私に勇気をくれたり、精神の糧となって支えてくれている人達に伝えたい。
賃労働で時間に対していくらお金を稼ぐかや、事業者として自分でどれだけ多く稼ぐかで人間を測る考え方が、この「民度が違う」日本では幅を利かせていて、その極めて限定的な物差しで「勝ち組」「負け組」などと人を判断することが、平気でなされている。本当に民度が違いますネ…
でも、誰かが、例えば家に引きこもって翻訳している海外の書物やドキュメンタリー映画(関連:目覚めゆく広場――15M運動の一年)や自身が発信している内容や、お金をとらずに無料で伝えている知識、教養、メッセージや、民事訴訟や行政訴訟などで闘っている内容…etcは、私にとって大変有意義で有益で素晴らしいものである。社会にとっても大きな貢献である。あるいは、ある引きこもりの人がそのような社会的な活動などしていなくても、話した時に、なにかに気づかせてくれたり、静かに揺さぶったり、置き去りにしていた物を想い出しそうにしてくれたり、普段感じない気持ちにさせてくれたりする。
かたや、賃労働や事業で多くのお金を稼いでいても、社会をより醜悪で絶望的で無気力で腐敗したものにすることに深く加担している人達は大勢いる。
だから、小さな物差し1つしか持たない人から、なにか言われても、あなたの自尊心を動揺させる必要はない。
けれどこのことは、とても難しいことだと思う。人は、どんなに教養のない人からの言葉にも深く傷ついてしまうしShame屈辱を感じてしまう。嘲笑されるべきはその人達の方であっても。だからこうやって反論したい。
人間の価値は、そんな所で決まらない。もし「勝ち組」の人が高額を納税していたとしても、その人によって伝播・強化されている社会的害悪の方が上回っているかも知れない。私は、ある「勝ち組」の女性が、聴衆の前で自分が高額納税者であることを誇らしく語り「社会の役に立っている」と自負するのを見て、彼女が伝播・強化している社会的害悪の大きさと納税による社会への貢献を天秤にかけたなら、害悪の方が大きいのではないかと思った。
彼女が駆逐して社会に出て来れなくして納税もできなくしている人達がもっている潜在的社会的有益性を思うと、その代償は彼女の納税額では足りないだろう。その潜在的社会的有益性とは、納税のことではくて、彼女みたいな人がこの世でのさばっていなかったら発揮できているはずの、かれらのよさ、社会への貢献のことである。
誠実な人達が蹂躙されて、蹂躙する側の不誠実な人達が浮かばれて、被害者が更なる被害を受け続けて加害者が報酬を得る腐敗の進んだこの社会で、「負け組」やうつ病や精神の疾患や障害を抱えて暮らしている人達には、大好きになる人や影響を与えられている人がたくさんいる。「勝ち組」で、尊敬できるところや好きになるところが見当たらない人もたくさんいる。
勝ち組か負け組かは、自分が死ぬ時に「いい人生だった。我が人生に乾杯」と回想できるかどうかだ、勝負は死ぬ時に決まる と親からよく言われた。輝いたか輝いてないかというのも、その時に自分で感じること。
いつもありがとう。あなたがしていることが、私達に影響を与えている。