就活鶴丸ゼミ・社会人基礎力養成講座

大学生・大学院生のための就活指導
社会人基礎力養成講座

歴史に学ぶ。ニート・ホームレス対策と寛政の改革!

2008年04月11日 00時47分48秒 | 就活鶴丸ゼミ
前回までの24・・・じゃなかった、あらすじでつ。

もともと大学に行くべきではなかった者や、そもそも何のために大学に行くのかを全く考えていないような者までが大学に行くようになったことの当然の結果といえよう。
希望さえすれば誰でも入れる大学が見つかる「大学全入時代」の弊害が今起こっている。

テポ先生からの回答
江戸時代の教育は貧富差に関わらず、初等教育が明確な社会教育になっていた点、またその教育機関の普及率と高い識字率(60%)が明治維新・文明開化の原動力であると高く評価されている。

そして今回
フリーター、ニート、大学に本来ならいくべきでない者など
現代社会の抱える諸問題の解決の糸口を、
松平定信の「寛政の改革」から学びまつ!

愚者は経験に学び、鶴は歴史に学ぶしかないようでつ。

碩学テポ氏も指摘したとおり、
明治維新成功の背景には、実は江戸時代の

労働生産性や教育水準の高さがあり、

マニファクチャーやギルド(組合)の成立があり、

「近代化への萌芽」は、すでに江戸時代に始まっていたという点は鶴も恩師から学生時代に学びました。小論文・東大記述対策では重要でつ! 今年の東大日本史で寛政の改革出題されていました。

都会にあこがれ、挫折し、満喫→ホームレスになるという問題に対して、江戸時代には画期的な政策を行っていた!

「100万人都市」江戸は当時の世界でも屈指の巨大な消費都市。
江戸に行けば「仕事にありつける」「生活が今より豊かになる」と考え、
多くの人々が江戸に流入し、一部がホームレスとなるケースが社会問題化します。
この現象を目の当たりにした徳川幕府は、(松平定信ですが)

「旧里帰農令」を発令し、石川島(現在の中央区)に「人足寄場」を設置。

・旧里帰農令とは、地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させ、江戸から農村への人口移動を狙った政策。

江戸から見れば「働かない者は田舎へ帰れ」という庶民に厳しい政策だが、
視点を変えて見れば、過疎対策、人材確保対策にもなる画期的政策でもあります。

現代の日本の抱える問題とクリソツ!
ならば現代社会の抱える上記諸問題を一挙に解決するための政策として、
「平成版帰農令」こそ最良の政策か????
野郎ども!田舎に帰り食料自給率を上げよ! 「小麦を食うな!米を食え!」てか?

・人足寄場とは、ホームレスを石川島に設置した宿場に集め、更生社会復帰させる現代でいうところの自立支援施設。
軽犯罪人達を収容し、(400人収容)彼らが新たな犯罪に走らぬよう身柄を拘束、劣悪な生活環境の下、重労働を強いることでホームレスでいることの意味を自覚させ、ホームレスから更生させ、社会復帰させるというもの。

余談になるが、一度自殺を試みて未遂に終わった者は二度と自殺しないという内容の評論読んだ記憶あったぞな!近年では、生きることの意味をユニークな試みで問うた「戸塚ヨットスクール」の存在があったか!

とにかく、今日叫ばれている「弱者のセーフティネット」を定信は江戸時代に既に実施していた!

「寛政の改革」は、現代社会の問題につて、鋭く、分析的に小論文で書き上げるための具体例としては最適!

読者コメントより・・・・
歴史上の事実は現代に当てはめると何に当たるのか、ということを考えながら歴史を学ぶと、
こういった共通点が見えてきて、知的好奇心を刺激しますね。

「日本史を知らない」じゃ済ませられなくなってきました…


就活生よ、靴を磨き、己を磨け!

2008年04月09日 15時17分48秒 | 就活鶴丸ゼミ
靴を磨き、己を磨け!ベルルッティの靴

過日、銀座並木通りで「ベルルッティの靴」に出会い、全身がしびれるような衝撃を受ける!
鶴が長年探し求めていた、ギリシア神話に出てくるヘルメスの翼のはえた靴に限りなく近い靴!
その名は「フィルダリアーヌ!」
アリアドーネの糸で迷宮を抜けてテセウスを帰還させる道標となった糸をモチーフとして刺繍を施した最高峰の靴!
色は、バーミリアン=朱色 =猩々緋
   
        靴を磨き、己を磨け!是べルルッティの哲学!

http://www.berluti.co.jp/

閑話休題!

