Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小正月に建てられたデーモンジ

2025-01-16 23:17:06 | 民俗学

辰野町羽場中村

 

辰野町羽場上

 

辰野町北大出宮下

 

辰野町北大出三ツ谷道祖神

 

 一昨日今年のデーモンジについて触れたが、違和感のある写真が羽場中村と羽場上の写真にあったと思う。「なぜ建っていないのか」と。考えてみれば訪れたのは14日の午後。ようはまだ建てるに至っていなかったというわけである。今年は鞍掛が実施無いことについて触れたが、鞍掛は毎年必ず14日に建ててきた。この時代になっても土日実施ではない。同じことが周辺でも言え、羽場の2箇所と北大出の神社前の宮下が14日に建てている。宮氏の写真は一昨日掲載しなかったが、実はいつも建てる横に竹だけ横たわっていて、「いずれ建てる」という感触は得ていた。聞き取りをしていないが、おそらく建てるのは14日の夕方なのだろう。

 ということで今日現場に出た際に立ち寄ってみた。羽場の2箇所はもちろんだが、宮下のデーモンジもちゃんと建てられていた。とくに驚いたのは宮下である。過去の宮下の写真を顧みればわかるが、今年のデーモンジは、高く掲げられていて、これまで見た中では最も立派に建てられていた。鞍掛が今年建てられていないせいもあるが、もしかしたら今年この一帯で建てられたデーモンジの中では最も高く、そして賑やかかもしれない。もちろん竹が枝垂れている多屋小路のものも見た目は派手ではあるが、昔に比べると高く揚げられていない。こじんまり建てられていたこれまでの印象とずいぶん違っていた。

 デーモンジの話とは異なるが、もうひとつここでは取り上げておきたいことがある。ほかのデーモンジはどうなっているかと周辺のものを見てみたが、小路中のものは既に撤去されていて、上垣外もなかった。いっぽう三ツ谷は今日も建っていたが、今まで気がつかなかったが、ここの道祖神をあらためて見てみて気がついたことがある。なぜか蓮座の上に乗った双体像はかなり風化しているが、その横にある文字碑である。「道陸神」と彫ってあるのだろうが、この道祖神、元は自然石であったのではないだろうか。そこへ後から文字を彫った。しかし石質が変成岩系のため、面が一様でなくうまく彫れなかったという感じ。以前から思っていることだが、数ある道祖神の中には、もともとは自然石のままだった石に、後から文字を彫ったものがあると推定している。三ツ谷の文字碑はその一例のようにわたしは思う。

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正月の景色

2025-01-15 23:51:34 | 民俗学

伊那市富県貝沼「ホンダレ様」(令和7年1月14日)

 

伊那市東春近中殿島城下「セーノカミ」(令和7年1月14日)

 

 写真は伊那市富県貝沼の今年の「ホンダレ様」である。ブランコの枠を利用して道祖神の飾りがされているのだが、ホンダレ様は右側の脚にしばりつけるように立てかけてある竹の先に結わえられているビニールの中にあるものを言うらしい。このホンダレ様については以前にも何度か触れており、とくに2年の絵に記した〝柱立て「ほんだれ様」〟で平成30年のものと比較した記述をしている。もともと県道脇に建つ道祖神の脇に建てられていたホンダレ様は、県道の工事によって集会施設の敷地内に移動した。近年はブランコを利用して飾られるのが恒例となっている。道祖神の脇に飾られていた時よりこじんまりしてきたが、それだけ正月飾りが衰退してきたということになるのだろう。ただよく考えてみると、この飾りにはいわゆる松飾がほぼ見られない。この地域では松や竹を正月飾りに利用しないのかどうか。それとも道祖神の飾りには既成の飾りだけ利用しているのか、そのあたりを聞いてみないとわからない。そもそも既成の飾りは昔は少なかっただろう。いや、大昔はこのような飾りは無かったはず。とすればこうした飾りはそれほど古い時代のものとは思えない。

 さて、先日東春近古寺のハナについて触れたが、その際にはまだ立てられていなかった同じ東春近の城下のセーノカミが、昨日は立てられていた。ただ令和3年の際のものと比べると雰囲気が違う。紙テープがたくさん脇にある木から垂らされていて、騒々しい感じ。それ以上に気になったのは、令和3年に太陽と月とともに掲げられていたハナが無いのである。これでは各戸に配るハナが無いことになってしまう。

 この正月から小正月にかけて、こうして上伊那郡内の様子をうかがってきたが、もはや絶滅危惧ともいえるものに、貝沼の例ではないがホンダレ様がある。貝沼の事例は本来のホンダレ様ではないと考えられ、このあたりでホンダレ様というと、平成30年に記した「ホンダレ様」の前編後編の2例がそうである。しかし後編で扱ったホンダレ様は、ご主人が亡くなられて現在は実施されていない。毎年地元の新聞に掲載されるのが前編で紹介した向山さんだ。さらに古くは平成23年に辰野町小横川のホンダレ様を紹介した。当時もあちこち見て回ってそのくらいしか見つからなかったわけで、その小横川のホンダレ様も、今はもう見られなくなっている。長くこの日記を記してきているが、既に見られなくなってしまったものが、実はたくさんこの日記には残されている、と実感している。

 先日「ことしの〝松飾り〟」を記したが、正月の雰囲気を醸し出していた飾りそのものも、ずいぶん姿を変えてきている。先週末松本から安曇と回ったが、サンクローが先週末実施されている所が多かった。それも午後2時から3時ころに集中していた。防火の観点から消防車が横付けされている姿もあったが、消防の関係で時間が決められている風にも見えた。さらに思ったのは、いずれのサンクローも小型化しているということである。飾りが減れば小さくなるのも当然だろう。そのいっぽう塩尻市南内田あたりのサンクローには、皆がみな手に手に繭玉を持ってきていて、その光景が賑やかに映っていた。このあたりではどこのサンクローにも繭玉を手にして集まっていた。

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デーモンジ(令和7年)

