綱敷天神社 禰宜日誌

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源融公ご生誕1200年

2022年08月25日 | 日記
今日、8月25日は当宮を創建された、源融(みなもとのとおる)公が薨去された日で、
そして本年は源融公のご生誕から1200年の年でもあります。
(源融公の生年については、史料によってまちまちで、ハッキリとはしていませんが、記録として古い部類である『日本紀略』をもとに計算すると、弘仁十三年(822)のお生まれとなり、この記事ではそれを元としております)

源融公は、嵯峨天皇さまの第12皇子(史料によっては17皇子とも)で、承和五年(838)に腹違いの兄にあたる仁明天皇の養子となられ親王として元服。恐らくその時に臣籍降下され、「源氏」の姓を与えられたとみられています。 嵯峨天皇さまの系譜による源氏なので、源融公の系統は「嵯峨源氏」ともよばれ、全国の渡辺さんのご先祖にあたります。
 
平安初期の貴公子として知られ、自邸の河原院は四町四方あったといわれ、今の京都の五条大橋の西南の一角に巨大な邸宅を構えられていました。
当時はこのあたりを六条といいましたので、後に書かれた『源氏物語』の主人公、光源氏の邸宅である六条院はこれをモデルにしたと考えられおり、源融公は光源氏の有力モデルであると考えられています。
 
また源融公が遥任していた、陸奥出羽按察使に由縁してか、自邸の庭を宮城県の塩竈市の風景を模して作庭され、その塩竈で行われる藻塩焼きという製塩風景を取り込むべく、庭内に製塩の為の竈を造り、難波の海(現在の尼崎市琴浦町付近か)から毎月30石(約5トン)の海水を運ばせ、塩焼きの風雅を楽しんだといわれています。 
また、この庭はそれまで中国式の庭園が多かった中、日本の景色を取り込んだという点で、日本庭園のルーツの一つともいわれています。
 
また、百人一首の14番「河原院左大臣」は源融公の事で、陸奥の「陸奥の しのぶもぢすり誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに」という歌も名歌として歌い継がれていおり、他にも古今和歌集、後撰和歌集にも採録されています。
源融公は多くの別邸も営まれており、別邸1つである栖霞観は、現在の嵯峨釈迦堂清凉寺で、宇治に営んだ別邸が現在の平等院となったといわれています。
 
このように、現代にもかなり大きな影響を残しておられる方である事から、平安時代当初からも伝説の貴族のように捉えられており、仙人になりそこねた人であるとか、宇多天皇に奨めた露蜂の話、自邸の河原院にちなむ説話など数多く残されています。
 
長くなりましたが、そんな源融公が、お生まれになった1200年前、梅田に嵯峨天皇さまが行幸され、その前年に開創された弘法大師空海のお寺にお参りになられ、その夜は、現在の当宮御本社の鎮座する神山に建てられた頓宮に宿泊になられました。
 
恐らくですが、ご自身が生まれた年に嵯峨天皇さまが行幸された地である梅田に、ご自身の由縁というものを強くお感じになられたのか、嵯峨天皇さまが崩御された翌年の承和十年(843)、空海のお寺を八町四方に規模拡大し、七堂伽藍を興しました。これが現在の太融寺です。 また御父、嵯峨天皇さまの御神霊をお祀りする為、当宮を創建したというのは、当宮の由緒の通りです。
 
その源融公のご生誕1200年の今年は特別な年ともいえ、本日、当宮におきましては、藻塩の故事に由来して、御神前に塩竈の藻塩をお供えし、祝詞奏上申し上げました。
 

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