中立な芸術家などいない の続き。
芸術は思想と分離できないもので、思想を含んでいない芸術などないと思います。
もし「特定の思想はまったくありません」とか「いかなる特定の政治的活動にも一切関与しません」「音楽に政治を持ち込むな」などと言えるならば、その人は芸術家ではないと思います。アーティストと言うのもおこがましい。ボーカリストや楽器演奏者、歌詞作成者、楽曲作成者と呼んだり名乗ったりしていただければと思います。そして私はそんなものを鑑賞したくはないです。
もっと言うと、社会思想を含まない、政治的に中立な佇まいなど、あるのか疑問です。
私達の色んな言動は、自覚しないにせよ政治的なものではないでしょうか。
建築家のおじちゃんも、理念、思想と分離して建築はできないと言っていました。例えば学校を建てるにしても、そこで子どもや先生や職員たちがそのような過ごし方をするか、どんな風に子どもを育むかという思想なしには建てようがないと言っています。建材はなにを使うか、空調は地熱を使うかエアコンに頼るか、教室をどんな風にするか、休み時間には子供たちや先生がどんな風に過ごすか、昼食はどんな風に食べるか、図書室はどんな風にするか、そこで椅子とテーブルはどのように配置するか、保健室は、音楽室は、美術室は、視聴覚室は、実験室は… これらは、特定の考えに基づいて形にされていきます。思想バイアスのかかっていない建築などないのに、校長は、「箱を作ってくれればいい」と言うって。
生徒の席が整然と四角形に並び、教壇に1人の先生という構図からして、すでに思想によって成り立っています。
私は裁判所の構図はおかしいとずっと思っています。裁判長を中心に裁判官が壁際のどんつきの高い所に鎮座して、争いの渦中の人達を見下ろして判決を下すという構図です。あなたたちは、そんなに偉い人なのですかと思うんです。神様みたいに高い所から人々を裁く資格があるのかって。裁判官自身も差別や偏見の持ち主、時にはその塊であることを、著名な弁護士が語っていました。知ってました。
1年生2年生と、同年代ごとにクラス分けして一斉に同じ教育課程を進むのも特定の考えだし、校区で子ども達を分けて小学校6年間、そして中学校3年間(多くの場合、小学校のメンバーと重複した上に新たに広がる)と同じ人達と過ごすというのも特定の考えであり、後者についてはいじめ問題の観点からも指摘されているシステムの弊害で、私もそれに共感しました。子どもの生育過程の大切な時期に、いじめ被害が長期間続くことがよくあります。
また建築は、自然への対峙のしかた、建材選び、環境問題、エネルギー、健康、家事のしかた、家族のあり方、男女役割、時には家族における序列、子どもをどうみなすか、個の空間、性、子育て、地域共同体、神道、ご先祖様、仏様への考え、優先順位などが反映されたもので、その中で生活する人達の考え方を左右し強化するものです。そのような前提をもっていない人に対しても、自明化、既成事実化してインプラントしていきます。
私は建築において、そのことをよく感じます。どのような箱の中で過ごすかで、その人の行動や考えが影響されます。なにを優先させるか、なにを軽視ないし無視するかをそれ自体が体現しています。
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私達は自覚しなくても、そのふるまいや考えや言動は政治的なものの反映であり
それから自由なものなどあるのでしょうか。自分の子どもを見ていても、よく思います。
(一例:子は世相を映す鏡 学校でのジェンダーバイアス教育)
子どもは以前「特定の人だけ様をつけて、他の多くの人達には様と言わないのはおかしい。
差別だ。僕にも様と言え」との旨言っていたのですが、最近は「偉い人やけんたい」と言って
わかった風なふりをしていて、哀しくなりました。
以前子どもと西鉄天神駅前を歩いていると、桜井よし子さんの応援隊の人達が政治的な呼びかけを
していてビラを私にも渡して「奥さん、家で旦那さんに見せてください」と言ったんです。
この言葉自体も、えらく政治的なものでしょう。
そういえば、配偶者にもパートナー、つれあい、妻、奥さん、家内、細君、嫁…いろんな呼び方があり
これらは特定の思想を体現しています。また、日本では身内に対しては対外的に呼び捨てをして
へりくだるのが常識ですが、医療等の世界では、対外的にも医師を上げて話し相手を下げるということが
平然となされています。通常、話し相手を下げて身内を上げることは失礼に当たります。
「申せ」とは殿様が言うことです。
「特定の思想はまったくない」などと言うのは愚かだし、そういった定規で直線を引っ張ったような
物言いこそが、特定の思想全開だと思います。