2025-01-14 22:56:51 | 民俗学

 小正月14日である。かつて成人の日が15日だった時代には、その前夜である14日は行事の集中日でもあったが、今は小正月だという認識すら薄れている。平日であってもこの日に小正月らしい行事を残している所も稀にあるが、ほぼ14日から行事はほかの日に移っている。松本平から安曇野のオンバシラが、建っていたり建っていなかったり、とずれるのは、土日に行事を行うようになったせいだ。オンバシラは一定期間建てておく。したがって土日に行動をとるとなると、1週間単位で建てて早くするか遅くするか、と言った具合に日取りがずれる。考えてみれば、この週末はまだ小正月に入っていなかった。しかし、松本平や安曇野では、多くの場所で12日にサンクローが実施された。オンバシラがまだ建っていなかったところでは、これから建てるのか、それとももう建てないのか、といったところがよくわからなかったのも事実である。

 オンバシラの上伊那バージョンである「デーモンジ」。このデーモンジを今でも必ず小正月14日に建てているのが辰野町北大出鞍掛である。そう思って足を運んだが、午後になっても建てる雰囲気が見えなかった。そこで以前庚申講の話をお聞きした方の家に立ち寄ってみると、今年は中止だと言う。昨年のデーモンジで柱を倒す際に事故があったという。どなたか怪我をされたようで、今年は自粛と言うわけだ。今回は必ず聞いてみたいことがあった。「扇子」である。北大出や羽場といった辰野町南部のデーモンジには、扇子が付く。扇子には「厄落し」の文字が見え、厄年の方が扇子に厄落としが主旨の文字を書き、「〇歳男」とか「〇歳女」といった具合に対象者の年齢が添えられる。この地域の神社に行くと、拝殿の格子にお宮参りの奉納物が結わえ付けられていて、扇子と真綿と麻がセットで奉納される。このことは本日記でも触れてきたことだが、加えてそのお宮参りの扇子が、北大出の神社では秋の祭典で天狗の持ち物になる。ようは「扇子」が通過儀礼に何度となく登場するのである。そのあたりの捉えどころを参加される方たちに聞いて見たかった。

 さて、併せてデーモンジの今年の様子をうかがってみたので、ここで触れておくこととする。

 

辰野町羽場中村

 

辰野町羽場上

 

辰野町北大出多屋小路

 

辰野町北大出上垣外、御幣を挟んでいる木に「大文字用」と記されている

 

辰野町北大出小路中

 

辰野町北大出三ツ谷

 

箕輪町漆戸(今年は12日に建て、19日午前8時に倒される)

 

どんど焼きの日程が貼られていた

 

上戸の道祖神のうち、双体像は道路拡幅の記念に平成8年に建てられたもので、

それ以外の道祖神は自然石である

 

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松本市内のオンバシラ(令和7年)

2025-01-13 23:59:22 | 民俗学

南内田のオンバシラ(令和7年)より

2014年オンバシラ

 

2025年オンバシラ(令和7年1月12日撮影)

 

 実は南内田のオンバシラを確認する前に、松本市内のオンバシラの状況も確認している。まず旧梓川村横沢のオンバシラである。横沢のオンバシラについては2014年1月2日に「正月の柱立て」と題して記した。この横沢のオンバシラ行事については、松本市指定文化財となっており、「横沢の御柱とスースー」(スースーについても本日記の「横沢の“スースー”を訪れて」で触れている)で紹介されている。横沢では中(なか)と西下(にしじも)の2箇所でオンバシラが建てられていたが、西下のオンバシラは見られなかった。両者同日に立てていたことから推測すると、西下では途絶えているのかもしれない。

 中のオンバシラについては、2014年のオンバシラと12日に確認した2025年のオンバシラの両者の写真をここに並べてみた。2014年には水平にしたオンベの数が15本あったが、今年のものを見ると14本しかない。今年のオンバシラを見ると上から5段目と6段目の間に×の形でオンベをクロスさせてたものが付けられているが、2014年のものにはない。スースーで配るオンベの位置も、2014年のオンバシラは下よりに付けられているが、今年のものはかなり上部に結わえられている。このように若干違いが見られるが、基本的な形状は同じである。

 横沢のオンバシラを見た後、和田太子堂と町神(まちかん)にも立ち寄った。太子堂のものについては2016年1月18日に「これも御柱か?」で触れ、町神のものは同年1月14日に「これも御柱」で触れた。これまで触れてきているオンバシラとは形状が全く異なるものだが、町神では当時明確にオンバシラと称していた。そしていずれの柱も12日現在には立てられていなかった。町神のものはともかく、太子堂の場合、当時立てられていた日から推測すると現在は途絶えているように見えた。聞くところによると、松本市内では旧梓川村の花見(けみ)のオンバシラも今現在途絶えているらしい。

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南内田のオンバシラ(令和7年)

2025-01-13 23:19:51 | 民俗学

 塩川原の寒念仏を見た後、帰路前日に見られなかったオンバシラをいくつか確認しながら帰った。まず塩尻市南内田のものを3個所、ここに取りあげてみた。

 

塩尻市片丘南内田赤津

 県道松本塩尻線の脇に立っているのは赤津のオンバシラである。南内田のオンバシラは丈が長いという印象がある。したがって遠くからでも立っている姿がわかる。オンベをクロスした組が12段ある。竹の先には五色の紙垂が付き、キンチャク風の切り紙による飾りがそれぞれに付けられている。頂には御幣と松が結わえ付けられ、それぞれの組が揃うように荒縄で繋げられている。最下に藁束(俵)が付き、そこにイネバナが20本ほど挿されている。柱の向きは南向きである。

 

塩尻市片丘南内田原村

 赤津の県道から東を望むと水田地帯の中にオンバシラが見える。原村のオンバシラである。脇にサンクローの櫓が作られていたが、サンクローについては後日あらためて触れる予定である。原村のオンバシラは東を向けられている。ようは道祖神とおなじ向きである。形は赤津のものと同じであるが、荒縄による繋ぎは左右1本ずつ。オンベの先の五色の紙は紙垂と言うよりは紙の束のように見えるが、それぞれビニールで包まれていて、濡れないようにしている。オンベのクロスは9組と赤津より少ない。赤津より戸数が少ないということになるのだろう。キンチャク風の飾りはここにはなく、中ほどに1本、柱に結わえ付けられているハナがある。階段状に付けられたものとは別のものと捉えられる。赤津同様最下に藁束が巻かれ(ベンケイと呼ぶ)イネバナが挿されており、その数は20本余あるだろうか。

