つい最近、いいことがありました。
ジョン・ラスキンという人が少年時代に夢中になった挿絵つきの詩集、その現物を見た時に、
ーー貴重な歴史的遺産なので、ガラス越しに見開き1ページしか見れなかったのですがーー
静かな衝撃が走り、これは、私がずっと探し求めてきたものだと思いました。
書いてある文の意味に対してではなく、その詩の本そのものに対しての感動です。
ターナーの挿絵つきの詩集「イタリア」
なんて素晴らしい世界なんだろうと見入っていました。
これは再会です。こういう静かな世界をずっと前には知っていたのに、
狂った酷い世界に巻き込まれ、それを置き去りにして、迷子になっていた。そしてやっと再会した。
この再会は、働けなくなって引きこもっていることによる恩恵だと解釈することもできます。
もし私が働いて忙しくしていたら、この再会はできなかったように思います。
休日に行けるとかいう話ではありません。視界には入っても、それが出会いになるとは限らない。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)の絵を私の住んでいる古い家に何枚も飾っています。ターナーの絵がなぜかすごく好きで。勿論コピーです。そんな注釈要らないか。
ターナーは黄色を好んで使った。
でも、美術に相当通じていて自身も描いてきた知人は、ターナーの絵には関心がない、魅かれないと言いました。なんでこんな絵を飾っているのかしらみたいに。その大量複写コピーでは現物と程遠いせいも多分にあるでしょう。その中の幾つかは、本当によくない複写ですから。おそらくそのせいです。
好きなものを、その分野に精通している人に良くないと言われたら、私の感性が劣っているんだと思って好きなことへの自信が失われそうになります。でもやっぱり、好きだと思ったのは、自分の中のなにかに通じたからでした。
ジョン・ラスキンや、その影響を多大に受けた芸術家たちの運動に感銘をうけ共感しました。またこのことを書くつもりです。
「社会で総活躍」「社会進出」「輝け」という強迫的な扇動が絶えずなされていますが、私は静かに穏やかに内面豊かな生活がしたいのであって、それが幸福だと思っています。
輝いたかか輝いてないかは、死ぬ時に自分で判断することです。