで法律で悩まされてきた住民に、
簡素な法律に切り替えて、絶大な人気を誇る事に成った。
こうして、順風万般の様では有ったが、これが、宿敵項羽を激怒させる結果と成った。
以後、項羽との壮絶な争覇戦に突入して行く事に成る。
つづく
漢の高祖-劉邦-
それでは劉邦の一生を追っていきましょう。
彼は中国戦国時代末期、沛の近隣の町、豊の中陽里と言う場所の農家の末っ子として生まれました。
しかし、若い頃から不真面目で、家業の農作業には従事せず、近隣の沛の街に出ては、
街の不良の若者を集めて屯し遊び回る、ゴロツキの親分に成って居ました。
その頃、秦が天下を統一して、沛の街は県庁を置かれ、沛県と成って居ました。
ゴロツキとは言え、不思議と周囲に人望が有るので、これを活用しようと、
役所では彼を近隣の、泗水の亭長(現在で言うと町の駐在さん)に任命した。
そして始皇帝が崩御し、二世皇帝が即位すると、更に法律は厳しくなり、
民衆を圧迫する様に成った。
その後、都への人足を派遣する任を受け、郷里の人足を引率するが、
厳しい労働条件を恐れた人達が、次々と逃亡してしまった。
すると、厳罰主義の法律から、自らも罪を受ける事を恐れて、以後は自らも野盗に転じた。
更にその後、劉邦と同様に、人足を辺境の国境警備の任に着かせる為に引率していた、
農民の陳勝と呉広は、大雨で河が氾濫し、道が塞がれた為に、期日までに役目を果たせない事が解り、
死刑を受ける事を悟った。
同じ死を受けるのならば、叛旗を翻そうと、同僚の農民達を先導して、叛乱を起こす事件が起こった。
(世界初の農民の叛乱。陳勝・呉広の乱)
始め数千人だった暴動も、国内に民衆の怨嗟の念が燻って居た為に、
その不満は一気に連鎖して広がり、一瞬にして、数十万の大勢力に成長して、
周辺の城塞都市を次々と占領して、都を攻めると言う所までに成った。
劉邦の地元沛でも、県令が、このまま秦の官吏として居たら、周辺の叛乱に攻め殺されると思い、
自ら叛旗を翻す事にしたが、県の役人、蕭何の勧めで、沛の人望者、劉邦を守備軍として迎える様に進言する。
しかし、県令は直前に成り、劉邦に身分を乗っ取られるのを恐れ、拒絶するが、
住民が県令を殺して、無事劉邦は沛に入場。
以後、自らを沛公と名乗る事に成る。
その後、周辺の城も幾つか支配下に納め、叛乱諸勢力の中では一角の地位は築ける様に成って居た。
この頃、叛乱本流の、陳勝と呉広は、秦の反撃に遭い、自滅してしまって居たが、
彼らに便乗して挙兵した、旧戦国諸侯の復興勢力や、陳勝の叛乱の残党勢力が、
依然として反秦を標榜して、各地に割拠していた。
この中で、反秦勢力で一番勢力を誇ったのが、旧楚勢力の項梁だった。
項梁は旧楚の王族の者を担ぎ出し、楚を復活させて、正統を示し、
叛乱勢力は、大方この楚の勢力に合流する形で一本化を目指した。
劉邦も、この楚の幕下に加わるべく、合流した。
その後、項梁は秦に敗れて命を落すが、甥の項羽がその身分を継承する事に成る。
ここで、逆転を狙い秦攻略の方策を協議するが、この時楚王が、
「関中(秦の都周辺地域)を始めに陥落した者を、関中王とする」と宣言した事で、
一気に秦滅亡作戦が決行される事と成った。
楚の主力は、項羽が率いる事に成り、秦の討伐軍に包囲されている、
北の趙を救援してから、一路都を目指す段取りだった。
一方で、陽動作戦として、捨石的な軍も編成される事に成った。
この軍を指揮するのが、劉邦だった。
項羽は、主力を持って趙を攻撃する秦の主力を壊滅させ、
一路都を目指したが、
劉邦は、兵数が少ないのを逆手に取り、
出来るだけ戦闘を避け、同調する叛乱勢力を吸収しながら、
都に急ぐ事を第一とした。
これにより、趙救援の回り道をした主力が都に到着する前に、
劉邦は関中に入ったので有る。
これにより、秦の三代目は、秦王として劉邦に降伏。
劉邦が、秦王朝を滅亡させてしまったのである。
これにより、軍中にも劉邦は、一目を置かれる存在も成り、
また、都では今まで法律で悩まされてきた住民に、
簡素な法律に切り替えて、絶大な人気を誇る事に成った。
こうして、順風万般の様では有ったが、これが、宿敵項羽を激怒させる結果と成った。
以後、項羽との壮絶な争覇戦に突入して行く事に成る。
つづく
漢の高祖-劉邦-