 

塩尻市片丘南内田立小路

 赤津の南、市道立小路大口線の脇に立つのは立小路のオンバシラである。「道祖神」とともに「天照皇大神 秋葉大神 明治天皇」の石碑が立ち、その横に三峯様の祠が並ぶ。祠の中には「火防盗難除」のお札があり、「参拾六戸」と書かれた札があることから講仲間は36戸あって、現在も三峯様が信仰されていることがわかる。オンベのクロスが11段あるオンバシラは、いずれの段にも横棒が加えられていて、赤津や原村のものより梯子状のイメージが強い。オンベの先の紙垂は、やはりビニールで覆われていて、濡れるのを防いでいるよう。原村のものは竹が青く、赤津のものは竹が少し茶色がかったものがあったが、立小路の竹はだいぶ以前に採ったものらしく乾ききった竹を利用している。頂に御幣と松に加えて1本花が付いている。これは原村のものと同様に特別なものと捉えられる。柱の中段に大きな切飾りが付いているが、よく見ると今年のものは広告を利用しているよう。これをフーセンと呼ぶらしい。道の脇に作られていたサンクローの櫓に混ざって切飾りがあったが、おそらくこれは前年の切飾りと思われる。

 なお、この地域のオンバシラについては浜野安則さんの「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例から-」(『信濃』63-1 信濃史学会)に詳しく報告されている。

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寒念仏

2025-01-12 23:33:30 | 民俗学

集落を北へ

 

屋根が葺き替えられたばかりの道祖神にお参り

 

お堂にお参りして終了

 

寒念仏塔婆

 

 「寒念仏」についてはコトバンクにいくつか解説されている。最も詳細なものは世界大百科事典(旧版)内の寒念仏の言及だろうか。

…一年中で最も寒い時期の修行であるために,厳しい苦行となるが,その苦行が多くの功徳(くどく)をもたらすという信仰が背景にある。一般に寒行には僧侶を中心とした寺堂や道場での座禅・誦経・念仏・題目のほか,鉦を叩きながら民家の軒先や社寺を巡って念仏や和讃を唱える〈寒念仏〉,鈴を振りながら裸足で薄着して社寺に参詣し祈願する〈寒参り〉,冷水を浴びて神仏に祈願する〈寒垢離(かんごり)〉などの所作がある。〈寒念仏〉について,文化年間(1804‐18)に編まれた《会津風俗帳》には〈堂社修繕建立のため,出家又は信心の男女四五人連にて和讃念仏を唱へ,村々相廻り,米少々つゝ出す〉と托鉢の状況を記し,同時期の《歳時謾録》には六斎念仏の行者が城下や無常所を夜行したと記し,《続飛鳥川》には白木綿の単物と頭巻を着し,鈴を振って歩行し,絵札をまく願人坊主の姿を記している。…

※「寒念仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

これらでは民間でどのような信仰がされていたかについてはあまり触れられていない。

 寒念仏については「寒念仏供養塔」と検索すると本日記の「“寒念仏”塔」が比較的上位に現れる。20198年2月に記録したものだが、あらためて読んでみると伊那市に多い寒念仏塔について詳細に触れている。確かに伊那市には「寒念仏供養塔」などの念仏塔が多い。ところが現在そうした寒念仏に関する信仰が残っているわけではない。江戸時代も中期以前に盛んとなって明治維新ころにはすでに廃れていた信仰と言えるのかもしれない。実は前掲日記では市内で最も古いものは美篶芦沢の元禄2年銘のものと記したが、寒念仏の石碑が市内で最も多い富県の石造物を見ていくと、貞享4年(1687)の名号塔に「寒念仏供養」と彫られていて、この方が古い。そもそも富県に残されている石造物の中でもこれは5番目に古い。「同行十□」と彫られているようで、民間での信仰が偲ばれる。富県でも北福地の湯戸公民館庭にあるもので、同所には元禄15年の「奉供養月念佛」の碑もある。

 さて、昨年3月の「寒念仏について」の記事において「実情を把握するために、実際の行事を訪れてみるしかない」と記した。その寒念仏を訪れてみた。明科塩川原は犀川左岸にある小さな集落。「塩川原農業研修センター」の横にあるお堂に寒念仏の痕跡があって現在も行われていることが解ったのだが、実はこの寒念仏は三九郎と同日に実施されている。コロナ禍前には二日にかけて地区内をふたつに分けて実施していたと言うが、今年は三九郎を行う日に集約されて行われた。三九郎、いわゆる道祖神に関する部分については後日触れるとして、目的であった寒念仏の様子についてここでは触れる。

 三九郎の準備が済んだ午前中にその寒念仏は行われた。農業研修センター、いわゆる地区の集会施設を午前10時半過ぎに出発し(お堂から始まると言っても良いのだろう)、まず北へ向かう。集落の北外れに石仏に2体を納めた祠があり、そこへお参りをすると南へ引き返す。祠内にはいわゆる西国坂東秩父百番供養塔が2基納められている。寒念仏にかかわりある石碑かもしれないがはっきりしない。道端に建てられている石仏、石神には必ずお参りして回る。とくに「道祖神」にはすべて回るという意識があり、念仏と道祖神がかかわりあるものかどうかもはっきりしない。いずれにせよ三九郎と同日に実施することから習合したのかもしれない。以前は二日に分けて行われていたということで、この日まわった道順が従来のものと言うわけではないよう。繰り返すが地区内の神仏にお参りしているものの、集落内各戸に念仏が聞こえるように回ったというから、もれなく集落内を回ったものと考えられる。その目標物として石仏や石神があったと思われる。最後はやはりお堂にお参りして終わりとなる。集落内をおよそ40分ほどかけて回った。集落内を回る際に唱えられるのは「なむあみだ なむあみだ そうりゃーなむあみだ」であり、小さな鉦を叩きながらこれを繰り返し唱えて回る。なお、〝音の伝承〟に「長野県安曇野市明科塩川原寒念仏」と題して掲載している。

