古来より
亥の月(旧暦10月)
亥の日(その月で初めての亥の日)
亥の刻(午後10時頃)
には和菓子の「亥の子餅」を食べる習わしがあります。
今日、11月7日は、旧暦初亥の日で、まさにその当日です。
なぜこの日に亥の子餅を食べるのかというと、『古事記』によれば、第15代天皇である、応神天皇さまがお生まれになられた時、異母兄の麛坂王・忍熊王は、幼い応神天皇さまを亡き者にしようと謀り、その前にその企みが成功するか否かの神意を占う為、兎我野(斗賀野(記)・菟餓野(紀))に狩りに出て、良き獲物が穫れたら吉、獲れなかったら凶と定めて狩りをしました。これを「兎我野の誓約(うけい)」といいます。
ところが、その狩りの最中、どこからか怒った赤い猪が出てきて、麛坂王を食い殺してしまい、結果として大凶。後に忍熊王も討ち倒され、応神天皇さまは後年、無事天皇の位に就かれます。
無事に天皇の位に就けたのは兎我野のイノシシのお陰と思われた応神天皇さまは、その神恩を忘れぬ為に、亥の月(旧暦10月)亥の日に、イノシシの形(ウリ坊)に似せた亥の子餅を食べる事を吉例としたといわれ、既に平安時代には年中行事とされ、源氏物語にも登場するなど日本でも有数の古い歴史をもつ和菓子です。
実際には応神天皇さまの説話と亥の子餅との関係を記録した書物は悠遠の時代であった為か残っていませんが、宇多天皇の御代、つまり平安時代初期頃から宮中行事となったとみられ、近世においては、大阪の能勢から宮中に亥の子餅が献上されており、この能勢の地では応神天皇との伝承が語り継がれています。
その亥の子餅のそもそもの伝承の発端となった「兎我野の誓約」の地とは、当宮の氏地である「兎我野町」がその有力地と考えられており、いうなれば、亥の子餅は梅田とも所縁が大変深いお菓子といえます。
またこの初亥の日はコタツを出す日でもあります。そもそも亥の子餅は神恩感謝と、無病息災を念じて食べていたと考えられており、今年は立冬の日とも重なり、一気に冷え込みが強くなりました。どうぞこの時期に、亥の子餅を食べて滋養をつけ、足腰はコタツで温め、心身ともに健やかに暖かくお過ごし下さいませ。