自己決定権という罠 の続き。
自己決定は、不自然な感じがします。
私は子どもの頃から、「自分で決めなさい」と親や大人に言われた時に、困っていました。
そもそも私の置かれているこの場所や囲まれている物は、私が好きで選んだものではないのに
途中から自分で決めろと言われても…みたいな感じです。
自分で決めろと求めるその態度は、私の為に、尊重しているものだけど。
自分が置かれている場所、囲まれている物…例えばコンクリートの道路や橋や電柱や、広告の看板、白い蛍光灯の光が
好きじゃなくて、いいと思う世界は絵本や映画や絵画に出てくる風景です。でも否応なしにこの四角くて直線的で硬い
不自然な世界に置かれていて、それで「自分で決めなさい」と言われても、困っていました。
こんな感じです。ピアノが好きなのに、電子ピアノの中から「自分で決めなさい」と言われるような
油絵が好きなのに、どの墨と硯にするか「自分で決めなさい」と言われるような
Tiki Houseが好きなのに、どの鬼瓦、どの襖、どの障子にするか「自分で決めなさい」と言われるような
ろうそくが好きなのに、どの蛍光灯にするか「自分で決めなさい」と言われるような
自分で決める となると、まず根本的に私はこういう世界にはいたくなくて
ラオスとか南の島とかがいいです。
でも、それは途方もない計画のようで、とりあえず今の文脈の中で決めてきたし、今でもです。
生活の中の、色んな場面での選択の中で、「これがいい^^」と思っても、同時に疑問もどこかで生じています。
望んでいない制限の中で、最良の選択をすることを繰り返して、それに慣れて術を身につけて行くことへの疑問や危機感です。
katteni hosousareta douro wo toora sareru
You can't find the right roads when the streets are parved. /Bob Marley (道路が舗装されているなら、正しい道はみつからない)
子どもの頃、どれがいい?と迫られて どれもいやと思ったりしていました。
前提の枠が間違っていたら、これがいい とはならないでしょう。
でも、間違った枠の中でこれがいいと選ぶことを繰り返して馴らされているのがこの世界の実情です。
その枠内で最も賢く選ぶことやその中で勝つこと、評価を受けることに最適化してきた人が書いたベストセラー本には読むに堪えない物があります。
自己決定権とは罠である場合が多いでしょう。
秘かに強いられている前提に触れることなく、自己責任に帰せられるでしょう。
「あなた言いましたよね こうするって」「あなたが選択したんですよね」
「あなたが決めたんですよね」「自分で決める権利を行使したんですよ」
それに私はピアノが大好きなのですが、「自己決定」みたいなスタンスで弾くとろくな演奏はできないし
それは何かを創作する時も同じで、自分でコントロールし、選択して作り上げるというものではないと思います。
目に見えないけどあるものを降ろしてくるのが音楽や芸術だと本に書いてあって、とても共感します。
そして、その時の鳥のさえずりとか光が差したとか空気や湿度や色々なもので、演奏は流動的に偶然に作られていきます。
ただ、小松美彦さんも注釈されたように、自分での選択、自己決定を許されなかった立場の人達が、自己決定を掲げるのは
当然であることをここでも書いておきます。
とりとめない文章になってすみません。