 かつては1週間くらいを毎日行ったといい、いわゆる寒念仏の姿があったと思われる。現在は三九郎が塩川原だけではなく、北隣の原と県営住宅のある地区と一緒に行われているため、この寒念仏もそれらの地域の子ども達によって行われている。もちろん時世であるが、おとなも一緒に回っており、行事そのものは育成会行事で実施される。もう一つ、実施していることを教えてくれた堂内の塔婆のこと。てっきりこの塔婆を持って集落内を回るものと思っていたら、塔婆はお堂内に納められたままだった。一緒に歩かれた数十年前を知っている方も「塔婆は持って歩かなかった」というから、その昔の姿ははっきりしない。塔婆は集落内の大工さんが形をこしらえてくれるらしく、子どもたちが塔婆へ字を書きこんでいるという。その文字は例年通り、

奉 修寒念仏供養塔婆 塩川原子供達
天下泰平 五穀豊穣 養蚕大当 無病息災 交通安全
令和七年 一月祥日

であった。

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令和7年オンバシラ

2025-01-11 23:06:33 | 民俗学

 長野県民俗の会第244回例会は、オンバシラの見学であった。よく知られている御柱ではなく、正月に道祖神の脇に建てられるオンバシラである。本日記でも「オンバシラ」、あるいは「御柱」のキーワードで何度となく記録してきたものであるが、本日回ったオンバシラも、これまで紹介したオンバシラの現在を確認することとなった。午前10時に集合してほぼ1日かけて回ったオンバシラは下記の7箇所であった。

①安曇野市三郷一日市場東村
②安曇野市三郷一日市場下町
③安曇野市豊科吉野梶海渡
④安曇野市豊科成相
⑤安曇野市穂高倉平
⑥安曇野市穂高塚原中部
⑦安曇野市穂高塚原巾上

このうち本日記で以前扱ったものについては、それぞれリンクを貼った。①と②したがってわたしとして初めて目にしたオンバシラは②の一日市場東村のものと③の梶海渡のものであった。②については以前扱ったことがあると思って探してみたが見つからなかった。リンクしているものについては、当時の写真と比較してもらえればわかるが、ほぼ過去のオンバシラと変わりがないと思われる。オンバシラとはいえ、場所によって異なることがわかるが、とくに今回初めて見た吉野梶海渡のものはほかのものと異なっている。そもそもヤナギバナがつかず、確かに柱は立っているが華やかな雰囲気は全くない。そしてこの柱は1年中立っているという。柱の根元に竹の筒が立て掛けられていたが、このれが地区内でお祝いのあった家に渡されるゴシンボク(御神木)である。事前にゴシンボクの依頼があった家の数だけ用意されるようで、今年は1本しかなかったので、依頼したのは1軒だけだったということになる。本来ならゴシンボクは柱に掲げられるものなのだろうが、ここではだいぶ省略されてしまって、今年の姿は根元に置かれているだけとなっていた。ここに掲げることで神が宿り、相応のご加護が導かれるということになるのだろうが、現在の姿はちょっと寂しく見える。加えて濡れないようにと被せられたビニール袋は、いわゆる自治体ごとに指定されているゴミ袋であった。ここではオンバシラが1年中立てられたままになっていると記したが、1年中と言うより6年間立てられていて、7年目に立て替えられるという。もともとは毎年立てていたものが変化したものと言えよう。吉野にはほかに3箇所ほどオンバシラが立っていると言うが、いずれも梶海渡スタイルだと言う。

 吉野ではゴシンボクが祝い事のあった家に渡されるが、成相から穂高にかけてのオンバシラには俵が付けられていて、吉野のゴシンボクの代わりとなってこの俵が祝い事のあった家に渡される。これを「福俵」と称している。さらに三郷一日市場などではヤナギバナが各戸に配られて縁起物とされる。

 さて、例会後の帰路、旧波田町上波田のオンバシラに立ち寄ってみた。すると中町にはオンバシラが立っていたが、上町も下町にも柱は見えなかった。かつて訪れた際に3箇所とも同じ日に立てていたことから推察すると、1箇所にまとめられてしまったのかどうか。以前訪れた際にも子どもが少ない町会では存続が危ぶまれていたが、それほど時を経ていないが、地域社会の変化によって行事が変化していることに気がつかされる。

 

安曇野市三郷一日市場東村(頂に付けられる女神、下に付くのはオガミ)

 

安曇野市三郷一日市場下町(ヒョウタンが日天・月天から吊るされる)

 

安曇野市豊科吉野梶海渡

 

安曇野市豊科成相(タワラ、キンチャク)

 

安曇野市穂高倉平

 

安曇野市穂高塚原中部

 

安曇野市穂高塚原巾上

 

松本市波田上波田

 

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「ブラク(漢字)」は消された

2025-01-10 21:15:02 | つぶやき

 かつてこの日記の中で「被差別ブラク(漢字)」について何度か記した。ここに「」の中にブラク(漢字)を挿入していたが、気づいたら本ブログでは「」表示になっていて、ようは単語が消されていた。これがgoo blogサービス利用規約に違反していたから消された、ということかどうかは不明である。もしかしたらいずれここに記した「被差別ブラク(漢字)」も「被差別」とだけ表示される時が来るのかもしれない。いずれにしても今ここに「被差別ブラク(漢字)」の「ブラク(漢字)」の部分に漢字を入れても、おそらくは表示されていて、いずれ消されるのだろう。これに気づいたとき、「ブラク」が非差別用語として捉えられていて消されたとわたしは判断したが、本当のところはよくわからない。田舎では今もって差別とは無縁に「ブラク(漢字)」を口にする人はいる。もちろんひと昔前に比較したら減ってはいるものの…。

