Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

廃村をゆく人⑥

2008-04-05 22:19:04 | 農村環境

廃村をゆく人⑤より

HEYANEKOさんから、小谷村の廃村「真木」についてアップしたという知らせをいただいた。わたしは真木の集落を訪れたことはないのだが、すぐ近くの葛草連を村内まで2回、入り口まで2回ほど訪れている。たいへん読みにくい地名であるが、「くんぞうれ」という。葛草連の地名の初出は、慶安2年の信州安曇郡大町組大水帳といい(『小谷村民俗誌』)、それによると「くずそうれ」と記載されているという。わたしの記憶から葛草連のことが少しばかり消えていたが、廃村といえば小谷村が浮かぶことを忘れていた。小谷村の小さな集落には廃村になったところが多い。そのひとつである葛草連であり、わたしが初めて訪れた際には、まだ人の気配がしていたような記憶があるが、おそらくすでに無住になっていたのではないだろうか。初めて訪れたころが、ちょうど村に住む人がいなくなったころだったと思う。

 この村を訪れたきっかけは、「融通大念仏供養塔」である。文政13年に建てられたもので、2メートル半を超える大きな念仏碑を拝見しようと訪れたのである。この融通念仏については、亡くなられた宮島潤子氏が『信濃の聖と木食行者』(角川書店・昭和58年)に詳しく述べられている。ハングル系の文字が碑の面に刻字されていることで知られ、その不思議さゆえに知られた碑である。その碑を見ようとこの奥深い村を訪れたのであるが、宮島氏の本にも書かれているのだが、昭和55年当時には、まだ2戸ほど住んでいる家があったようである。その本を目安にして訪れたから、廃村になっているということを認識していなかったわけである。この村に入るには、小谷温泉の熱泉荘の前の道を中谷川に沿って下ることになる。その道は2メートルあるかないかという狭い道で、しばらく走ると、葛草連の集落が見えてくる。ところが、初めて訪れた際には、すでに村の中まで車で入ることはできなかったと記憶する。このあたりは地すべり常習地であって、村に入れなかったのは、地すべりで道に段差ができていたためだった。入り口のお堂のある広場で車を止め、そこから歩いて村の中へ入っていったのであるが、無住だとは思うのだが、何件もまだ家が残っていたと記憶する。

 この葛草連は、明治初期には土谷村でその奥の小谷温泉のあたりは中谷村であった。『小谷民俗誌』(昭和54年)によれば、「例の少ない小谷の行政区画」というように、行政区が入り交じっていたという。同書からその部分を引用すると、次のようである。


 小谷の場合は、江戸時代以前から地形的区画のみによっていない。
 例えば石坂村に来馬村の庄屋に属する家々があったり、来馬村に石坂村の庄屋に属する家々があったり、中谷村と思われる所に来馬村の家々があったり、南小谷の雨中に中谷村に属する家々があったり、中谷村に土谷村の部落があり土谷村に中谷村の家々があったり、庄屋の居住する部落でもそこの庄屋に属さない家がある、言った入り交り方をしている珍しい制度になっていた。
 現在の人達は自分の家の古文書を見て、変に思う人も有るのではなかろうか、自分の家は中谷村だと思っていたら古文書を見ると土谷村と書いてあるとか、千国村だと思ったら石坂村となっていたりする。然しそれは間違いでは無く当時はそうした入り交じり方をした村作りであったのである。
 特に信越の国境線上にある戸土、横川、中又、押廻などの部落は、中谷村、土谷村の両庄屋が相乗りで治めていた。藩へ納入する年貢など二石九斗の籾を、一石四斗五升ずつ両方の庄屋へ納める様にしてあるなど敢えて面倒な制度にしてあった。
 これは要するに小谷の地は信越国境に位し戦国期の所に述べた様に、占領されたり取返したり、敵になったり味方になったり、常に油断の出来ない地域であったので、一、二の有力者による謀叛を起させない様互いに牽制させるための方便ではなかったかと考えられる。
 この様に他に例を見ない村作りは、明治維新まで続けられたが、これは縦の系統による上よりの伝達、上申、年貢等に関係した事に取扱われ、部落付合の様な横の関係は所属の村に関係なく行われたのである。


 このような入り交じりは江戸時代にはけっこうあったことなのだが、とくにその傾向が強い地域だったようである。

 この葛草連を二度目に訪れた際には、すでに廃村の趣が色濃く、すでにお堂もなくなっていたように記憶する。そして三度目あたりには、熱泉荘のすぐ西側で道は崩落していて、車では行けなくなっていて、歩いて融通大念仏碑を訪れたものである。その際には、家の姿がなくなり、ムラの姿が消えかけている印象を受け、平成になって最後に訪れた際には、ムラ全体が地すべり工事のために消えていたのである。当初の目的であった融通大念仏碑は、現在は移転されて村内の神宮寺という寺に安置されている。昔よりは訪れやすい場所に移ったものの、かつてのあの葛草連のムラにあった融通大念仏碑の姿が、今も忘れずに脳裏に浮かぶ。

続く


コメント    この記事についてブログを書く
« 黄色い線 | トップ | ささえあう »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

農村環境」カテゴリの最新記事