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自己決定権という罠

2019-06-14 | 社会・政治のこと

自己決定について、最近関心があって、小松美彦さんの「自己決定権という罠」を借りてきました。

彼は、自己決定権を認めないという考え方です。まだ途中ですが、とても面白い内容です。

私は「自己決定」にまつわることで、母と考え方が違うのですが、小松さんが上手に書いてくださっていました。
(小松さんの考えのすべてが私と一致するわけではないです。また、私は宮台真司さんの発言にも共感しこのブログに引用していますが、彼の考えとすべて一致するわけでもないです。イヤだと思う部分もあります)

まず、自己決定権という、いかにも個人の権利や自由を尊重しているかのような言葉で、国家の問題を個人の問題に転嫁、皺寄せしようとする意図、新自由主義の普及に利用されている件については同感です。

そして、「個人に閉塞した問題はない」という考えにも、私は共感します。個人の中で生じ完全に独立したまま帰結する問題など、ないと思っています。植物が光合成をするように、個人に始まり個人に終わる出来事など、ないと思っています。

  
       1人で咲いたのではない
 成果はそれに直接関与した個人だけによるものでなくその背後の人達や

たまたま背後にあった幸運な経済的事情や先人の献身のバトンの引き継ぎによって生まれたもの 山中教授も言っていた

 

間引きをされると 大きく甘い枇杷がなる  

栄養がその子達にふんだんに行くようにしたから その他大勢に行かないようにしたから

日田の杉も、間引きして、いい木材が育つようにする

成果主義と自己責任論は同じ  それを起こした背景を無視して誰かをつまみ上げて賞賛したり 集中砲火を浴びせたり。

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母が自己決定を持ち出すと、「すごく正しく聴こえるけど すごく違和感」をおぼえます。

その様は、どこか硬直していて肩の力が入ってる

ただ、小松先生は、自分での選択、自己決定を許されなかった立場の人達が、自己決定を掲げるのは当然だとも言っていました。例えば中絶とか選挙権とかです。

 

外国の芸術家が書いた本に、非常に魅了された一節がありました。

芸術とは、頭を振り絞ってなにかをこねまわして 作り上げるのではなく 

その人を通して 見えないけどあるものを 降ろしてくる作業だと言っていました。

つまり、芸術家は 仲介者だ そんな風なことを言っていました。

 

自己決定というのは、不自然だと感じます。

ここに権がつくとさらに始末が悪く、悪用される以外になにかいいことがあるのかと思います。

「あなた言いましたよね こうするって」「あなたが選択したんですよね」「あなたが決めたんですよね」「自分で決める権利を行使したんですよ」

 

   

 



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