だるま市 前編より
高遠のだるま市は、前編で触れた向山氏の文からもわかるように、かつては「十四日市」と言われていた。いわゆる小正月に行われたもので、新暦になった明治以降は一時は月遅れと言う時期もあったようだが、旧暦の小正月ころに開かれるようになり、後には2月11日の建国記念の日に固定されてきた。そして現在も同日に実施されている。この2年間はコロナのせいもあって「だるま市」は中止されてきたが、完全中止ではなく、だるまを売る店はコロナ禍にも露店を開いていたよう。
十四日市というようにだるまに限定されたものではなく、前編でも触れたとおり、「種物の交換や蚕種」が売られた。そして未明に参拝する人が多く、いわゆる大晦日から新年までの間に現在も参拝する二年詣りのようなことが行われたわけである。このことは赤羽忠二氏が著した『ふるさともとめて花いちもんめ 続山峡夢想』(2002年 ほおずき書籍)にも記されており、「昔の祭りは旧暦十三日の夜、鉾持神社で神楽を奏し、社頭で稲や豆の種を交換したり売買したりしたという。その日は夜っぴし(夜通しの事)で、近郷の人はもちろん郡下からも参詣人が集まり、十四日の朝まで雑踏を極め、夜が明けると町は人通りのない静かな姿になったという」。ようは今でこそ朝から賑わいを見せているだるま市は、かつては二年詣りの催しだったというわけである。
そして何といってもかつての十四日市で注目されたのは人形だった。赤羽氏は前掲書において「この祭りの特色は人形飾である。各町内会で作ってその出来栄えを披露し、賞が贈られる。出し物は昔話の劇話や現代の世相を風刺したものが多い。鉾持神社へお参りした後、これら町内の飾り人形を見るのも楽しみの一つであった。(中略)商店の二階の軒の庇に飾り付けてある大きな人形を物珍しく見上げて歩いたことを思い出す。主に時代物が多かったようで、牛若丸と弁慶・石童丸・桃太郎など、町の中を次々に渡り歩いて飾り物を見て回った。」と記している。先ごろ箕輪町木下の南宮神社の祈年祭について触れたが、そこで現在も行われている人形飾は、まさにこの高遠の人形飾が伝わったもの。マチにおいては祭日に飾り物をする例が多く、例えば松本の天神祭りがかつて「びょうぶ祭り」と言われたのも、高遠鉾持神社の祈年祭に同じ光景だったように思う。商店は各々自慢の「びょうぶ」を出して訪れた人々の目を楽しましたのである。マチに共通な祭りの情景、意識だったように思う。
このかつての人形飾り光景は、古い写真を掲載した書物に見ることができる。とりわけよくその光景を表したものとして、
『写真集 高遠のあゆみ』高遠町教育委員会編 1992年 194頁
『写真アルバム 上伊那の昭和』株式会社いき出版 2018年 210頁
がある。
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