大学全入時代の到来!大学生の皆さん、よーーーーく考え、しっかり勉強して結果を出して!

今大學で起きている現実は、以下の記事にある通りだと鶴もおもいます。

「とにかく学生たちに勉強する意欲がない」
例えば、授業には出ても授業時間中教室内でずっと携帯メールに没頭している学生が大勢いるかと思えば、 授業中の私語のひどさも小学生並の状態にあるそうだ。
また、何か課題を出しても、軽くインターネットで答えが見つからないと「グーグルで探したけれど出ていませんでした」と当たり前のように回答してくる生徒等々、想像もつかないような事態が大学内で起きている。
難関校と言われる有名大学は軒並み生徒を増やしマンモス化の道をひた走る一方で、全国の私立短大や地方大学で定員割れが続出し、06年度には実に40%超の大学が定員割れに陥っている。
「大学全入時代」の裏で、経営的には大学間の勝ち組と負け組の両極化が進んでいる。
そうした状況の中、大学側も、あの手この手を講じて、生徒確保に奔走している。従来からの一般試験やセンター試験、推薦入学に数々のバリエーションを加え、何か一科目でも得意科目があれば合格しやすい制度を作り上げた上で、更にAO入試という新たな枠を設け、学力を問わず誰もが大学に入れる状況を作っている。
特にAO入試は1990年に慶応大学が最初に導入した当初は、学力テストでは測れない才能を発掘する画期的なシステムとして評価も高かったが、次々と他大学が導入するうちに、評価基準の曖昧さが災いし、文科省が制限を加えている推薦枠の抜け穴として多用されるようになっている。



もともと大学に行くべきではなかった者や、
そもそも何のために大学に行くのかを全く考えていないような者までが大学に行くようになったことの当然の結果!
希望さえすれば誰でも入れる大学が見つかる「大学全入時代」の弊害が今起こっています。

そして今年もいよいよ予備校・大學での授業が始まります!

吉田松陰先生の如く、

1人ひとりの適性を見抜き、

おのおののやる気に火を点じていけるよう

幸運を呼ぶ風水の力を味方に 2008年北京五輪の年も

現代文・小論文・就活で

G1馬を多く輩出し続けよう!


マスコミ受験生必見!ブッシュとキリスト教右派→ネオリベ

2008年04月08日 03時29分56秒 | 小論文キーワード
☆新自由主義(neo liberalism)

[意味][解説][知識][着想]の4つのフレームワークを通してしか書かない訓練をすることです。あとは書いても加点の対象にならないとわりきりましょう!
詳細は「そのまま使える小論文キーワード2500」(学研辞典編集部)参照

[意味] 政府の積極的な民間介入に反対し,個人の自由と責任に基づく競争と市場原理を重視する経済思想.新保守主義と同義.

[解説] 新自由主義とは,政府の経済への介入を抑制し,規制緩和を推進し,
従来政府が担っていた機能を民間に委ね,小さな政府を実現していこうという考え方である.
経済面において政府による市場介入を認め,所得再分配により,平等と福祉の権利を尊重するという
それまでの福祉国家的リベラリズムの行き詰まりから,1980年代にイギリス、アメリカで台頭した.

1971年のドルショック@を契機(けいき・きっかけ)とする変動為替相場制@への移行や,2度にわたるオイルショック@(1973年・1979年)により,イギリスでは英国病といわれる慢性的不況に陥り財政赤字が拡大し,
アメリカではベトナム戦争後の経済政策の失敗により,スタグフレーション@が進行し,失業率が増大していく.
このような状況の中,両国では国家による市場経済への介入政府部門の肥大化が不況の原因だと考えられるようになり,それまでの福祉国家の理念が修正を迫られることになる.こうして新自由主義は登場する.
イギリスではサッチャー政権による「サッチャリズム」,アメリカではレーガン政権による「レーガノミクス」の下,
減税による生産力の増強,小さな政府の実現,規制緩和が進められ,経済の活性化が図られた.