 ということで、2010年3月26日に記した〝消された「部落」〟について文中内の空白を修正して「ブラク(漢字)」と修正した。前述したようにこの修正もいずれ消されるかもしれないが、消されてしまうと逆に内容が歪曲されて捉えられるような気がしてならない。ただ、この〝消された「部落」〟のページタイトルの「」内が消されていないのは腑に落ちない。そもそも消すにあたって何らかの指摘が外部からされたため消されたのか、それとも自動的に消されるようになったのか、いずにしても不明である。「ブラク(漢字)」については、ページ内の検索欄に入れて検索しても該当記事は表示されない。ようは検索機能からも削除されている単語なのである。ちなみにまだ修正していないページを参考に確認してもらいたい。例えば2011年8月3日投稿の「衣生活」である。「ブラク(漢字)」は消されている。goo blogサービス利用規約の第11条(禁止事項)に「(8)他の会員又は第三者を差別又は差別を助長する行為」というものがある。これが当てはめられて、「ブログ情報が前項各号のいずれかに該当すると判断するときは、該当のブログ情報が投稿された会員ページ(公開であるか非公開であるかを問いません)を会員の承諾を得ることなく、かつその理由を会員に説明することなく、ブログ情報を変更・非表示・削除等の処置が」がされたものと思われる。投稿の原稿には単語は表示されているが、閲覧ページには無いのである。そして利用規約では「この場合、当社は、当該ブログ情報を投稿した会員の会員資格を失効させることができるものとします。」とも掲げている。失効されていないだけまだ良いということなのだろうか。もしかしたらこんなことを書いたから、消されるかもしれない。

 たまたま「ブラク(漢字)」が消されていることに気がついたが、もしかしたら長年の記事の中には、ほかにも消されている単語がたくさんあるのかもしれない。

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〝山の神〟再考 ①

2025-01-09 23:06:50 | 民俗学

 わたしは1993年の『信濃』45巻1号(信濃史学会)へ「コトの神の周辺」を記した。コトの神の祭りが行われるコト八日について触れたもので、その中でコト八日と山の神とのかかわりについて次のように書いた。

  五 山の神とのかかわり
 山の神の祭りがコト八日の近くに行われることもよく知られており、県内では下伊那郡南部において旧暦二月七日を祭日としている所が多い。山口貞夫は早くより「二月八日及び東国の十二月八日は、元々山の神の去来する日であった」また「此神が片目であると云ふ思想があった為に信仰の下落に伴って一目小僧に堕し、神を迎へる為に静粛を守った人々は悪霊を怖れて蟄するに至った。神の招代として竿頭に揚げた目龍は一目小僧と日数を争ふ道具となり終り、別に臭気をかがせて邪気を払ふ行事までも付加されるに至った」という指摘(37)をしており、その後の山の神とコトの神とのかかわりを説く論文の参考とされてきた。この山の神の祭日には山へ入ることを忌み嫌った。

 事例21 下伊那郡松川町新井 十一月七日は山の神様が出雲へ出発する日なので、山へ行ってはいけないといい、半日仕事を休んだ。(38)

 事例22 上伊那郡長谷村市野瀬 コトネンブツといってかね(鉦)をたたいて念仏をあげ、団子をまいて一杯飲んで祝った。各家では餅をつく。この日は木がはらむときだから木を伐ってはいけな い、伐るとけがをするといわれた。炭焼きの止めがまに行くのにも枝一本でも折らぬように気をつけた。(39)

 事例23 伊那市小沢 餅をつく。嫁の里では新夫婦を招いてごちそうをする。「春のオコトにゃ子をよんで、冬のオコトにゃ親をよべ」といわれている。この日は針供養をし針仕事を休む。山の木を伐ってはいけないともいう。(40)

 事例21のように山の神の祭日に入山を禁止する事例は多いが、コト八日においても事例22や23のように山の木を伐ってはいけないという事例が諏訪から上伊那にかけて多い。これらは山の神の禁忌とコト八日の禁忌が混同された事例なのかもしれないが、事例22、23の二つの地区では別に山の神の祭日が定められている。したがってコト八日に付加されたものといえ、山の神がこの日にかかわっていることになる。また注目される点は、事例23のように嫁の里帰りが行われることである。上伊那郡にこの事例が見られるが、この場合「山へ行って木を伐るとけがをする」という禁忌が付加される場合が多い。山の神が産の神であるということは各地で知られている。

 事例24 上伊那郡高遠町東高遠 出産が始まると部屋の隅へ立てかけたわら束に、「山の神ここへ座ってくれ、ウブメシ安産で生ませてくれ」と頼んだ。出産すると四つの膳を供えて「無事出産したからお帰りください、御苦労さん」と拝んで山の神を帰した。(41)

 このように産の神として山の神は迎えられ、目的が達成されると送られている。東北や関東でも妊婦が産気づいてもなかなか子どもが生まれないとき、馬を引いて山の神を迎えに行く行事がある(42)という。これらの事例から新夫婦が嫁の里へ帰るコト八日は、山の木がはらむ日であり、産の神である山の神の祭日であったともいえよう。
 また先の事例9で紹介したように風邪の神を送る場合に、紙に馬という字を一二書き、それを辻などに捨てる方法がとられている。この一二の数については地元では特に意味を理解していないが、山の神=一二様からくる一二ではないかとも考えられる。山の神にはこの一二の数がつきまとい、それは一年の月数とされ、山の神が農事に深い関係があるからだといわれている。
 ところで岐阜県不破郡青墓村では、山の神の祭日(旧正月九日)に未婚の娘をもつ家が宿となり、若衆が山から松の木を伐ってきて、長さ三尺ほどの男根のものを四本作っている。そしてそれらをその年、嫁入りのあった家へもち込み、それから行列を作って歌をうたいながら山の神の祭場へ行って供物を供えているという(43)。この行事の内容は道祖神の祭事にもよく見られる事例であり、先に紹介したコト八日におけるワラウマヒキも道祖神とのかかわりが強く、また産の神や厄神としての要素も道祖神はもっている。こう考えてくると事例3のコトノカミオクリは、風邪の神送りの集団化したものであり、男女二神を並祀した神輿をムラ境に送ることにより厄神を送り出している。送り出されたコトの神は山の神や道祖神の要素を含んでいるのではないかと推察できる。

というものである。ここでいう事例9及び事例3は次のような事例である。

事例9 下伊那郡松川町 こと念仏でとまった(二月六日)夜一二時ごろする。
 紙に馬という字を一二書き、それを封筒の中に入れ、よその部落の四つ辻に持って行って捨て、後を振り向かないようにして帰ってくる。そうすると一年中部落に悪いやまいがはいらなかった。(22)

