外国人労働者と日本人底辺労働者のことをこのブログに書きながら、思っていたことがあって、
それが自分の中でとりあえず結論づきました。私が知っていることや、中野剛志先生が言われたこと 外国人労働者②
を見つめると、その考えに行き着きました。なんだか哀しい結論ですが、そういうことだとなり、
私の中でとりあえず腑に落ちています。また今度、投稿します。(※私は中野先生のお話に共感することが
時々ありますが、彼のすべての考えに共感するものではなく、すごくイヤだと思うものもあります。)
理想や理念は持っていたい それがない人間に魅力はないと思います。でもそれらを安全地帯の中で純粋培養している人達の
話を聞いていると、かえって私は救われなかったんです。その理想理念は、互いに矛盾しているものを放ったらかしに
したまま、語られて、それは私をかえって戸惑わせ、寄る辺ない気持ちにさせていました。私が生活の中で知っていることと
噛み合っていないことを、私を勇気づけるという姿勢で、高次の精神性で話されて、戸惑いがありました。
その理想を否定したいのではなくて、私もその思想は素晴らしいように感じるのですが、現実は違っていて
その理想にぶれなく行動するには、途方もないスケールの変化、大転換を果たさないといけません。
例えば世界の民を国で線引きする分け方(国民国家:nation state) をやめたり、そういう話になるでしょう。
東大卒で経済官僚で京大准教授でまた経済官僚に戻った中野先生は、私たちのような底辺層の最弱者の世界に
身を置いたことなどない、超エリートです。でも彼の話す内容は実に、下層の立場にいる私の知っていること
考えていたことと噛み合っていたんです。それで、感動してしまいました。
(※だからといって彼の考えに全面的に傾倒したりはしないのですが。)
普通、ああいう高い位置にいる人って下層の実態を知らないしわかろうともせずに、色んなものを生身ではなく
記号として見て、その記号の向こうにあるものに思いを馳せようとしないで、記号を口先で滑走させていって
ゲーム板の駒のように軽々しく無責任に動かして制度を作って、現場の人達がその向こうにあるもの(生身のもの)
を引き受けさせられて苦しめられるというのが世の常なのですが、彼は違っていました。
例えば外国人労働者問題で言うと、制度を作る人達は外国人を労働力として捉えているが、実際に来るのは人間なんです。
喜怒哀楽、生活習慣、文化、性格、家族、宗教 etcをもち、血が通っていて心臓が動いている、弱い人間です。
そのことを、わかってない人達が、まるでチェスをするかのように、表面的な記号を転がして
制度を上から作って実施させている。それを引っ被るのは、市民です。
また書きます。
:::::(1つしかない直接の存在より抜粋):::::::::::::::::::::::::::
こういうのを、学者の人は生身性といったりするでしょう。これに反対なのが、記号 かな。
今の日本は記号だらけで生身性が追いやられるという逆転した状況となっています。
記号でものを考えることが当たり前になると、その人はとんでもないバカになると思います。
学歴が高い人や、知的な職業に就いていても、その手の人はいくらでもいます。
その記号の向こうにあるものに思いを馳せようとしない人が、記号だけを口先で滑走させていく。
あらゆる事象が記号視され、ゲーム板の駒のように軽々しく動かされ、操作され、無責任に弄ばれる。
浅はかなプラグマティズムに占拠された劣化した思考が今の日本で横行している。
::::::(誰も責任をとらないブリヂストンより抜粋):::::::::::::::::::::::
被害に遭った私としては、その表情と言い方は本当に衝撃的でした。この人たちには記号としてしか物事を見れないのかって。
”ingredient”とか"piece"という言葉が浮かびました。ゲームのための材料としてしか、人の言葉を受け止めない態度だったから。
その記号の裏にあるものへの寸分の思慮さえないことが露呈した瞬間でした。
これが、誰も責任をとらないブリヂストンが身勝手に放出し続けるうすら寒さなのです。渦中にある暴力行為をなした当事者が誰も責任をとらず、全権を委任されて横から入ってきた弁護士から出てくる言葉は、あらゆる出来事を都合よくpiece化するもので、被害者にとっては耐え難い苦痛の上塗りなのです。
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