また,中南米諸国でも累積債務問題に対処するため,
IMF(国際通貨基金)・世界銀行主導の構造調整計画を推進するうえで,
市場原理に基づく新自由主義への転換が進められ,経済の回復と安定に一定の効果を示した.だが、市場原理は弱肉強食の世界であり,経済的自由競争は弱者と強者との二極分化を進めていく.

アメリカでは90年代になると,空前の好景気を迎えたものの,国民の大部分の所得はむしろ減少した.国民のわずか1%に過ぎない人たちが富の約半分を持つ社会となった.
自由競争と市場原理を追求した結果,アメリカでは富の偏在をもたらし,多くの国民の自由を奪うこととなった.
中南米諸国でも,所得格差の拡大や貧困・失業率の高止まりなどにより失望感を高め,反新自由主義の潮流を生むこととなり,90年代後半には,市場原理を重視しつつも,教育・保険・貧困対策などを推進するため,国家の役割を見直す考えが広がっていった.

日本の新自由主義

日本では80年代に中曽根政権下において行政改革が進められ,
国鉄はJRに,電電公社はNTTに,専売公社はJTに,それぞれ民営化された.
これが日本での新自由主義の現れであった.
だが,日本で真剣に検討され始めたのは,90年代になってからのことである.
バブル崩壊し(1991年),平成不況によりデフレ・スパイラル@が進行し,
旧大蔵省が「財政危機」を宣言する(95年)頃になると,

大量の赤字国債発行@の問題や,少子高齢化@の問題が,国民の目にも明らかになってきた.
こうして,80年代に新自由主義を採用したイギリスやアメリカに遅れて突入した深刻な経済不況を打破するため,

日本でも小泉政権下で,膨大な支出を伴う政府主導の「大きな政府」から「小さな政府」への転換が図られ,
郵政民営化@をはじめとするさまざまな構造改革@が進められていく.
この「小さな政府」の基盤となっているのが新自由主義思想である.

だが,新自由主義により産業・金融・雇用など幅広い分野で規制緩和が行われ,
市場原理を推し進めた結果,
今日の日本では「勝ち組」と「負け組」の所得格差拡大が社会問題化している.

また生産効率を追求するあまり,低賃金で解雇しやすい派遣社員やフリーターが増加し,もはや国民の間の中流意識は崩れ,競争に敗れた「負け組」による下流社会の拡大を生み出している.

従来の福祉国家の下では,社会的弱者を守るセーフティネット(安全網)としての社会保障制度@が整っていたため,一定の生活レベルが保障されていた.

だが,深刻な財政赤字解消のため,今日では国の社会保障制度そのものが危うくなっている.このまま闇雲に経済的自由競争を進めていけば,格差が新たな格差を生み,国家に対する国民の「信頼」は失われかねない.それはモラルの低下にもつながっていく.

国民ひとりひとりの「安全」と「安心」をいかに確保していくのか

が,今後の重要な政策課題となる.

[知識]は次回に続く!

マスコミ・公務員試験頻出キーワード☆人権完結編!

2008年04月06日 17時12分58秒 | 小論文キーワード
人権完結編でつ

詳細はそのまま使える小論文キーワード2500(学研辞典編集部)参照

前回までの24じゃなかった人権の流れは・・・・

① 貴族の特権から個人の人権へ→ジョン・ロックの社会契約説@

② 自由権から社会権へ→ワイマール憲法@

③ 法律による保障から憲法による保障へ→ナチズム@・ファシズム@でした

       そして今回が最終章!

④国内的保障から国際的保障へ→世界人権宣言・国際人権規約

第二次世界大戦後,人権思想の進展にともない,人権を国内的に保障するだけでなく,国際的にも保障しようとする傾向が広まっていった.
1948年には世界人権宣言が出され(法的拘束力なし),

1966年には国際人権規約(締約国は実施義務あり)が採択された。
国際人権規約は,A規約(経済的,社会的および文化的権利に関する規約)とB規約(市民的および政治的権利に関する規約)そして,B規約に関する選択議定書(被害者個人の救済申し立てを認める)に分かれる.日本は1979年に,A・B両規約を批准(ひじゅん)したが,国内的事情のため,B規約に関する選択議定書には,司法権の独立等を理由に未批准.また,A規約の一部(祝祭日の給与支払い,公務員のスト権,高等教育の無償化)について留保した.
その他の主な人権条約を概観する.

