平賀源内 江戸の夢 稲垣武著 新潮社
先週狂言、落語&朗読劇に出かけましたが、私は出かけるときに必ず本を1冊持っていきます。
電車の中や待ち時間本を読むのにちょうどいいからです。
蔵之介さんの「非常の人何ぞ非常に」を観に行くので平賀源内さんと杉田玄白さんって実際はどんな感じだったのかと図書館で検索して選びました。
平賀源内とはエレキテルを発明したり、浄瑠璃の台本を書いたり、土用の丑などのコピーライター的なことをしていたのは有名ですが、この本の源内さんは鉱山を発掘したり、建築請負、政治のコンサルタントとあまり表にでないところを細かく書いています。
まえがきから日本で一番最初に西洋画で油絵を描いたのが平賀源内だというのを知ってびっくりしました。
それも神戸の洋館に飾られていたそうで今でも観れるのでしょうか。
平賀源内は今の香川県志度浦というところで生まれ、家は高松藩に使える武士で祖先は武田信玄のライバルであった家柄で紆余曲折あって今は高松藩の下級武士に至っていると書いてありました。
2人の兄が亡くなって家督を継ぎ栗林公園内の薬草園で働いていたところを藩主に目をかけられ本草学にすぐれていることから長崎に留学しその時の西洋の文化にふれた衝撃から江戸へ行きたいと思うようになります。
江戸で活躍できるようになったのは田沼意次との出会いと江戸が自由で消費社会であったということでしょうか。
8代将軍のときは節約で贅沢は禁止だったのが規制がゆるやかになり木綿のものしか着れなかった庶民も絹の着物をきて着飾れるようになり芝居、文学と盛んになりました。
このとき源内は芝居の台本や洒落本を書いたりと売れっ子作家であったり田沼意次のブレーンであったりと華やかな時期でした。
順調にきていたのに燃えない布を作りますと言って失敗、ここから人生は狂っていきます。
この失敗で大きな借金を背負った源内は鉱山開発で成功しようとしますが、これも失敗。
ここであまり出てこないのですが友人の杉田玄白と源内の違いについて書かれています。
源内は天才肌でなにをやってもそつなくできるのですが、飽きっぽいのか集中力がないのかコツコツと出来ないタイプで、杉田玄白という人は東北出身のせいか粘り強く何年もかかって解体新書を翻訳しました。
源内が藩を抜けて浪人であったのに対して杉田玄白は小浜藩の藩医であったので収入があったため山師のような仕事をしないで学問に専念できたのです。
最後は建築請負の仕事をしていてその見積もりの書類のことで相手ともめて怪我をさせました。
運悪く相手が亡くなったので牢屋に入れられ、切腹しようとして負った傷が破傷風になり享年53歳で亡くなりました。
牢内で死んだ者は無縁墓地に埋葬されるのを友人たちに引き取られ、今の台東区にある総泉寺に葬られました。
ずっと友人であった杉田玄白は自費で墓碑をたてて碑銘を書きました。
その最後にああ非常の人、非常の事を好み、非常是行う。何ぞ非常の死なる。源内の一生を書かれているそうです。
これが今回の舞台の題名であったなんて舞台も杉田玄白からみた源内さんなのだろうか、どんな非常だったのかと。
平賀源内がもっと後で生まれていれば、開国したあとだったならもっと違っていたのかなと思います。
エレキテルも実用にはならなかったようで見世物的なものだったので、もっと遅く生まれていたら日本にとどまらず世界に飛び出して行ったかもしれません。
先週狂言、落語&朗読劇に出かけましたが、私は出かけるときに必ず本を1冊持っていきます。
電車の中や待ち時間本を読むのにちょうどいいからです。
蔵之介さんの「非常の人何ぞ非常に」を観に行くので平賀源内さんと杉田玄白さんって実際はどんな感じだったのかと図書館で検索して選びました。
平賀源内とはエレキテルを発明したり、浄瑠璃の台本を書いたり、土用の丑などのコピーライター的なことをしていたのは有名ですが、この本の源内さんは鉱山を発掘したり、建築請負、政治のコンサルタントとあまり表にでないところを細かく書いています。
まえがきから日本で一番最初に西洋画で油絵を描いたのが平賀源内だというのを知ってびっくりしました。
それも神戸の洋館に飾られていたそうで今でも観れるのでしょうか。
平賀源内は今の香川県志度浦というところで生まれ、家は高松藩に使える武士で祖先は武田信玄のライバルであった家柄で紆余曲折あって今は高松藩の下級武士に至っていると書いてありました。
2人の兄が亡くなって家督を継ぎ栗林公園内の薬草園で働いていたところを藩主に目をかけられ本草学にすぐれていることから長崎に留学しその時の西洋の文化にふれた衝撃から江戸へ行きたいと思うようになります。
江戸で活躍できるようになったのは田沼意次との出会いと江戸が自由で消費社会であったということでしょうか。
8代将軍のときは節約で贅沢は禁止だったのが規制がゆるやかになり木綿のものしか着れなかった庶民も絹の着物をきて着飾れるようになり芝居、文学と盛んになりました。
このとき源内は芝居の台本や洒落本を書いたりと売れっ子作家であったり田沼意次のブレーンであったりと華やかな時期でした。
順調にきていたのに燃えない布を作りますと言って失敗、ここから人生は狂っていきます。
この失敗で大きな借金を背負った源内は鉱山開発で成功しようとしますが、これも失敗。
ここであまり出てこないのですが友人の杉田玄白と源内の違いについて書かれています。
源内は天才肌でなにをやってもそつなくできるのですが、飽きっぽいのか集中力がないのかコツコツと出来ないタイプで、杉田玄白という人は東北出身のせいか粘り強く何年もかかって解体新書を翻訳しました。
源内が藩を抜けて浪人であったのに対して杉田玄白は小浜藩の藩医であったので収入があったため山師のような仕事をしないで学問に専念できたのです。
最後は建築請負の仕事をしていてその見積もりの書類のことで相手ともめて怪我をさせました。
運悪く相手が亡くなったので牢屋に入れられ、切腹しようとして負った傷が破傷風になり享年53歳で亡くなりました。
牢内で死んだ者は無縁墓地に埋葬されるのを友人たちに引き取られ、今の台東区にある総泉寺に葬られました。
ずっと友人であった杉田玄白は自費で墓碑をたてて碑銘を書きました。
その最後にああ非常の人、非常の事を好み、非常是行う。何ぞ非常の死なる。源内の一生を書かれているそうです。
これが今回の舞台の題名であったなんて舞台も杉田玄白からみた源内さんなのだろうか、どんな非常だったのかと。
平賀源内がもっと後で生まれていれば、開国したあとだったならもっと違っていたのかなと思います。
エレキテルも実用にはならなかったようで見世物的なものだったので、もっと遅く生まれていたら日本にとどまらず世界に飛び出して行ったかもしれません。