事例3 飯田市千代芋平 コトノカミオクリは飯田市竜東地区の千代、竜江、上久堅と送り継がれる行事で二一月八日千代の野池と芋平から出発する。特に芋平から出発するのはみこしが造られる。(中略)始めに藁で丸く型が作られ桧の葉をさして屋根形にし、紅白の切り紙で美しく飾り、竹を二本通して前後でさげる位いの大きさにする。みこしの中には藁製のオトコガミ(男神)、オンナガミ(女神)が安置される。また「千早振る二月八日は吉日で、事の神をば送りこそする」と大書された紙製の職旗二本を作る。十時前後にいよいよ出発する。みこしの後には各家から出された笹竹を持った人達が続く。ドカンドカンと鉄砲が鴨され、上久堅境の沼塩の川まで送る。帰りには絶体に後を振り向かないこと、もし振り向くと送り出した悪病神が付いてくるといわれているので急いで帰る。
 笹竹に結ぶ紙は、中折りの四つ切りの大きさに「風の神」「馬と申」などと書く。これには風邪が馬の鞍に形づくられたみこしに乗って申が引いていくのだともいわれている。またこの笹竹には、ぼんのくぼの髪の毛とお米を入れ水引で結えたものも結びつける。このような竹は、各家で家中の部屋を「風の神様どうかこの竹にのり移って下さい」と唱えながら清め、道端に出して置くと行列が集めて次々と部落を引き継いで上久堅柏原の一本松の喬木村側まで送って行く。(9)

 これらは山の神の祭日に着目してコト八日との関係性を考えたものだが、この中で「コト八日においても事例22や23のように山の木を伐ってはいけないという事例が諏訪から上伊那にかけて多い」と記しているように上伊那における山の神信仰は県内でも少し変わっている印象がある。ここで山の神について上伊那を中心に考えてみることとする。

 なお、引用の中の註については下記のような内容である。

 9 上久堅村誌編纂委員会『上久堅村誌』平成四年 七二七頁
19 長野県史刊行会『長野県史民俗編』第二巻南信地方(二) 昭和六三年 八四五頁
22 松川町教育委員会『松川町の年中行事』昭和四六年 六二頁
37 山口貞夫「十二月八目と二月八日」 大島建彦編『コト八日』所収 岩崎美術社一九八九年 二九頁
38 註19と同じ 七六八頁
39 註19と同じ 六二三頁
40 註19と同じ 六二四頁
41 註19と同じ 二三五頁
42 吉野裕子『山の神』 人文書院一九八九年 九一頁
43 宮田登『民俗宗教論の課題』 未来社一九七七年 二一八頁

続く

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消えた稲架

2025-01-08 23:39:18 | 農村環境

ある山村の「秋」

 写真は、やはり年明けに妻が戸棚を整理していて出てきたある山村の風景である。稲の稲架が水田の曲線に沿って綺麗な波を打っていて、いかにも山村のかつての光景である。稲架については本日記でも何度となく扱ってきたもので、このページのキーワードにもなる。なぜそれほど扱ってきたかといえば、自称「稲架掛けのプロ」と思っているからだ。とりわけ稲架掛けが無くなってきた今なら、一層わたしの稲架掛けはご覧いただければ見事なものだろう。誰も真似はできない、などと思っている。それほどだからこの日記でも何度か扱ってきた。

 この写真は平成10年の秋に撮ったもの。したがっておよそ26年前のもの。山間地だから、現在の光景と異なる。この当時は真ん中の農道の左側の小さな水田にも稲がちゃんと耕作されていた。現在この農道の左側に見えている水田は、すべて耕作されていない。また右側の水田も手前の大きな水田は耕作されておらず、その下の水田がかろうじて耕作されていて、あとはずっと下の方まで耕作放棄されていて、草刈もされない水田もある。ようはこのような稲架の波は、無くなって久しい。

 この空間を含めて近在の水田の現状を最近図化した。それが下記に示した図である。この図の範囲には水田がかつて12.5ヘクタールほどあった。平成10年には既に奥まった山間にあった水田は耕作されていなかったが、この写真のような里の水田もいまや耕作放棄されている所が多く、現在も水稲が耕作されているのは4.3ヘクタール、34パーセントにとどまる。さらに耕作放棄地となっているのは、6.3ヘクタールと、半数に上る。図の「西洞」と表示されている場所はほ場整備がされていて、まだ耕作放棄される水田は少ないが、それ以外の水田は未整備である。不思議なことなのだが、このある山間の地域を持つ自治体の水田の基盤整備率は96パーセントにものぼる。未整備の水田面積は自治体全体で6ヘクタールしかない。水田とみなされている面積がこの範囲にどの程度あるか不明であるが、公表されている基盤整備率が「怪しい」と思うのがわたしだけだったら、この世には嘘を信じる人ばかりということになる。よく中山間の耕作地の維持が話題になるが、現実は惨憺たるものなのだ。この写真のエリアは山奥と言う山奥でもなく、そして周囲には集落もある。にもかかわらずこのような状況なのだ。

 

 

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ハナを掲げる

2025-01-07 23:07:19 | 民俗学

伊那市東春近古寺

 

 コロナ禍の令和3年の新春、伊那市東春近の古寺へハナヅクリの行事を訪ねた。コロナ禍にあってよそ者を受け入れていただいた古寺の皆さんには感謝であったが、その後ハナヅクリの様子をうかがうこともなくいたが、今日、その古寺に立ち寄ってみた。令和3年の際には作られたハナが電柱に掲げられて素のままだったが、今日はそのハナにビニールが掛けられていた。ようは「濡れないように」という意図なのだろう。このハナは下ろした後、各戸に縁起物として配られる。したがって雪、あるいは雨が降れば濡れてしまうわけで、それを保護するようにビニールが掛けられる。