・人種差別撤廃条約(1965年国連総会で採択,日本は1996年に批准)ただし,差別思想の流布や差別の扇動なども法的処罰の対象とするという条項については留保した.

・女性差別撤廃条約(1979年国連総会で採択,日本は1985年に批准)日本では批准にともない国内法を改正した.

・国籍法改正(父系血統優先主義から父母両系血統主義へ)・男女雇用機会均等法@の制定
・高校家庭科学習の男女共修化・男女共同参画社会基本法の制定→ジェンダー@

・子どもの権利条約@(1989年国連総会で採択,日本は1994年に批准)18歳未満の子どもに対する差別禁止,意見表明権,思想・表現・良心の自由等を規定.子どもを権利の主体としてとらえる.→少年法@

・死刑廃止条約(1989年国連総会で採択,日本は反対)死刑廃止を明文化した初めての国連条約.批准国には死刑廃止が義務付けられる.日本,アメリカ,中国,イスラム諸国は反対している.→死刑制度@

これら4つの歴史的流れをふまえ,日本国憲法における人権を考えると,その根本的価値観は

13条の個人の尊重の原理「すべて国民は,個人として尊重される」である.
全ての憲法の条項は,この個人の尊重という価値観に基づいて検討していく.

つまり,個人の尊重を実現するために,

憲法@では人権の規定を置き,

その人権を守るために

統治機構(国会・内閣・裁判所)の規定がある.

国民主権@・民主主義@・平等主義・福祉主義といった考え方も,この個人の尊重から導きだしていく.
    
[着想]  人権問題を考える際には,

どのような救済手段が

その個人の権利保障の見地から考えると最適なのかを

具体的に判断していく.

例えば子どもの権利を考える時,

一般的に子どもは成人と異なり,未成熟で自立できない.そのため子どもの成長には,親や国家等が保護・育成する責務を負うべきという保護主義の考えが伝統的に重視されてきた.

事実,子どもを取り巻く家庭環境が劣悪な場合には保護主義に基づく教育が要請される→.「少年法@」

だが,この方針を過度に重視しすぎると,子どもの自己決定権@を妨げる危険がある.
従って,子どもにも出来る限り成人並みの個人的自由を保障すべきであるという解放主義の考え方も必要になる.

こうして子どもの人権を保護主義で救済するのか,子どもの自己決定権@の尊重かという正反対の方針が出てくる.

いずれの立場にせよ,子どもがどのような環境の下で成長していくことが望ましいのかについては,両者に違いは見られない.
つまり,両者共,
子どもは「家庭環境の下で幸福,愛情及び理解のある雰囲気の中で成長すべき」であり,「社会の基礎的な集団」としての家族が,子どもの「成長及び福祉のための自然な環境として,社会においてその責任を十分に引き受けることができる」ことを理想としている
子どもの権利条約@前文).
このような環境が破壊されて,子どもの権利が脅かされたとき,

子どもの能力や社会環境を考慮して、

それを保護主義で救済していくのか,解放主義で救済していくのかを個別具体的に論じたい.

[注意]  人権の問題を論ずる際には,誰の,どのような人権が,誰によって制約され,その制約は許されるのか,ではどうすべきか,という思考で問題を検討していく.

国際的な人権の問題(北朝鮮による日本人拉致事件等)を論ずる際には,主権国家の存在がポイントになる.つまり,その国が近代憲法の基本原理を受け入れているか否かということが重要であり,それが思考の出発点になる.

[関連]  国際化・自由・法・憲法問題・少年法・死刑制度・ジェンダー・社会保障

[出題] 「少年法の厳罰化の是非」「自己決定と自由」「死刑制度の是非」

マスコミ・公務員試験頻出キーワード☆人権その2

2008年04月06日 17時04分16秒 | 小論文キーワード
人権

意味・解説・知識・着想4つのフレームワークでしか書かない訓練をして下さい。

[知識]日本国憲法が保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である(97条).そこで,基本的人権とは何かを明らかにするためには,人権宣言の歴史的流れを押さえる.

