文政4年(1821)6月に、茶屋町の当宮御旅社にございます石灯籠2基が奉納されました。今月はそれからちょうど200年です。
石灯籠には、
①相上村屋由兵衛
②塩屋卯兵衛
③芋屋勘右衛門
④芋屋市良兵衛
の奉納者4名の名が見えます。
実は芋屋と塩屋の名前は石刻がはっきりと見えていたのですが、あとの1名。相上村屋の名前は石刻が薄れてきており判読がかなり難しくなっていました。
今回200年の節目にあたるので、この文字をきちんと後世に残す為に拓本を取りましたところ、はじめて相上村屋由兵衛の名前がハッキリと表れ、ようやく4名の名前が確認出来ました。
しかしこの相上村。一体どこの村なのかと調べてみましたところ、関西圏には同名の村は無く、なんと遠く、埼玉県熊谷市にあった村の名前と判明しました。
何故そんな遠くの村の名前を冠す方が、大阪梅田に石灯籠を奉納したのか。当時の相上村については遠地という事もあり資料はあまり確認出来ませんでしたが、相上村について調べていくと、
古くは平安時代の延喜式に記載されている、横見神社の論社、比定社とされている吉見神社が村内に鎮座しており、また周辺には古墳などもある事から、相上村周辺はかなり早い段階から開けた地であった事が分かります。江戸時代には前橋藩の藩領となり、北を流れる利根川、荒川、吉野川の水害に度々悩まされていたようで、相上堤という堤防や、また当宮に石灯籠が奉納された14年後の天保6年(1835)に、水害から免れた神恩感謝で舞われた相上神楽(熊谷市指定無形民俗文化財)などが伝えられており、水耕地であるものの、水害に悩まされていた土地柄であった事がわかります。このあたり、度々淀川の氾濫に悩まされた梅田とも近しいものがあるようにも思えます。
享保19年(1734)、青木昆陽の指導のもと救荒作物としてサツマイモの栽培が急速に広まっていき、寛延4年(1751)頃からは埼玉県川越市で大規模な栽培が開始されます。相上村はこの川越市から20kmしか離れておらず、日帰りでも移動出来る距離である事から、早い段階でサツマイモの栽培は始められていたものと推測されます。また中山道に接していた事から、大坂方面にも交通の便は取りやすかったようです。
安永2年(1773)頃には江戸庶民の間でもサツマイモが親しまれ、芋屋という商売が成り立っていた事が当時の小咄本などから伺われ、この頃には相上村もサツマイモの栽培地として成り立っていたものと思われます。
寛政年間(1789-1801)になると、関西にもサツマイモは伝わり、尼崎を中心に栽培され、俗に「尼いも」とも呼ばれていたようです。
これらを総じて考えますと、この石灯籠が奉納されたのは文政4年(1821)。大坂梅田にサツマイモが到来していてもおかしくなく、また相上村屋の名前が判明した事で、この芋屋の石灯籠は、埼玉の人が伝えたサツマイモゆかりの石灯籠である可能性がかなり高くなりました。
想像ですが、
埼玉の相上村のサツマイモの種イモを、郷里を屋号にした相上村屋由兵衛さんが大坂梅田まで伝え、それを元に芋屋勘右衛門、芋屋市良兵衛の二人が栽培と販路を整え、塩屋卯兵衛さんの塩を使って、芋を塩ゆで、塩蒸しして販売し、ある程度大きな商売が出来た事から、その神恩感謝を込めてこの石灯籠を奉納したのではないでしょうか。
以前は、江戸時代の芋屋なので里芋農家の方が奉納された石灯籠とばかり思っておりましたが、200年目の節目で、サツマイモを通じての大阪梅田と埼玉の思いもかけない繋がりの発見となりました。当宮では今後、敬愛を込めてこの石灯籠を「御芋灯籠」と呼びたいと思います。
そして今日6月25日は天神さまのお誕生日である御誕辰祭(ごたんしんさい)が執り行われる日であり、折角の機会にと御神前にも焼き芋を献りました。なおこの焼き芋は角田町の歯神社の隣の焼き芋専門店の蜜香屋バタータスさん(http://mikkouya.com/)のもので、この芋灯籠のお話を申し上げたところ、お供えにと献供くださいました。
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