 同様の光景は同じ年に訪れた古寺の近くの城下のセーノカミに見られた。やはり濡れないようにとビニールが掛けられていた。本来はこのようなビニールは掛けなかったのだろうが、数日間野天に掲げられるから、綺麗なまま配布したいという思いがこうしたビニール掛けにつながっている。今週末には安曇野へオンバシラを訪ねる企画が長野県民俗の会例会で企画されている。オンバシラではどうなのか、そのあたりも見てみたいところ。余裕があればこうした正月行事へ足を運びたいところだが、多忙なため、立ち寄るレベルの今年である。

 ビニールを掛けたせいだろうか、令和3年の際はハナを電柱と並行に近く放射状に束ねていたが、今年のハナは電柱に対して直角、ようは十文字のように横にした結わえている。陰になりかけている太陽はオンベと同様に上を向いていたと思うが、これもまたビニールを掛けたせいか風が吹いて傾いてしまったようだ。もう一つ令和3年と大きく異なるのは、「竹がない」。今年のものは電柱にしばりつけてあり、それは令和3年も同様だったが、令和3年の場合電柱に沿って竹が建てられていて、もともとはこの竹が柱で合ったであろう想像できた。しかし今年の場合は電柱が支柱代わりになっていて、本来の「柱」に当るものが存在しない、というか電柱を柱に見立ててしまっている。どんど焼きの際に下ろすと令和3年には言っていたので、今年もあと数日で下ろされるのかもしれないが、下ろす日を確認までしなかった。

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あまりひと目につかない印刷物 後編

2025-01-06 23:13:11 | 地域から学ぶ

あまりひと目につかない印刷物 前編より

 この雑誌、図書館で検索してみると蔵書として存在しているのは飯田中央図書館と高森町図書館のみ。後者は2010年から2011年までのものだけのようだが、貸出可能だ。いっぽう飯田中央図書館の方は、閲覧可能な書棚には71号以降だけで70号までは書庫のようだ。さらに館内閲覧鑿と言うことで貸し出しは不可である。まだえつらんできる図書館があるだけましなのかもしれないが、いかにひと目につかないかよくわかる。こうした印刷物、現在は長野県内を拠点としている八十二銀行が発行している『地域文化』に似ている。こちらも昭和62年3月から発行されていて年4回の発行。実は県内を網羅している銀行だが雑誌はあまり眼にしない。銀行の待合室に置いてあるという代物ではなく、とくに南信地域では認知度が低いのではないか。

 さて、なぜ妻の実家に取材があったかというと、記事の「土蔵のある光景喬木村富田 味噌蔵」のためだった。2006年と2007年の目次を見ると「土蔵のある光景」という記事が毎号掲載されている。ようはその一つとして妻の実家の「味噌蔵」が紹介されている。もちろん土蔵もあるが、併設して「味噌蔵」も設けられている。味噌蔵というくらいだから味噌を貯蔵するために造られたのだろうが、主に飲食物の貯蔵用にあると言っても良い。味噌蔵を専用に設けている家がどの程度あるかはわからないが、記事には次のように記されている。

 味噌蔵には、二年物、三年物の味噌や漬物の桶や樽、漬け込んだ年が記された積年ものの梅干やラッキョウの瓶、果実酒やマムシ酒も並んでいる。自給自足の時代から続く自家製自家用の味噌や漬物は、誰にも真似できない味に育てられ、〇〇家独特の風味を醸し出している。味噌蔵は、毎日の暮らしの味を貯蔵し、熟成した品々が眠るところでもある。

と。義理の母は記事にもあるように漬け込んだ年を、あるいは瓶詰した日を記したシールを貼ったものをここに貯蔵していた。そのせいで妻も同じようなシールを貼って貯蔵するが、義理の母はたくさんこうしたものを味噌蔵に納めていたものだ。妻の実家にはこうした味噌蔵があったが、祖父の代に別家した我が家には、土蔵はあったが味噌蔵は無かった。ただ、やはり併設して蔵風に造った「味噌部屋」というものがあって、妻の実家と同じような利用法をしていたものだ。やはり土蔵の中には置けない、あるいは置きたくない飲食物用の貯蔵庫は、かつては欲しかったわけである。

『飯田・下伊那 生活と文化』2006年秋号(飯田信用金庫)より引用

 

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あまりひと目につかない印刷物 前編

2025-01-05 23:47:40 | 地域から学ぶ

 世間にはあまりひと目につかない印刷物が出回っている。そうした印刷物にけっこう良いものがあったりする。もちろん世間にあまり出回っていないので、引用されることもあまり無いわけであるが、研究誌でなければますます研究に利用されることもない。したがって文献一覧にそうした印刷物が取り上げられることもなく、残念だが埋もれてしまっている資料でもある。

 そういえば昔、妻の実家に取材があったという話は聞いていて、取り上げられた雑誌を見たことがあったのかもしれないが、すっかり記憶からは消えていた。年を越した正月に妻が戸棚の整理をしていて見つけ出したのがその雑誌。雑誌というよりは広報誌のようなものだが、前述したように内容はなかなかのもの。発行していたのは飯田信用金庫で、タイトルは『飯田・下伊那 生活と文化』というもの。その昔、どこかで眼にしてその際にも気にはなったものだったが、わたしには飯田信金との接点が無かったため、読むことも無かった。あらためて調べてみると飯田信金のホームページで紹介されているが、残念ながらバックナンバーを閲覧することはできない。2003年から2011年までのものについて表紙と目次一覧だけ紹介されているが、中身は見ることができない。2011年の夏号を最後に廃刊となっていて、紹介ページには「93号をもちまして終わります」と記されている。年間4冊春夏秋冬に発行されていた本雑誌は、1988年から2011年までの間発行されていた。

 前述したように取材を受けたのでもちろんその掲載号はいただいたものだったのだろう。その1冊だけ我が家に残されていた。2006年秋号である。毎号表紙絵は飯田下伊那でよく知られた場所が描かれている。同号は飯田松川の妙琴橋の紅葉の絵が描かれていて永井郁さんという方が描かれている。ずっとこの方が描かれていたようで、2010年の夏号から平岩洋彦さんという方に変わった。雑誌はA4版縦の幅だが、高さが数センチ短い変形版である。手元にあるものは表紙も含めて16ページ立てで、全面モノクロのページは1ページもない。何部発行されていたか不明だが、そこそこお金がかかっていたに違いない。編集制作が新葉社であるから、当時盛んに地域文化を伝えようとしていた風潮に乗った雑誌だったとも言える。なお、新葉社は平成23年に事業停止し、その後倒産している。ようは本雑誌が廃刊になったのは、新葉社が事業停止した時期と整合しているから、新葉社の倒産と関係しているようだ。