① 貴族の特権から個人の人権へ→ジョン・ロックの社会契約説@

人権思想はイギリスで最初に登場した.1215年のマグナ・カルタ@である.これは国王に対して,貴族が身分の特権の保障のためにつくった憲法である.

さらに1628年の権利請願,1689年の権利章典などが歴史上重要な位置を占める.だが,これらは個人の人権というよりは,封建的な身分の特権を保護するものであり,

近代的な個人の人権へと成長するには,ジョン・ロックの自然権思想,社会契約説の登場が必要だった.

 ジョン・ロックは1689年に「自然権,契約による政府,抵抗権の保障」をワンセットにした
立憲主義@の考え方を示した.

 一切の政治権力が存在しない自然状態では全ての人間が平等である,と考えたロックは,人間が生まれながらにして持っている生命・自由・財産に対する権利を「自然権」と呼んだ

(この考えが,1776年のアメリカ独立宣言@に引き継がれ,生命・自由・幸福追求の権利として保障され,日本国憲法13条@にも引き継がれている).

だが,統治者のいない自然状態では紛争が起きてしまい自然権を守るのが難しい.そこでこの自然権をより確実なものとするために,市民が相互に社会契約を結び政府に権力の行使を委任した.ところが,契約によって成立した政府が,必ずしも国民の生命・自由・財産を守ってくれるとは限らないため,権力を恣意的(しいてき・自分勝手)に行使して国民の権利を不当に制限する場合には,国民は政府に抵抗する権利,つまり抵抗権を使って新しい政府を樹立できるとしたのである.
 こうして,18世紀末の市民革命(1776年のアメリカ独立宣言や1789年のフランス人権宣言)により,個人の人権という考えが生まれた.          

② 自由権から社会権へ→ワイマール憲法@

人権の中身をみると19世紀は自由権が中心だった.これは当時の人権宣言が絶対王政からの解放を目的としていたことによる.国家からの自由を保障し,消極国家という国家観に基づき,国家はできるだけ介入しないほうが人権保障になると考えられていた.

しかし,20世紀になると,資本主義経済の矛盾が露呈し,社会的・経済的弱者の救済を救うために,国家が積極的に介入していくほうが望ましいと考えられるようになった.そのため自由権だけでなく社会権まで保障されるようになった.
その契機(けいき・きっかけ)となったのが1919年のドイツのワイマール憲法で,世界で初めて「社会権」を保障した.

「人間たるに値する生活」(151条)「所有権は義務をともなう.その行使は同時に公共の福祉に役立つべきである」(153条)という規定である.

③ 法律による保障から憲法による保障へ→ナチズム@・ファシズム@

19世紀になると,ヨーロッパの国々では法律による権利の保障という考え方が有力になる.議会がつくった法律によって行政権から国民の人権を守るという考え方である(形式的法治主義).
民主主義が発達してくると議会に対する強い期待が生まれてきたのだ.
また表現の自由を中心とする精神的自由が保障されるようになっていたことも大きい.しかし,議会(立法権)に対して裁判所が歯止めをかけるという発想(違憲立法審査権)がなかったため,ナチズムやファシズムを生み出し,そのことに対する強い反省から戦後のヨーロッパでは,形式的法治主義ではなく,立法権からも人権を保障しなければならないと考えるようになった.つまり憲法による人権保障が謳(うた)われるようになったのである.

一方アメリカにおいては,そもそも独立の当初から議会への不信が根強かったため,法律からの人権保障,つまり憲法による人権保障の考え方が定着していた.
かつて,イギリスの植民地時代だったアメリカは,イギリス議会の植民地政策に対する反発から独立したという経緯からもわかるように,イギリス議会に対する不信というのが根本にある.
アメリカでは,議会に対していかに歯止めをかけるかという考えが当初からあった.
議会とホワイトハウス(行政府)を対等の位置づけにして(例えばアメリカの大統領には議会がつくった法律を拒否できる強い権限=拒否権がある)たとえ議会がつくった法律でも憲法に違反する場合には効力を否定する違憲立法審査制を判例上認めて確立した(明文上の規定はない).
このように,アメリカでは憲法により立法権からも人権を保障しようという考え方が早くから確立していたのである.