Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ことしの〝松飾り〟

2025-01-02 23:50:36 | つぶやき

令和7年正月飾り

 我が家の今年の松飾りである。これを玄関にある柱に結わえ付けた。毎年玄関にある1本柱に松を結わえ付けてきたが、ここへ家を建てたばかりのころは、玄関先に杭を2本立ててそれに松と竹を結わえ付け、しめ縄を渡して紙垂を付ける、いわゆるこのあたりでふつうに行われている松飾をしたものだが、玄関先の柱に結わえ付ける簡略したものに替えて久しい。

 外出して世間の松飾りを見ていて気がつくのは、すでに昔風の飾りをちゃんとしている家は少ない。もちろん「少ない」という印象だけで、実際はまだまだ昔風の飾りをしている家もあるが、年々減少してきているのは確かだ。ようは年寄りが亡くなると次世代はしない、そういう感じなのだ。親に飾りの作り方を聞いていた人はまだしも、まったく気にせずにいた人たちにとっては、いきなり飾りをしようとしても難しい。とりわけ亡くなった翌正月は喪中で飾りをしないのもそうした家が減少していく要因になる。

 我が家ではわたしが注連飾りを作れないから、義理の弟が妻の生家のものと一緒にこしらえてくれる。今年は別居した息子の済むアパートへの飾りも用意してくれた。このところほぼ同じようなスタイルでこしらえていたが、年々リース風になってきている。以前は松と竹がもっと大きかったが、一体感のあるものに変わってきた。松、竹、南天、そして注連縄は円形となってオヤスも付く。いずれも小型化してきたが、そのぶん一体感が出てきて、このスタイルなら「松飾り」として販売できるかもしれない。こうして松飾が時世にあわせて変化していくのも成り行きだと思うし、それほど材料を要しないという面では良い変化ではないかと、わたしは思う。

コメント

年賀状じまい 後編

2025-01-01 23:14:56 | ひとから学ぶ

年賀状じまい 前編より

 元旦に年賀状が届くように用意していないわたしが言う資格はないかもしれないが、近年は届いた年賀状に返信するように年賀状を書いている。忙しくてとても年内に正月の気分にはなれないせいもある。定年したのだから余裕でいたのだが、やはり今年度は無理だ。来年も同じことを書いている可能性もあるが、それをしないために今は努力をしている。

 やはり「年賀状じまい」を宣言される年賀状が何枚かあった。もちろん高齢の方から「今年で…」というものもあるが、若い人からも同じような告知がある。やはり自分より遥かに年下の方から宣言されると、気分はよくない。前編でも記した通り、年賀状しか通じる手立てがない人からの告知は、つまるところ絶縁にも聞こえる。それでもいいと思う関係だが、絶縁されるという感じが気分が良いはずもない。年の初めからそんな気分にさせてくれるのだから、こちらから絶縁したいものだ。そのくらいなら「出さなければ良いのに」と妻に言うと、「そういうものじゃない」と言うが、たかが年賀状1枚でも、送るという行為をしたからには相手に気分を害すような告知はしてほしくない。そもそもかかわりがなくなるとすぐに年賀状を出さない人も多い。今までお世話になってもだ。ということはそもそも年賀状とは「何」?ということになる。ようは出すのは辞めようという根拠があるわけで、それでも告知して「辞めます」と言ってくれる人の方が、まだ丁寧だと言えば、確かにそうかもしれない。

 今どきだから「「年賀状じまい」が届いた時の作法、どうすれば?」というアドバイスもネット上には多い。そんな中に「来年以降は年賀状は出さない方がよいでしょうか」という問いがある。「私は送らないし、あなたも送らないで」と捉えるのなら、当然送るべきではないのだろうが、近況報告を兼ねて年賀状で伝えてきたのなら、返信を断りながら出せば良い、というアドバイスがある。人はそれぞれで、礼儀として必ず返信しなければならないと考えている人には、やはり迷惑になるのかもしれないが、年賀状でなくとも手紙は近況報告など意図があって出すもの。そうした事例と捉えればあくまでも年過剰にこだわる必要も無いということになる。そんなことを考えていて思い出したのは、そういえばずいぶん昔、年賀に併せて手紙を送っていたことがあった。年賀状を併せて出していたか記憶にないが、正月なら少し余裕をもって読んでもらえるかもしれないと考えて、正月に届くよう狙って投函していた記憶がある。とすれば年賀状を、いわゆる「年賀状」ではなく、自分スタイルの新年のあいさつに変えれば良いだけのこと、とも思う。もう少し歳をとったら、そんな仕掛けに変えていきたいと、元旦に思った。

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****