私たちは、悪質な人達の行為の被害に遭いそれに対抗するために、法律やら制度やら規定をくまなく調べたりしっかり把握しようとしたりします。
日本は制度や法律で動いているからです。現場では「そんなの関係ねー」の無法地帯が多いですが。
労働法などは、人々の犠牲と引き換えにできたもので、その恩恵を敬い大切に守らないといけないものだと考えています。
「法律以前に、雇ってもらってるんだから」などと平気で言って労働者に説教する障がい者就労「支援」員には唖然としました。
こんなことを言う人が、障がい者になんの「支援」をするのだろう。非常に有害な「支援」員だと思います。
私がブリヂストンで遭ったようなパワハラ、セクハラ、嫌がらせ、悪質な雇い止めといった被害に遭って
泣く人々を出さない社会をつくるために身を挺して裁判などで闘われています。
弁護士さんたちは、社会をよくするために法律を武器に闘います。私はそんな人達を尊敬し感謝します。
かつ、土俵に乗り過ぎてもいけないとも思っていました。これは罠のようなものです。
与えられた土俵の上でいくら微細な分析家、専門家になったって、それはある種「思うつぼのしめしめ」なことのようにも思えて。
私は子どもの頃、インテリジェントな言葉を駆使して議論を闘わせる大人達を見て思っていました。
大人達は子どもに見えていることが見えなくなっていてそのまま軌道が進むって。
katteni hosousareta douro wo toora sareru
一方的な軌道に乗ってしまうことに、自覚的であろうとする必要があります。
それ自体に、大きな間違いが潜んでいる可能性。
制度がすでに構造的暴力の中に組み込まれていたり、肝心な考え方が抜け落ちていたりと、ひどくバイアスのかかったものだったりするのに
その中で顕微鏡を使った分析家になったって、そもそものバイアスを強化するような気がして。
tunagaretamama taikou suru sokokara wa detewa dame
大人の繰り広げる幅の狭い議論を子どもが見る時の距離感を忘れないために、ここでの当たり前と全然違う当たり前をもつ世界に触れるようにしたいです。