 本号の掲載記事は、次のようなものだった。

切り絵の四季花の情景
切り絵・文/藤野在崇
ふるさとの四季と自然松川町片桐ダム上(写真/佐藤信一)
21世紀の道標 子どもたちが健全に成長できる環境づくり
清内路の手作り花火(文・写真/松島信雄)
生命の誕生朱色は血の色に通じる生命源の色(投稿/清水秀人)
子ども風土記白っ栗(文・画/熊谷元一 ナナカマド画/熊谷忠夫)
土蔵のある光景喬木村富田 味噌蔵(文・写真/山本宏務)
風の地名風吹(文・写真/今村理則)
もう昔の話
鍬不取の老桑樹 (写真/宮下徹)

 

『飯田・下伊那 生活と文化』2006年秋号(飯田信用金庫)より引用

 

 この中でとくに興味深い記事は今村理則氏の「風の地名風吹」である。「風吹」は「かぜふき」とふり仮名がある。今村氏によると「カゼフキは全国の地図には一カ所も載っていない」という。しかし飯田下伊那の小字にはそのカゼフキが4箇所もあるという。「その一つ、天龍村神原の向方にはカゼフキ小字が三筆ある。いずれも村松春男さん宅の宅地とその周辺で、村松さんのお宅の屋号にもなっている。南西の風が強いという。風地名の多くは、避けたいもの、退散させなければならないものとして名付けられている。なぜカゼフキとしたか。焼畑と関連があると思われるが、それを証明するものはない。」という。風が吹くから単純にカゼフキと称されただけではないよう。今村氏は焼畑とのかかわりを指摘する。

続く

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西天竜幹線水路旧小沢川階段落差工 後編

2025-01-04 20:37:51 | 西天竜

西天竜幹線水路旧小沢川階段落差工 前編より

 写真では形状がわからないだろう。そもそも落差工の内部は半分ほど埋まっている。ということで、設置当時の図面を紹介する。もちろん図面は西天竜土地改良区で所有されているもので、ほかでは公開されていない。一部のみ形状をわかってもらうために引用させてもらった。

 

 

 図面は「尺」で表示されており、大正時代から昭和の初めまでは「尺」表示だったようである、農業関係の図面は。水路の幅は14尺=4.24メートルある。ブーメランのような形をした隔壁は23箇所あり、その形状は場所によって異なる。ようは勾配が4回変わっているため、勾配によって違っているようだ。細かい指示がされていて、計算されてこの形状は決められていると思われる。最も低い位置にある隔壁は、前編の3枚目の写真に写っているもので、高さが13.6尺=4.12メートルもある。この高い隔壁は末流に2箇所、中段の勾配がきついところに3箇所設置されている。図面にはこれを「Wall TipevB」と記しており、小さめの隔壁を「Wall TipeA」と記している。落差工全体の延長は407尺=123.33メートルある。流れとすれば隔壁の上部に水が溜まると隔壁上部を越流するわけで、言ってみれば滝のように見えるだろう、流れていれば。図面には橋が描かれておらず、設置する際に必要と考えて設けたものだろうか。階段工上部の水路勾配は「slope 1:5000」とあり、階段工したの水路勾配には「slope 1:40」と見え、下流側小沢川までの水路勾配がずいぶん急な計画であることがわかる。階段工内の底部には「玉石張」と書き込まれているが、現在その玉石張を確認することはできない。

 縦断図には計画高がやはり「尺」表示で書き込まれており、階段工上部の計画高は「2445.76尺」=741.14メートル。階段工下の高さは「2304.00尺」=698.18メートルとなっており、高低差は42.96メートルもある。上部と下部に擦り付け区間があり、その分を除くと水平距離115.45メートルの落差工であり、段丘の勾配は約1:2.7である。

 なお、図面作成者は「S.sasakura」とあり、作成日については「Mar.1928」とある。昭和3年3月ということになる。

 

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山室の獅子舞を動画で見る

2025-01-03 23:59:38 | 民俗学

 昨年の正月は元旦から二日にかけて高遠町山室の獅子舞を訪れた。今年は訪問しなかったが、YouTubeに「加農屋風田」さんが公開していただいているので、今年の獅子舞の様子がわかる。今年は那木沢と新井に加えて宮原の獅子舞も公開してくれた。いずれの集落も隣り合わせた集落だが、いずれの獅子舞も同じではない。とりわけ宮原のものは特徴があるが、昨年も記したように、ずっと継承されてきたというよりは、途絶えていたものを再興したもの。見ての通り、演じている方たちももともとこの地域の方たちではないよう。その背景も宮原は少し異なる。もちろん那木沢も移住された方たちが加わっているし、新井もそうした方がかかわっているよう。

 宮原の獅子舞については昨年記した「高遠町山室宮原の獅子舞」を参考に見ながら、加農屋風田さんの動画を見て欲しい。今年の様子をうかがって思ったのは、頭を担われている方が昨年と同じかどうかはわからないが、幌を持たれている方がいずれも昨年の方とは異なる。その幌であるが、

「お先はなんと」
「猩々、悪魔っぱらい」
「中は、なかっぱらい」
「後は親父の借金払い」

と語りがあったあとに、幌を拡げてピンと張るところがある。幌をしっかり広げて大きく見せる、そんな舞い方が幌持ちには伝えられているのだろう。那木沢や新井の獅子舞では幌の中に人が複数人入って舞うが、宮原は二人の幌持ちが獅子本体から外へ出てずっと添っている。

 いずれの獅子舞も短時間の舞であるが、それぞれ特徴があって、面白い。加農屋風田さんに感謝である。

2025R7獅子舞那木沢

 

2025R7宮原獅子舞

 

2025R7新井獅子舞

 

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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****