もし、外国人労働者達との関わりの中で、そのふるまいによって強い精神的苦痛が繰り返されたり
自分が仕事を辞めることになったりしたならば、かれらの権利を守る前に自分の権利を守って欲しいと思うだろう。
外国人労働者同士が結託して、自分達より弱い立場にいる日本人労働者を軽侮して貧乏くじを押しつけるといった現象も
起こっている。外国人労働者に限らずあらゆる弱い立場に置かれた人達が、知性的に闘うという選択をしない場合、
(そしてそちらが圧倒的に多い)生き方の種類はおのずと決まってくる。誰かほかの弱者を虐げてずる賢く生きていく
というものである。ブリヂストンの材料試験室でもまさにその現象が凝縮されて見られた。
外国人労働者や在日韓国人その他に対して、自分の経験に基づく負の感情、感想あるいは症状をもっているならば、
その権利を守るという思想はもちにくいだろう。自分をいじめた人達の権利を守り向上させる精神(関連:ヴォルテール精神
:「あなたのその考えには全く反対だ。でもあなたの言論の自由を守るためなら よろこんで命をささげるという
心構えをヴォルテール精神という。」安倍晋三氏や竹中平蔵氏あるいは会社のパワハラ加害者の言論の自由を
守るためなら、よろこんで命をささげられるか)は、通常の人間はもちえない、自然に反した欲求である。
それでも排外主義にNoと言えるその心はなにか、あるいは思考の分別・整理法を、啓蒙すべきである。
被害によって感情や症状を呈している場合、そういった知性をもつのは容易ではないことだ。
生活現場での実態を経験的に知らないで、観念で高尚なことを言っている人達ではなく
実態を知っていて自身もそういう経験を重々したにも関わらず、その知性をもっている人が、その心を啓蒙するべきである。
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