私は、物を捨てられない性分です。
(物を大切に使い続ける 認知的不協和② レヴィ=ストロース)
捨てることが本などで声高に奨励されて、捨てられない=ダメなこと みたいになっています。
私もそういう意識がどこか植わっていました。でも、「私、捨てるの大嫌いだから」と
はっきり言ったフジコ・ヘミングに心から共感し感銘をうけました。そして前の記事
補い合いによる調和 を書いて、捨てないことと繋がりました。
組み合わせによる効果を大切に思っていたら、捨てられないのは自然だと自分で納得しました。
そして、やはりこれも、人間の「能力」「生産性」「成果」の話と繋がります。
人間を人間が安易に評価するのは無知、浅はか、傲慢の極みであり、言わせてもらえば一等
「能力」が惨たらしい程に救いようがなく低く、「生産性」がなく、「成果」を出さずに
損害を膨らませていると思います。
Right back at you. Look who's talking.
そういう人達に限って偉そうに上から目線でそれらを語るのは、なにかの法則なのでしょうか。
まるで、自分達が「評価する側の人間」か「評価される人達を天空から見下ろす人間」でもあるかの
ように。人が人を評価すると言うのなら、誰ひとり「評価される対象」から免除される人間などいない
のに、まるで自分は対象外かのように枠の外から偉そうに語る様の、限りない高慢さよ。
私からもそんな人達を評価していいし、すべての人が、評価していいのです。
ブーメランで「無能」「仕事ができない」「生産性がない」「益より害が上回る」と返しましょう。
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卑近な例で脱線ぎみだけど、このエピソードをお話します。
昔、珈琲一杯900円以上する高級喫茶店のバイト面接に行きました。
面接官の若い女性は、雇う側・雇われる側の圧倒的な上下関係・力関係を笠に、
色々と失礼な質問を私に浴びせ、高級店であることを鼻にかけて高慢に意地悪く接しました。
意気揚々と彼女がそれを続けて宴も酣(たけなわ)な頃、私はこの店を選ばないことを伝えました。
こちらにも評価する権利や選択する自由があります。今ここでの関係は上下関係、力関係だけど、
私がこの店を選ばなければ、(また店が私を採用しなければ)ただの自由市民、客、消費者、
職場として検討して面接に行った人への扱いを知る者、むしろ評価する側に回ります。
(この店が職場になり内部の人になったとしても、労働者にも評価しそれを伝える権利・自由は
あります。しかし現実的には圧倒的な力関係があります。)
すると、自分がやったことを悟ったその女性は急に狼狽えて、私に対する態度を変えました。
力関係の瞬時の逆転とでも言うのでしょうか…
とてもださいと思いませんか。しかも、そのくらいのことを最初から弁えず、ただその場の力関係を
笠に調子に乗って愉しんで、私からの評価や選択権を行使すると、急に狼狽えるって…
私はそんな低級喫茶店に用はないんです。