日本では昔から、弱い者同士のせめぎ合い、いがみ合いが起きています。
最下層と下から2番目の下層をいがみ合わせて、元凶の搾取者が上品に高みの見物をしているというのは、
今も昔も同じです。人々を搾取している諸悪の根源的立場にいる人が、そのせいでいがみ合っている下層の人達に
品位をもてと人間性を諭すような、倒錯した行為がなされます。本当の敵を見失うなとは、古くからの賢明な忠告です。
では、受け入れられた移民(外国人労働者)とせめぎ合って、嫌がっている在来弱者としての労働者に対して
「弱い者がさらに弱い者を叩くのは 世の常だ」という言葉を向けるのは妥当でしょうか? 外国人労働者が
日本における最弱のポジションにいる人達を迫害する、さらに窮状に追いやるという現象が少なからず起きています。
(制度自体がそうなのですが、現場で起こっている人間関係です。)出稼ぎにきた人達は必死で、ともすれば日本にいる
日本人以上にしたたか、怜悧狡猾である場合があり、結託し 外国人労働者 どんな意見も議論に乗せる 外国人労働者②
弱い者(移民)がさらに弱い者(日本人の最弱者。狡賢くないやさしい人)を踏み荒らして虐げ、これに対して拒絶反応を
かれらが示すに至っているのをうけて「弱い者がさらに弱い者を叩く」というのは、主語が入れ替わっていて、一見正しくも
あり、メヴィウスの輪のように行き場のないものです。またそういう言葉を苦しみあえいでいる最弱者に向けるのは、
鞭打たれている人へのさらなる鞭に見えます。受け入れてはならない所に受け入れるのが誤りであり無能であるのに、
それによって更なる窮状に追いやられている人に高尚な知性をもてというのは、無茶な要求であり、弱者を更に苦しめる
ものです。受け入れることが誤りなのに、そのことで現場でもろに影響を被っている人達に説法してはいけないと思います。
DV家庭に養子を迎え入れてはいけないのと同じです。そういえば今の日本はDV家庭そのものに思えます。
そんなところに、別の弱者を受け入れてはいけないのです。弱い者がさらに弱い者を叩くのは現象の科学であるものの
自己内省示唆的な言葉として構造の被害者に向けるべきものではありません。
底上げをするためには、底を広げてはいけないのです。底を動かしてはいけない。収拾がつかなくなってしまいます。
グローバリズムは底なし沼です。底のタガがなくなって、Out of Controllになって行っています。