私はファザコン?
私は6人兄弟の4番目で長女である。
この頃、妙に父が恋しく切ないまでに会いたい。
父があの世に行ってもう23年が経つというのに。
私は、どうもファザコンなのかもしれない
4人目で女の子だからきっと父は可愛がってくれたはず・・・。
なのにファザコンになるのは可笑しいのだが。
5歳違いに妹が産まれ、その妹が2歳の頃大やけどを負い、九死に一生をえた。
それからの両親は妹に目が注がれて私は眼中になかったように思われた。
そんな思いをずっと抱いていたせいか、
両親に対して、愛情を感じることなく過ごしてきたように思う。
母親が寝たきりになったある日、
「貴女が私の看病をしてくれるとは思わなかった」と言ったことがある。
その時は意味が判らなかったけれど、思い返してみれば、
母も何か感ずるものがあったのだろう。
父の歩みを
父の人生を辿ってみる。
父は、早くに島原を後にして、福岡に就職している。
その工場で事故にあい、片手を切断している。
当然工場の事故だからずっと勤められたにもかかわらず父は会社を辞め、
新聞の販売所をしている。
それまでには、色々と兄弟との問題もあったと聞いた事があるが・・・・。
それは、父が25歳の頃。
青春時代に腕を無くしたことはどれほどのショックか、今なら少しわかる。
父の生き方の中で、ハンデというものを感じたことがなかった。
昔の人間っていうのはしっかり者だったのだろうか。
人生50年と考えていたら一番脂がのっていた時代かもしれない。
つまり、昭和15年頃の話なのだが・・・。
そして、17年の暮れに母と結婚している。
そんな二人が新聞の販売店を経営して忙しい日々の中、
戦争が激しくなり終戦を機に二人の子供を連れて田舎に帰郷している。
田舎には、母親と妹がいたが、妹は、仕事をしており中々家には帰ってこなかったとか。
そこで、母親と相談して、結婚をさせることになったらしい。
しかし、妹自身は「結婚する気は無い」と断っていたのに、相手の男性が気に入ってどうしてもと話が進んでしまったらしい。
仕方なく、式を挙げたもののどうしても嫌だと妹はその夜に逃げ出してしまった。
行方不明になった妹の心配も然ることながら、弁償に追われ、田畑をも手放す羽目となってしまった。
たぶん、その頃に私は産まれている。
僅かに残った田畑を守って生活をしていたが、
家族が増え、家の修理代などで借金がかさみ、更に
残った田畑を手放していった。
父が縁側に座り、近所の老人と昔話をしている姿を思い出した。
父にとって、苦悩の日々に違いない。
母は、田舎育ちの人だったので、筵づくりをしたり、近所の農家の手伝いなどをして生活を維持していたが、
ある日、お金の代わりに大豆を貰ってきた。
それをもとに豆腐を作り売りに行くようになった。
父は、片腕ながら自転車の荷台にと~ふを乗せ、村を回っていた。
それから、昭和31年の諫早台風によって生活が一変していった。
ここまで思い出して何だか父がいとおしく、父の人生を見つめてやりたいと思う。
少しずつ思い出すから・・・・。
父さん・・・。ありがとう。また・・ね。
私は6人兄弟の4番目で長女である。
この頃、妙に父が恋しく切ないまでに会いたい。
父があの世に行ってもう23年が経つというのに。
私は、どうもファザコンなのかもしれない
4人目で女の子だからきっと父は可愛がってくれたはず・・・。
なのにファザコンになるのは可笑しいのだが。
5歳違いに妹が産まれ、その妹が2歳の頃大やけどを負い、九死に一生をえた。
それからの両親は妹に目が注がれて私は眼中になかったように思われた。
そんな思いをずっと抱いていたせいか、
両親に対して、愛情を感じることなく過ごしてきたように思う。
母親が寝たきりになったある日、
「貴女が私の看病をしてくれるとは思わなかった」と言ったことがある。
その時は意味が判らなかったけれど、思い返してみれば、
母も何か感ずるものがあったのだろう。
父の歩みを
父の人生を辿ってみる。
父は、早くに島原を後にして、福岡に就職している。
その工場で事故にあい、片手を切断している。
当然工場の事故だからずっと勤められたにもかかわらず父は会社を辞め、
新聞の販売所をしている。
それまでには、色々と兄弟との問題もあったと聞いた事があるが・・・・。
それは、父が25歳の頃。
青春時代に腕を無くしたことはどれほどのショックか、今なら少しわかる。
父の生き方の中で、ハンデというものを感じたことがなかった。
昔の人間っていうのはしっかり者だったのだろうか。
人生50年と考えていたら一番脂がのっていた時代かもしれない。
つまり、昭和15年頃の話なのだが・・・。
そして、17年の暮れに母と結婚している。
そんな二人が新聞の販売店を経営して忙しい日々の中、
戦争が激しくなり終戦を機に二人の子供を連れて田舎に帰郷している。
田舎には、母親と妹がいたが、妹は、仕事をしており中々家には帰ってこなかったとか。
そこで、母親と相談して、結婚をさせることになったらしい。
しかし、妹自身は「結婚する気は無い」と断っていたのに、相手の男性が気に入ってどうしてもと話が進んでしまったらしい。
仕方なく、式を挙げたもののどうしても嫌だと妹はその夜に逃げ出してしまった。
行方不明になった妹の心配も然ることながら、弁償に追われ、田畑をも手放す羽目となってしまった。
たぶん、その頃に私は産まれている。
僅かに残った田畑を守って生活をしていたが、
家族が増え、家の修理代などで借金がかさみ、更に
残った田畑を手放していった。
父が縁側に座り、近所の老人と昔話をしている姿を思い出した。
父にとって、苦悩の日々に違いない。
母は、田舎育ちの人だったので、筵づくりをしたり、近所の農家の手伝いなどをして生活を維持していたが、
ある日、お金の代わりに大豆を貰ってきた。
それをもとに豆腐を作り売りに行くようになった。
父は、片腕ながら自転車の荷台にと~ふを乗せ、村を回っていた。
それから、昭和31年の諫早台風によって生活が一変していった。
ここまで思い出して何だか父がいとおしく、父の人生を見つめてやりたいと思う。
少しずつ思い出すから・・・・。
父さん・・・。ありがとう。また・・ね。