父の育った環境
父が育った集落は50軒ぐらいの家があり、その一番上手に父の家があった。
その集落は「温泉屋敷」と呼ばれ、家の周囲は「しんきり」と呼ばれていた。
どんな字を書くのかは知らない。
家から300メートル行った所に湧き水があり、その水が有明海に流れていた。
その長さは2キロぐらいだろう。
家の前からほんの30メートルにも満たない場所を川は流れていた。
その川は、集落の人たちの憩いの場でもあり、おしゃべりの場所でもあった。
父は、兄2人、姉2人、そして、弟と妹と7人兄弟
父が11歳の時に祖父は亡くなり、祖母は一人で踏ん張ったらしい。
村では、手八丁・口八丁のおばさんで名を馳せていたようだ。
そんな環境の中、兄たちも家を出たので、父も早く出たのかもしれない。
終戦になって、家を守る人がない事もあり帰郷したようだ。
帰郷して、大変な生活を余儀なくされたけれど、
子供たちを皆、家から出してしまった両親は、病気や怪我に見舞われ、
島原の家はそのままに長男の家に同居を始めた。
子供たちがそれぞれ忙しい生活だった為、必要な家へ行っては共に暮らしていた。
両親との同居
昭和64年、夫の事業の失敗で家を失くしてしまった私は、
幼い子供3人を連れて途方にくれていた時、兄の店を手伝うことで水巻の地に身を寄せた。
その頃の両親は、妹夫婦と共に生活をしていたが、
私の窮状を察して、同居と相成った。
1階に両親、2階に私たちが住み、夕食は共にするという生活が半年を過ぎた頃、
何時ものように楽しく食事をして、父が階下へ降りようとして足を滑らせてしまった。
救急車を呼び、病院へ搬送する時、父は「大丈夫、心配要らないから」と言ってくれました。
でも、そのまま段々と意識をなくし、一週間後に天に召されてしまいました。
妹は、「貴女が父を殺したんだ」と怒りをぶつけてきました。
妹にとって父の存在は計り知れないものだったのでしょう。
一周忌が過ぎても、3回忌が過ぎても・。17回忌を済ませて23年経っても・・・。
心のどこかに、あの時、きちんと見送っていたらと悔やまれる。
父の人生を途中下車させたのは私なのかと。
しかし、父の亡き後、母は21年間未亡人として過ごしたけれど、
10年近くは寝たきり状態であったから、もし、父が何事もなく過ごせたとしても
悲しい思いの方が大きかったのではなかろうかと自分を慰め、父への償いをも含めて孝行しようと頑張った。
父は事故であったけれどあの時、あの世への切符を手に入れて幸せだったと思えるようになった。
それも、還暦を迎え、これからの生きる術を模索する中で感じる事である。
父の背中をみて育った私たち兄弟は、何の取りえもないけれで、
真面目さだけは他の人に引けを取らないと思っている。
その証拠に、長男は、魚屋を50年も続け、仲間の世話や魚食の宣伝に寄与したと藍綬褒章を受け
たし、次兄も職場からの褒章を戴いている。
ここ数日、父と向き合い、自分の心の奥底に潜むものに光を当てて、じっと見つめてみた。
父は、笑っていた。そして、「大丈夫、心配要らないよ」と言ってくれました。
父さん、ごめんなさい。やっと言えました。
大変な人生だったのに、愚痴る事もなく、誰からも理解されず・・・。
今、父の痛みが判ります。ありがとう。
父が育った集落は50軒ぐらいの家があり、その一番上手に父の家があった。
その集落は「温泉屋敷」と呼ばれ、家の周囲は「しんきり」と呼ばれていた。
どんな字を書くのかは知らない。
家から300メートル行った所に湧き水があり、その水が有明海に流れていた。
その長さは2キロぐらいだろう。
家の前からほんの30メートルにも満たない場所を川は流れていた。
その川は、集落の人たちの憩いの場でもあり、おしゃべりの場所でもあった。
父は、兄2人、姉2人、そして、弟と妹と7人兄弟
父が11歳の時に祖父は亡くなり、祖母は一人で踏ん張ったらしい。
村では、手八丁・口八丁のおばさんで名を馳せていたようだ。
そんな環境の中、兄たちも家を出たので、父も早く出たのかもしれない。
終戦になって、家を守る人がない事もあり帰郷したようだ。
帰郷して、大変な生活を余儀なくされたけれど、
子供たちを皆、家から出してしまった両親は、病気や怪我に見舞われ、
島原の家はそのままに長男の家に同居を始めた。
子供たちがそれぞれ忙しい生活だった為、必要な家へ行っては共に暮らしていた。
両親との同居
昭和64年、夫の事業の失敗で家を失くしてしまった私は、
幼い子供3人を連れて途方にくれていた時、兄の店を手伝うことで水巻の地に身を寄せた。
その頃の両親は、妹夫婦と共に生活をしていたが、
私の窮状を察して、同居と相成った。
1階に両親、2階に私たちが住み、夕食は共にするという生活が半年を過ぎた頃、
何時ものように楽しく食事をして、父が階下へ降りようとして足を滑らせてしまった。
救急車を呼び、病院へ搬送する時、父は「大丈夫、心配要らないから」と言ってくれました。
でも、そのまま段々と意識をなくし、一週間後に天に召されてしまいました。
妹は、「貴女が父を殺したんだ」と怒りをぶつけてきました。
妹にとって父の存在は計り知れないものだったのでしょう。
一周忌が過ぎても、3回忌が過ぎても・。17回忌を済ませて23年経っても・・・。
心のどこかに、あの時、きちんと見送っていたらと悔やまれる。
父の人生を途中下車させたのは私なのかと。
しかし、父の亡き後、母は21年間未亡人として過ごしたけれど、
10年近くは寝たきり状態であったから、もし、父が何事もなく過ごせたとしても
悲しい思いの方が大きかったのではなかろうかと自分を慰め、父への償いをも含めて孝行しようと頑張った。
父は事故であったけれどあの時、あの世への切符を手に入れて幸せだったと思えるようになった。
それも、還暦を迎え、これからの生きる術を模索する中で感じる事である。
父の背中をみて育った私たち兄弟は、何の取りえもないけれで、
真面目さだけは他の人に引けを取らないと思っている。
その証拠に、長男は、魚屋を50年も続け、仲間の世話や魚食の宣伝に寄与したと藍綬褒章を受け
たし、次兄も職場からの褒章を戴いている。
ここ数日、父と向き合い、自分の心の奥底に潜むものに光を当てて、じっと見つめてみた。
父は、笑っていた。そして、「大丈夫、心配要らないよ」と言ってくれました。
父さん、ごめんなさい。やっと言えました。
大変な人生だったのに、愚痴る事もなく、誰からも理解されず・・・。
今、父の痛みが判ります。ありがとう。